第4章 /  LOST

 

 

 

 

 

 

T

 

 

 

絶叫が肺から出尽くして、彼はただ呆然としていただけだ──

 眩暈にも似た焦燥感が脳髄の奥をちりちりと焦がす。

「り、凛──?」

 暗い闇の中、凛の体が、子供に捨てられた人形のように力なく地面に転がっている。視界が利かないのは、明かり代わりにしていた懐中電灯がここに来るまでのトラップで破壊されていたからだった。それでも問題はなかったのだ──凛が魔術で明かりを生み出していたから。でも、暗い。そうだ、だって凛はそこに倒れていて──

「凛……!」

 叫ぶと同時、体を起こして慌てて駆け寄る。どうやら自分は倒れていたらしい──

全身を激痛が襲うがそれは無視した。一歩進むと、どろりとした感触と共に右の視界が奪われた。どうやら血が目をふさいだらしい。つまり、額か、頭かを負傷しているということだ。そういえば頭部にも激痛がある。だが、今はそれどころではない──

「おい、しっかいしろっ!」

 叱咤して彼女の肩を抱きあげて──思わずぞくりした。

 何度も抱いていたはずの体は、覚えているものよりも随分軽かった。理由は明確だった──だって、血がこんなにも流れている。それに──

「……凛……?」

 恐る恐る、視線を凛の顔から下へと下げていく。それにつれて、赤い色の度合が増えていく。首は右半分が血にまみれていて、胸はもう、ほとんどが赤く染まっていて、お腹に至っては何もなくて──

「え……………………………………?」

 言葉だけが、零れ落ちた。

 ない。そこにあるはずのものが何もない。駄目だ──そんなに。だって、そこは──

「そんな……」

 吐き気を覚えたことがさらに頭痛を酷くする。そこには何もない。腹部の右半分が(・・・・・・・)まるごとない(・・・・・・)。冗談のようにぽっかりと真紅の穴が空いている。

 血が、ごぼごぼと零れて落ちている。

 凛はもう意識はない。

 だが、呼吸はまだ僅かにある。

(まだ死んでいない──まだ、助かる……!)

 だが、どうすればいい。どうすれば助かる──!?

 助けるためには──そうだ、治療しなければ。だが、自分に何が出来る。こんな重症──いや、致命傷だ──なんて、治す方法なんて──

“問おう、貴方が私の──”

「っ投影(トレース)──」

 思いついた瞬間に、実行し始めていた。

全魔力を総動員して、式を組み立てる──

「──開始(オン)!」

 っギイン!

 生み出されたのは、金色の鞘。

全て遠き理想郷(アヴァロン)──自分の知る限り最高の治療効果を持つ道具だ。そして。

「が……ぎっ………!?」

 投影魔術が形を成した瞬間、魔力回路が悲鳴をあげて、全身を激痛が余すところなくのたうち回った。血が口から溢れ出て呼吸が上手く出来ない。自身の限界を超えたモノを生み出そうとした反動が、体の中で狂ったように暴れまわる。だが、そんなことはどうでもいい。生み出された鞘を凛へと押し当て──そして鞘は、その効力を発揮することなく、あっけなく消滅した。

「ば、か……意味、ない……でしょ、それ…………」

そうだ。全て遠き理想郷(アヴァロン)はセイバーの宝具。彼女の魔力がないと治療効果はないに等しい──結局、残った力の大半を使った投影はただの徒労に終わった。だが、それでもいい。そんなこともどうでもいい──凛は目を覚ましてくれたのだから。

「凛……!」

 顔を近づける。

「ぐ、ぁ──────────────」

 凛は無事な左手を動かし、いつの間にか地面に落ちていた宝石を握り直した。ルビー。最後に残った宝石。

「──……、……………っ!」

 声になっていないくらいの、掠れた言葉(じゅもん)

だがそれでも傷口は、一応ふさがれた。

だが──、恐らく、それだけだ。

内臓と皮膚と、必要最低限の修復が行われただけ。全身に残った傷はそのものだし、何より流れおちた血は相当量あった。即死しなかったのが不思議なくらいの致命傷を、宝石一つでは治しきるのは無理だった──。

