第3章 rin
T
ざああああああああああああ……
──あめ……
あめのおとが なりひびいている
うるさい……
──あたまの なかが ぐちゃぐちゃだ
「う……?」
──いきをすいこんで めをひらいた
あめが ふっている
あめ……
「あ…………」
あたまが、だんだん、はっきりしてくる……
いたい
あたまが、痛い……
ここは なんだ
おれは なにをしているんだ……
「くそ……なんだ……?」
どろっ、と熱いえきたいが、頬をつたう
「なん、でさ……」
息をはきだす。
ずきずきする……
背中が重い……
痛い…………
「一体、何なんだ……」
もう一度、ゆっくりと息を吐き出す。
──頭のほうも、段々はっきりしてきた。
ずるり。
唐突に、背中が、動いた。
──違う。背中に背負っているものが、横にずれたんだ。
背負って、いる……?
俺、一体何を背負っているんだ……?
「……?」
ずるり。
右に、ナニカがずれる。
そのまま手を放してみた。
──ど、しゃっ。
鈍くて、重い音だった。
恐る恐る、振りかえった。
「…………………………………………え……」
───────────止まった。
ざあああああああああああああああああああああああ…………
雨が、降っている。
雨がずっと──降っている……
──凛。
背負っていたのは、凛だ。
凛は、血まみれだった。
「凛っ……!?」
慌てて駆け寄って、体を抱き起こした。
──重い
手に取った腕が、ひどく重い。
指先がぶらぶらと宙をさまよっている。
────────────止めるべきだ。嫌な予感がする──
頭のどこかが、警告を発している。
「凛……?」
血と雨にまみれた顔を、手で拭う
凛は起きない
「凛、しっかりしろ、凛……!」
ぺしぺしと数回頬を撫でる。
凛は反応しない
「くそ、凛……っ」
舌打ちして、どこか雨をしのげる所を探そうと周囲を見渡す──
──────何も、なかった。
周囲は一面の草原。
建物も、道路も、なにもかも。
何もない。
誰もいない。
雨が降っている草原で、たった二人だけ。
「なにが……何なんだ……?」
ゆさゆさと凛を揺さぶりながら、必至に頭を働かせる──
──記憶が曖昧だった。
衛宮士郎──俺のことだ
遠坂凛──腕の中にいる
なんで俺はここにいる……?
ここはどこだ……?
なんで二人とも怪我をしてるんだ?
なんで思い出せないんだ? 記憶が抜け落ちているのか?
なんでだ、なんでそんなコトになったんだ──?
なんで、凛は────
────わからない。
なんで。
なんでさ。
なんでこんなことになっているんだ。
思い出せ。思い出すんだ。
……──そうだ、今日は二人で に行くってことになっていたんだ。それから──それから?
それから……ここにいるのか?
時間……駄目だ。雨のせいで、よくわからない……今、何時だ?
鞄の中……腕時計があったはずだ……
慌てて漁り、引っ張り出す。
……4時だ……
夕方……?
朝から、夕方の間になにがあったんだ……?
思い出せない……
なんで
なにがあったんだ
一体、何が────!
「凛……凛……っ」
ゆさゆさと肩を揺さぶった。
凛は目を覚まさない
と。彼女の手に、なにかが握られていた。
指をそっとはがし、手に取ってみる。
剣だった。
血まみれの剣。
わずかに覗いている刃は、鏡のような光を放っている。
「なんだ、これ……?」
見覚えがなかった。
家にはなかったはずだ。
だとすると、抜けた記憶の間に手に入れたのか……?
何で記憶は抜けている……? そうだ、何でなんだ……?