「そ、そうだ──早く……脱出しないと。治療しないと……っ」

 混乱しそうになる頭を必死に抑えつけて、呻く。まずは──そうだ。凛を運ばなければ。ぐったりとしている凛の体を背負いあげようとして──そして結局立ち上がれずに、そのまま倒れ込んだ。砂が口の隙間に入り込んだ。唾液と共に吐き出して、腕に力を込める。だが、足が言うことを聞かない。体が重い。凛の体はこんなにも軽く薄くなっていると言うのに。どうして言うことを聞かないんだ──。

「あ……これ、だけ、でも……………」

 背中の上で、凛が何かを呟いている。金属音が聞こえたような気がした。だが、振り返る余力はもうどこにもない。まずは立ち上がる必要がある── 

「……逃げるぞ、凛……」

「………ん、まか、せた……」

 聞こえるか聞こえないかと言うくらいの弱い囁き声。焦燥感が拭えない。

「……ねえ、士郎?」

「なん──だ?」

 歯を食いしばって、腕立てふせの要領で体を持ち上げ──そこから足を引き戻し、なんとかしゃがんだ態勢へと持ち直した。

「うん……あのね」

壁に手をつき、そこを支えとして体を持ち上げる。相当な労力を要して、なんとか立ち上がることには成功した。

 一歩……踏み出した。

 同時に、鈍く重い痛みが脳幹を揺さぶった。

 凛が何かを囁いていた。

 頭痛がひどい。ひょっとしたらかなり深く傷を負っているのかもしれない。致命傷なのかもしれない。

だが、そんなことすらもがどうでもいい──

暗闇の中、ただ進み続ける。

背中で、凛が、何かを囁くのを聞きながら、ただゆっくりと歩き続ける。

歩いて──歩いて──ずっと歩き続けて──

ふと気づけばいつの間にか、暗闇から抜けだしていた。

黒くて冷たい空の下、また歩いて──歩いて──

そして、

気付いたら、

草原に立っていた。

雨の降る草原で、我に返った。

そして、

気付いたら、

凛は死んでいた。

泣いたはずだ。悲しんだのだと思う。

でも……その時は──そうだ。

その時の記憶がなかったから、訳がわからなかった。

訳がわからないうちに、凛が死んでいた。

訳がわからないまま、歩き続けた。

訳がわからないうちに、リンが隣を歩いていた。

訳がわからないうちに、村へと帰ってきた。

訳がわからないまま、リンと一緒に、凛の死体を埋めた。

そして

 訳がわからないまま、自分の中の何かが、崩れて壊れる音がした。






 

U

 

 

 

「…………………………ああ、そうだ」

 目覚めは不快だったが妙に頭の中は冷えるほどに冴えわたっていた。ひどく落ち着いているのを自覚する。

 自分の手。

 いくつもの傷がついた手を見下ろす。一度握り、そして開く。何かを確かめたかったのかもしれない。

(……あるいは、確認したかったのかもな……)

 皮肉げに口を歪ませて、額の手の甲を当てて目を再び目を閉じる。

(……そうだ、あれが(・・・)現実だ(・・・)──)

 ……思いだしていた。

 少なくともそれが何だったのかは把握は出来ていた。

 夢は夢ではなく。

見えていたものは本物ではなく。

つまるところ要するに──、望んでもいないと言うのに失くしていた記憶は、気がつけば復活していた。

(夢じゃあ……ないんだ……)

 脳髄に、何かがすっと差し込まれるような。

 愕然としていることは──自覚してはいた。ただ、動揺は抑えきれそうにない。とてもではないが落ち着いてなどいられやしない。叫んで、何もかもを破壊し尽くしてやろうか──半ば本気でそんなことを考えつつ、それでもゆっくりと目を開く。

 ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた天井だった。

 どうやら凛の部屋に寝かされているらしい。

 それが何かの意味を持つのかどうか、少しだけ考えてから、反対方向へと視線を向けた。だが、そこにはただ壁があるだけだった。リンの姿はない。

(……リンは……)

 ぼんやりと、思いを馳せる。

 きっと自分はこれから泣くことになるのだろう──そう思っていたが、何故だかいつまで経っても涙が浮かんでこなかった。何故なのだろう。あんなにも悲しかったはずなのに。

(……なんでだろうな)

 ごろりと寝がえりをうつ。起き上がろうと言う気にはなれなかった。途方もないくらいの虚脱感に身を任せるのは決して不快ではなかった──そうだ、眠ろう。眠ってしまえば、何も考えなくて済む。そう思い、再び夢の中へと戻ろうと目を閉じる。

 雨の音が心地よい。このまま死ぬまで眠り続るのも悪くない──

「……士郎君?」

 扉の方から声が聞こえてきたが、返事をするのも面倒だった。そのまま無視する。

「あの。起きたんですか?」

 声はバゼットのものだった。考えるまでもない──もうこの家には自分と彼女しかいないのだから。そうだ、リンはもういない……

「なんで……消えたんだ……」

 ふと気づけば、そう呟いていた。

 バゼットはおずおずと口を挟んで来た。

「あの──、一体何があったんです? どうして士郎君が──」

「……リンは」

 質問に意図的に言葉をかぶせて、唸った。

「リンは、今どうしてる?」

「…………」

 返ってきたのは沈黙だった。どの道、期待してのことではない。ただの確認だった。

「……やっぱり……いないんだな……」

 体の力がさらに抜けるような感覚。

「なんで……消えたんだ……」

二回目だ、と思いながら呻く。ぽつりと呟いたその一言に、バゼットがフォローするように優しく告げてきた。

「……きっと、ほら。ちょっとふらっと散歩に行って、迷子にでもなってるんですよ──」

 その一言で、腹が立たなかったと言えば嘘になる──そんな気休め、真っ平だ。慰めるつもりがあるのならばもう放って置いて欲しいと言うのに──。

「目の前で……消えたんだぞ……どこにそんな余地がある……っ!」

「……………」

 唸るように告げてやると、バゼットは沈黙した。

「消えたん、だ……」

 言葉にして、そしてまた、愕然とする──リンは、消えた。

 それが、現実。

 夢などではない、現実だった。

「名前を──名前を、呼んでくれたんだ。しおー、って。呼んでくれたんだ……」

 何が言いたいのかわからないまま、気付けばそんなことを呟いていた。同情を欲しているのではない──決してない。ただ──ただ、何か……

「士郎君……」

「夢を……見ていたんだ」

 そろそろと、確認するような慎重さでもって囁いた。

「え?」

「ずっと……長い夢を見ていた。そうだ、あれは……あの夢は、本物だった。本当に起こったこと……」

 どちらが夢だったのだろう。考えて自嘲する。

「……バゼット。答えてくれ」

 ようやく身を起こし、バゼットの方を振り向いて──士郎は尋ねた。

「あの子は──リンは、私の知っている遠坂凛じゃあ、ないんだな……?」

「……はい」

 バゼットは鎮痛な表情を浮かべていた。それが演技なのか本当にそう思ってのものなのかはわからなかったが。

 どの道どうでもいい──構わず士郎は口を開いた。誰でもいいから、話を聞いて欲しい。

「そうだ……思いだしたんだ……凛は、あの洞窟の中で、死んだんだ──。あの夢の方が、真実だったんだ……。あのリンは偽物で……でも──私は、それでもよかった……」

「……」

 バゼットは沈黙したまま、どう答えていいのかわからない様子だった。こちらも──何が言いたいのかわからない。こんなことを話して一体何になる。彼は繰り返した。

「それでも……よかったんだ………………………」

「──、士郎君」

 すっ、と息を吸い込んでバゼットはベッドへと一歩近づいた。

「彼女は幻影でした。でも、」

 目を伏せて、囁く。

「でも……貴方と過ごした時間は、本当だ。それは、紛れもなく事実です」

「──…………。」

 よく、わからない。

 彼女が言いたいことがわからない。

 わからないまま──気づけば、泣いていた。そう、思った。

 頬に手を触れる。

 何故か涙は、流れてはいなかった。






 

V

 

 

 