何か。何かとても大切なことを忘れているような気がする。何だ。何だったん──ああ……違う。今はそれどころじゃなかった……
「凛、頼む、起きてくれ……!」
顔色は真っ青だ。きっと衰弱しきっているに違いない。しかもこの雨だ。早くどこかで休ませないと……
「もう少し、我慢してくれよ……?」
言って、抱きしめる。
──冷たい。
凛はさっきから反応しない
「……凛……?」
ふと
予感めいた何かを感じて、顔を近づける
──ダメダ
凛は動かない
凛は、息をしていない
「………………………………………………………………………………凛……?」
ゆさゆさと。
凛を揺さぶり続ける
凛は動かない
腕を手に取る。
凛の脈がない
血にまみれた服をまくり上げる
──ヤメロ
凛の腹部が、血であふれかえっている
深く、抉れている
「う……っ!?」
思わず仰け反った。
服が異常に重い。雨のせいだけじゃない。血だ。
もう、血は止まっている。
だってもう、凛は──
「嘘、だろ……?」
──カンガエルナ
頭のどこかが、警鐘を鳴らしている──ずきずきと痛む。
ああ、そうだ……俺も怪我してたな……
「凛、なあ凛、返事してくれよ……」
返事はかえってこない
だって凛はもう、 いるから。
「凛……凛……っ!」
喚いて、乱暴に肩を揺さぶる。
がくんっ。
凛の首が倒れた。
その拍子に目が開いた。
光のない、瞳。
濁った、瞳。
虚ろな、瞳──
「ひっ……」
思わず手を放していた。
どしゃぁっ──
飛沫が跳ねる。
泥だらけの草原に、凛が倒れ落ちた。
凛はぴくりとも反応しない
だって、凛は、もう、
───────────────────────死んでいるんだから
「う──うわああああああああああああああああああああああああっ!?」
U
「…………………………っ!?」
声にならない悲鳴をあげて、衛宮士郎は眼を見開いた。
「はぁっ──はぁっ……!」
胸に手を当てる。──と、汗でびっしょりと濡れていることに気づく。ひどくキモチワルイ。最悪だ、と呻いて頭を振ってから──がくりと項垂れる。
「夢……」
うんざりだ。舌打ちしながら嘆息する。全身を襲う鈍痛に気づいてまた顔をしかめた。
「また……この夢、か……」
はは、と自嘲する。
見渡す。どうやら眠っていたらしい。いや──正確には気絶してそのまま、と言ったところか。開けっ放しになったままの扉が軋みながら雨風に揺られている。体も痛い。確実にアバラは折られているようだ。
「くそ……」
呻きつつ、壁に背を押しつけながら、無理やり上半身を起き上がらせる。
そう言えば、雨が降っているとはいえ、やけに暗い──不審に思って時計を確認する。日本を発つ時に買ったデジタル式の時計のモニターには、22時14分と表示されていた。だとすると半日以上も気絶していたことになる──随分と呑気なものだ。自嘲しつつ、目頭を押さえた。
「まずは、治療か……」
小さく呪文を唱えつつ、治療効果のある剣を投影・脇腹に押し当てる。とは言えそこまで効果は高くない。人間に元々備わっている自然治癒能力を加速的に促進させると言うものなので、即効性はないし、体力も奪われる。投影以外の魔術はからきし駄目なために、この剣に頼るしかないのが現状だった。
「……ふう」
思わずため息が出ていた。
「なってない、か……全く、その通りだよ、本当」
何度目かの自嘲と共に立ち上がる──しなくてはいけないことは沢山ある。とにかくまずはこの状況をなんとかしなくてはならなかった。と──
──貴方は一体──
……ふいに脳裏に浮かんだのは、気を失う前にやりとり──
「──貴方は誰と会話をしているんだ! そこには──そこには……っ!」
「……そこには、何だね」
「っそこには、誰もいないです! 凛さんはいません!」
「……すまない。よく聞こえなかった。もう一度……言ってくれないか?」
「何度でもいいましょう。そこには遠坂凛はいない──」