 バゼット・フラガ・マクレミッツは苛立たしげに嘆息した。

(そういう、ことか……)

 予感の正体に今更気づいたところでもう何もかもが手遅れだった──そのことを呪わなかったと言えば嘘になる──自分が宿に戻っている間に、リンは消えた。

 嘘だと思いたかった──夢とまではいかないにしろ。

だが、それが現実。リンはもう、いない。どういう形で消えたのはかわからない──聞けるはずもない。

士郎の家に戻ってきてまず驚いたのは、彼が居間に倒れていることだった。誰かの襲撃があったのかと思ったが、その可能性は薄いということにすぐに気づいた。室内には争ったような形跡は一切なかったからだ。ただ、リンだけが消えていた。それらの事実から何があったのかを推測するのは決して難しいことではなかった──外れていることを願ってはいたが。

(何も……こんな急に消えることもないでしょうに……)

 自分勝手な愚痴だ──自覚しながらも、唸る。

 士郎はただ項垂れている。

 声をかけるべきなのだろうか。そっとしておくべきなのだろうか。自分には判別出来ない。結局その場に立っているしかない──。

(記憶が復活した……それは間違いないはずだ……凛さんが死んだことも、あの凛さんが幻影だったということにも気付いてくれた……何より、士郎君が無事だった……発狂するかと危惧していましたが、杞憂だった──結果だけを見れば、これ以上ないくらいの出来だ。そのはずなのに……)

 ──駄目だ。自分がしっかりしなくては。一番悲しんでいるのは彼なのだ。

 感情を切り離すために、一回息を吸い込んだ。そして一歩近づき、出来る限り柔らかい口調で囁く……

 いや、囁こうとして、止まった。

(何と慰めればいいと言うんだ……どんな言葉をかけた所で陳腐にしかならない……そんな慰めなど、何の意味もない……)

 項垂れた士郎は先ほどからぴくりとも動かない──ともすれば死んでいるかのように。

「士郎君……?」

 自分の幻想に戸惑いつつも、思わず問いかけた。

 目の前の男はその声に僅かに髪を揺らした。それだけだが──それで十分だった。自分の声は確かに聞こえている。それならば、会話は可能なのだから。

 そっと体重を預ける軸足を変えつつ、語りかけた。

「あの……士郎君、日本に──、日本に帰りませんか……?」

 士郎は反応しなかった。

 バゼットはめげずに続けた。知らず、声に力が入っている。

「貴方の帰りを待ってくれている人がいます……! 傷ついたその穴は埋められなくても、時間をかければ浅くすることは出来るはずだ──」

「……………」

「何も今すぐにと言うわけではありません。貴方がその気になるまで、私も付き合います。時間はあるんだ──ゆっくりでいい、少しずつでいいんで──」

「──駄目だ」

 そう言ってこちらの言葉を遮ったのは、士郎ではなかった(・・・・・・)──

「え」

 思わず、声のした方を振り返る──

 部屋の奥。まともな明かりのない部屋はただでさえ薄暗く湿気ているが、まるで空気までもが淀んでいるのではないかと言うくらいにソレは判別がつかない。荷物と荷物の隙間。あるいは壁の前に寄り掛かるようにして、誰かが立っているように思える。幻だ──瞬きをし、改めてそちらを見やる。

 隙間の明かりの届かない場所に、誰かが立っている……

(誰だ──!? いや、そんな馬鹿な……気配など全く感じなかった──まさか……!?)

 気配遮断に長けている者とは、つまりは対象に気づかれず接近する必要のある者だ。優れた狩人や戦士、無論の事魔術師もその術に長けている者は多くいる。が、ここまでの近距離で完璧な気配遮断を行える者など──少なくとも魔術師二人を相手に出来る者などそうはいない。

暗殺者(アサシン)──!?)

 瞬時にそう判断し、士郎と暗殺者を結ぶ直線状に身を割り込ませつつ戦闘態勢を取る──だが、意味がない。いくら気配を殺したところで声を出しては気づかれるのは当然だ。それに気づかないのならば余程の間抜けだが──、

(気付かせたのは、そちらに注意を引きつけるためという可能性がある。こっちは囮で本命は別にいるのか……!?)

 今までに培った経験から言えば、そちらの方が可能性は高いと言える──狡猾な二重の罠。口の中に溜まっていた唾を飲み込み、視線は外さず周囲を警戒する──が、やはり気配はない。もう一人が眼前の者と同様の気配遮断能力を持っているのならば──いや、こちらが警戒態勢にあるこの状態でなおも気配を隠し通せるとなると、相当の──

 こちらの思考を中断するかのように無造作に、暗殺者は一歩踏み出し、告げた。

「それじゃあ……駄目だ。アンタは俺が殺すんだからな」

 楽しむかのような口調は、士郎へと向けられていた。

 士郎は特に反応らしい反応はしないが──、それでも身を固くしているようではある。

(やはり……)

 納得する一方で、ますます納得がいかない──宣戦布告する暗殺者など聞いたことがない。職業的暗殺者ではないのだろうか? とすれば、快楽的殺人者? それがわざわざ衛宮士郎を狙うのもよくわからないが──

「誰だ──何者です!?」

 誰何するが、特に期待してのものではない。物影から相手が出てくるのを誘いだしたかった。ここからでは、相手の姿は直接見えない──何より飛びかかりたくても、物が散乱しており、とてもではないがまともに移動できそうにない。

「別に誰でもねえけど」

 声はいたって気楽にそう告げてきた。

「とりあえずアンタ──アンタだけは……殺すぜ」

 言いつつ、一歩影から足を踏み出す──

 男は──奇妙な格好をしていた。

 身長は、大体士郎と同じくらいだろうか? 浅黒い肌には、纏わりつくように布が巻きつけられている。顔も同様の布で覆い隠されており、眼だけが隙間から覗いている──

「お前は誰だ!何の目的で士郎君を狙うんです!」

「目的──?」

 男は鸚鵡返しに尋ねてきた。

「俺らの目的は、ずっと変わってないぜ──願いを叶える、それだけだ」

 言いつつ、無造作に足を踏み出して、

「つう訳で、死んでくれ」

 同時に背中に隠し持っていたナイフを突きたててくる──!

 が、それは予測していた。落ち着いて間合いを読み、身を逸らして刃をかわす。

「っの──」

 舌打ちと同時、突き出す時以上の速度で引き戻されたナイフが再び迫る──が、それも避け切った。さらに追撃。耳元で空気の切り裂かれる音を聞きつつ、冷静に回避行動を取る。三回目の攻撃で速度を読み切った。引き戻そうとする暗殺者の手を無造作に掴み、捻る。

「ってえ──!」 

 思わず暗殺者が取り落としたナイフをすかさず蹴り飛ばし、相手へと踏み込み拳を突き出す──

「っ!?」

 だが、その直前でバゼットは踏みとどまった。拳の前方──僅か1センチくらいの隙間を残して、ナイフが構えられている。どうやら無事だったもう片方の手で抜き放ったらしいが。

「ち──」

 慌てて再び間合いを取り、構えなおす。ちらりと背後を見ると、士郎も起き上がって剣を手に生み出していた。

「なんだよー。邪魔すんなよなー」

 そう愚痴る暗殺者の口調は間延びしたものだった。苛立ちを隠さず、唸る。

「ふざけるな……」

 暗殺者はこちらの殺気を気にするようでもなく、飄々としたまま肩をすくめて見せた。

「でもまいったね──アンタ、ひょっとして強かったりする?」

「そうですね──少なくとも彼よりかは腕は立ちますよ」

 ふてぶてしく笑ってやると、暗殺者は参ったとでも言うように両手を挙げた。

「うげ。なんだよ、そんなの勝てるわけねえじゃん」

 あっさりとそう言いきり、嘆息する。

(……なんだ?)