「……また、か……」
疲れている──と我ながら思える声で、呟いた。
「見えないんだな……あの女にも……」
慣れている──と言えば語弊がある。何度同じ視線をぶつけられても、体と心は一向になじまない。馴染むことを拒否している。
憐れむような、怯えるような瞳。
凛が記憶をなくしてから、彼らは自分たちを腫れもののように扱うようになっていた。
凛がこんなことになる前には、やれ村の英雄だなどと持ち上げていたのに。
一度状況が変われば、この様だ。
わかっていたはずだった。民衆と言うのは移ろいやすく、流されやすい。今までの経験でさんざん学んできたはずなのに。だと言うのに、やはりどうしても慣れることが出来ない。
それはきっと──それに慣れてしまえば、自分はもう、終わりだから。
だから、今は歯を食いしばってでも耐えなければならないのだ。
そうだ。きっとみんな、そのうちわかってくれる。
理解してくれる。
──のろのろと足を動かして、ベッドへと近寄っていく。
「そうだよな……リン……」
言いつつ、そっと椅子へと腰掛ける。士郎はふっと頬を緩め、囁いた。
「なあ、リン……」
空のベッドの上へと手を伸ばし、そっと虚空をなでる。
「…………うん、今日は調子いいみたいだな……でも、ちゃんと安静にしなきゃ駄目だからな……?」
衛宮士郎はそう言って、何もない虚空と会話し続けている──
──雨音が淡々と響いていた。
V
重く黒い空が広がっていた。雨こそ降ってはいないが、それこそいつ降り出してもおかしくはない空模様。
(……せめて)
半ば懇願するように恨めしげに、空を見上げる。
(せめてこれで晴れてでもいたら、少しは気も晴れると言うのに……)
衛宮士郎とのいざこざがあってから、一日が過ぎていた。喧嘩と言い切るには大きすぎるやり取りがあった後だ──正直昨日の今日で顔を合わせるのはお世辞にも得策とは我ながら思えなかったが。しかしそれでも、気付けば足はここへと向かっていた。単にやることが他にないからだと、そう思いたい。半ばあきらめにも似た嘆息と共に、顔を正面へと戻す。
寂れた家の中からは気配が漏れている。どうやら衛宮士郎はもうすでに起きているようだ。まあもうすぐ10時だ。別に意外でもなんでもない──が、心のどこかの希望にも似たあきらめが、すとんと落ちたような。
「ふう……」
息を吸い込む。
「ん……っ」
足を動かして、立ち位置を確認する。
(よし──)
心の中で自分にびしりと気合いを入れる。そして、ノックをしようと手を持ち上げて、
「…………何をしている」
僅かに開いた扉の隙間から覗いている半眼の士郎と、眼が合った。
「ひあっ!?」
思わず我ながら素っ頓狂な悲鳴をあげて、バゼットは後ずさった。後ずさってから──しまった、と思う。
「……」
見れば、士郎は不審な目つきから、憐れむような視線へと変化している。
「……」
頭を抱えたい衝動に陥るが、なんとか自制し、手を振りつつ誤魔化そうと口を開く。
「あ──ああ、いえ、今のは……」
「……ふん、まあ別にいいさ。それでなんだね、また説教でもしにきたのか」
呆れたような士郎の口調にむっとしつつも、それでも毅然と胸を張って告げた。
「説得──と言ってほしいですね」
「どのみち間に合っているさ」
それでもうこの話は終わりだとでも言うように、あっさりとかぶりを振って士郎は扉を閉じようとする。が。
がしっ──
内側へ動き始めた扉を無理矢理掴み取り、バゼットは一歩踏み出した。
「士郎君……!」
「あんたもいい加減しつこいな──」
「──切り捨てるのは!」
皮肉げな相手の毒舌に無理やり言葉をねじ込んだ。必死に士郎の目と視線を合わせながら、続ける。
「……切り捨てるのは、簡単です。でも、それは逃げているのと同じようなものだ。だから──そう簡単に、あきらめたりは、しない。したくないんだ……」
「それはあんたのエゴだろう」