 動揺していないと言えば嘘になる──わからない。この男が何なのかがさっぱり理解できない。自分の知っている暗殺者(アサシン)と言う人種には、こう言うタイプはいなかった。少なくとも、仕事の最中に──そしてその仕事はほぼ失敗することが確定していると言うのに──ここまでおちゃらけた態度を取られるとなると、なんだか真面目になっている方が莫迦みたいに思えてしまう。

(何かの罠か、策略か……あるいは本当に何も考えていないのか)

 攻めあぐねている──と自覚し、舌打ちしそうになる。

実力には自信はある──少なくとも並の魔術師や格闘家相手に引けを取るつもりは欠片もなかった。が、それでも決して油断してはいけないのが、眼の前にいるような職業の者であることも事実。彼らは決して真正面からは戦わない。彼らは準備を怠らない。彼らは幾重にも罠を仕掛ける。何より彼らは狡猾だ……

その内のいくつが符号するのかはわからないが。少なくとも一つでも該当するようなら、それは決して油断はしてはならないと言うことだ。

「えーとな、じゃあどうするかなー。要するに俺とお前でやって勝たなきゃいけないんだから」

 男はざっくばらんに言ってのけた。

「ああ、そうか。アンタが俺を狙えばいいんだ」

 とびっきりの妙案とばかりに声を躍らせる暗殺者は、ナイフを士郎へと突き付け、宣言した。

「つーわけだ。頼むぜ」

 士郎は──当然だが──反応しなかった。ただ静かにその場に立っている。戦闘態勢に入っているとも思えなかったが、とりあえず逃げる態勢さえ整っていれば問題はない。

 暗殺者はおどけるように肩をすくめ、大仰に嘆息してみせた。

「……ちっ、ノリ悪いなー。なんだよ人がせっかくやってんのによー」

「いい加減にしてくれませんか。こっちは貴方に構っている場合じゃないんです。今なら殺さないであげますから、さっさとどこかに消えるんだ──」

 冷たく宣告する。

 暗殺者からじわりと殺気がにじみ出た。

「あー何その言い方。すっげーむかつくんですけど」

 軽薄な暗殺者の言葉は無視して、拳を握りしめた。相手の手の内を早急に曝け出させるべきだった。まさかあのナイフだけが武器ではないだろう。銃の類を持っているかもしれない──自分ならばあの手の武器を回避することは可能だが、士郎がいるとなると厄介だ──

 暗殺者は気楽に言葉を紡いでくる。

「大体よー、アンタ何へこんでるんだ? ん? 何かやなことでもあったんですかー?……ああ、そうか。ひょっとしてあの女が消えたからへこんでるのか(・・・・・・・・・・・・・・・・)?」

──ぴくっ。

士郎の体が強張った。警戒とも緊張の両方が入り混じった気配が背後から伝わってくる。

 拳をその顔面に叩きつけたい衝動に駆られるが、それよりも前に暗殺者はなおも饒舌に告げていた。

「あ、じゃあ都合いいや。だって、アイツが消えたのって(・・・・・・・・・・)俺が原因だし(・・・・・・)

 へらへらと、軽薄な口調。そんな言葉がそんな口調で紡がれたことに苛立ちを覚えないはずがなく、バゼットは一歩踏み出した。

 いや、正確には足を踏み出そうとして、

「何……だと……っ!?」

 と言う愕然とした士郎の言葉と、背後で一気に膨れ上がる膨大な量の殺気に、思わず立ち止まっていた。路地裏のチンピラが醸し出しているような軽薄なものではない。一般的な暗殺者の纏う冷徹で重いものでもない。ただ激情に任せ、だがそれがとてつもなく鋭いもの──

 振り返れない。彼が今どんな表情をしているのかは見たくはなかった──が、容易く想像はつく。ぎり、と歯噛みする音が響いている。

 その変化を暗殺者は自分の正面から見据え、満足そうに目を細めていた。

「ほら、これでアンタが俺を狙う理由、出来たぜ?」

 安っぽい挑発だ──だが同時、その効果は極めて大きかったことも認めざるをえない。今の士郎には、その程度で十分だった。

士郎はのそりと体を動かしたようだ。

「今……何と言った」

 低く、必死に叫びだしそうになるのを抑えているような声。

「あいつが消えたのは、俺のせいだ。そう言ったんだよ」

 ナイフを手の中でまわしながら、悠然と構える暗殺者。彼もまたその目に殺意を纏い──そして霧散した。

「ああ、でもここじゃあ……そうだな、色々と都合が悪いか」

 くつくつと、何かとびっきりのいたずらでも考え付いたような暗殺者の言葉。いい加減我慢の限界だ──バゼットは拳を握りなおし、息を吸い込んだ。すでに間合いは見切っている。倒せるはずだ。が、暗殺者がナイフ一本で侵入してくるとも考えにくい。暗器の一つや二つは持っているのだろう……だが対処が出来ないわけではない。暗器が恐れられるのは、それが暗器たる故である。そのカードを相手が持っているとさえ覚悟しておけば、決して対処が出来ないわけではない──。

 鋭く息を吐き、一気に踏み出そうとして──

「……洞窟で待ってるぜ。ちゃんと俺に殺されに来いよ?」

暗殺者はそう告げて──そして、

ふ────……

何の予備動作もなしに、唐突に消えた(・・・)

「な──!?」

 唖然としたのは隠しようがない──馬鹿な、何だ今のは……? 何かの魔術を使ったのか? いや、それにしても唐突すぎた。ならば何かのマジック・アイテムか──瞬完移動など出来るわけはない(・・・・・・・・)のだから、何かしらのトリックを使ってそう見せているだけなのだろうが──。

「…………」

 身がまえたまま、動かず周囲へと気を配る。

 

 さあああああああ……

 

 雨の音だけが、虚ろに響く。

「……洞窟……か」

 ふいに背後から聞こえたのは、そんな士郎の呟きだった。自分には驚く暇も与えらえないのだろうか、そう本気で嘆きつつ、士郎へと振り返る。暗殺者の気配も姿も最早完全に消えていた。あの場所に未だ潜んで機会をうかがっていることは考えられない──そう判断してのことだった。

「ちょっと、士郎君」

 じっとその目をのぞきこんで、尋ねる。

「……まさか、行くつもりではないですよね?」

「行くさ」

 士郎の答えは──予想通りに──迷いのないものだった。思わず舌打ちをしたくなるが、それよりも確認することの方が重要だった。洞窟──彼と出会ってから今までに聞いたことのない単語だ。一体何のことだ?

「洞窟ってどこです。一体何があったんです?」

 が、士郎は力なく首を横へと振った。こめかみに手を当て、眉をひそめている。

「──凛と……最後に、一緒に行った場所だ……。確か、場所は……」

 言いながら、机の上のファイルへと手を伸ばす。ぱらぱらと資料に目を通し始める士郎の横から、バゼットは叫んだ。

「でも、あいつは貴方を殺そうとしているんですよ?! そんな奴が場所を指定なんて──明らかに罠じゃないですか!」

「……そうかもしれないな」

 言いつつ、士郎は手を止めない。じれったい思いを抱きつつ、続ける。

「だが……そんなことは、関係ないさ」

 

 ぞくり……

 

 恐ろしく冷たい声に──思わず、眼を見張っていた。

(士郎……君?)

 彼の纏う気配は、尋常なものでは到底ない。まさか──

「……見つけた。これだ。この村から南西に5キロ……ああ、そうだ──段々思い出してきた。そうだったな、ここが──」

 資料の一点に目を止め、ぶつぶつと呟いている士郎へと向かい、バゼットはそっと声をかけた。

「士郎君、まさか……死ぬ気ではないですよね」

「──死ぬ気、だと?」

 ゆらり、と。

 ゆっくりとその視線がこちらを向いて。

「──はっ。冗談だろう?」

 皮肉げな笑みを、男は浮かべている。

「そ、そうですよね……」

 乾いた笑みを浮かべつつ、バゼットは相槌を打とうとして、

「──あいつを殺し尽くすまでは(・・・・・・・・・・・・)死ねるわけがないだろう(・・・・・・・・・・・)──?」

 思わず、ぞっとしてしまう。

 狂おしい程に底冷えしていて、禍々しい程に濁ったその瞳。

 その目には最早、殺意しか残っていないことに気づいてしまう──

(士郎君、貴方────)

 ──雨音が、激しくなったような気がした。








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