必死に考えを乗せた言葉をあっさりと一笑に付され、かちんと来なかったと言えば嘘になるが──それにも増して状況に対する切迫さが打ち勝った。早口でまくしたてる。
「衛宮士郎と遠坂凛は二人とももうすでに死んでいた──ルヴィアゼリッタや桜さんたちにこう報告するのは簡単だ。でも、そうはしたくない。だって、貴方はまだ生きている──生きているではないですか……!」
「だからそれがエゴだと言っている……!」
苛立ちを隠そうともせず、士郎もまた口調を荒らげる。
「士郎君──! 士郎君はそれでいいんですか!? いもしない人の影をずっと追いかけて──幻想の中で、ずっとそうして一人で生きていくつもりなんですか!?」
「っ何度言ったらわかるんだ! リンは死んでなど──」
「あー、あー……」
と。
士郎の背後から、不安げな声が儚く耳にへと届いた。
「……こら、駄目だろう、勝手にベッドから抜け出したら。まだ体調は戻っていないんだから──」
言いつつ振り返る士郎の表情と口調は、自分に向けるものと比べるまでもないほどに棘が抜けた優しいものだった──ああ、なんだ。こんな表情も出来るのではないか。そう思って安堵して──
「え────…………」
そして。その事実を目の当たりにして、驚くよりも前に戦慄した。
少なからず、体温が下がったのがわかった。体が震える。
脳が、硬直する。
思考が停止する──。
「あぅ……?」
小さな、舌っ足らずなおどおどとした声。それより僅かに遅れて、声の主が士郎の背中からこっそりと顔を出したのは──見知った顔だった。
その言い方には語弊があると言えばある──だって、彼女と顔を合わせたことも、会話を交わしたこともないのだから。あるのはそう、写真で見たことがあるだけ。印象は全く異なるが、顔のパーツや体格から判断するに、それは確かに同一人物だと納得せざるを得なかった。
──だから、つまり。
「な……んで……?」
流れるストレートの黒髪は少なくとも美しくはあった。ウェーブのかかった艶やかな髪は整えさえすればひどくさまにはなるだろう。が、寝起きなのか、くしゃくしゃになって跳ねているため、妙に滑稽であり、妙な色気がある。違和感を拭えない──彼女はツーサイドアップ──という名称でよかったかどうかは正直自信はないが──だったはずだ。
彼女は不安げに士郎の後ろに隠れている。それも違う。彼女は──そうではなかったはずだ。彼女の立ち位置はそこではない──彼の前、少なくとも隣のはずだ。そうだ、その場所は決して正しくはない──
「ああ、そうか……昨日はずっと眠っていたんだよな。彼女はバゼット。私の──まあ、知り合いみたいなものだ」
士郎はちらりと意味ありげにこちらへと視線を送ってきている。何か言いたげな──察しろとでも言うような。数瞬置いてからようやくその意味を組み取り、バゼットは無理矢理笑顔を作り上げてみせた。
「あ、どうも……」
へら、と我ながら微妙としか言いようがない受け答え。
彼女は不思議そうにこちらを見上げてくる──
(なんで────!)
心の中で絶叫して──思わず頭を掻き毟りたい衝動に陥る。
すらりとした体躯は、今はぶかぶかの白い無地のシャツによって隠されている。彼女は物珍しげにこちらを無作法にじろじろ眺めながら、無防備なまでに無造作に近寄り、無邪気に唇に指を押し当てこちらを見上げてくる。
「うー?」
どくん──と鼓動の音がやけに大きく聞こえた気がしていた。背中に汗が流れおちるのがはっきりと実感できていた。ああそうだ──認めなければならない。
私は今、恐怖しているのだ。
理由は──これ以上ないくらいに明確で、わかりきっていた。
何故なら、目の前に立って、無邪気に笑いかけてくるその顔は、
誰がどう見ても遠坂凛そのものだったのだから──。
W
お湯の沸騰するしゅんしゅんという音が妙に心地よかった。あるいは単に気を紛らわすのには最適だったと認めるべきなのかもしれない。混乱している、と自覚できる程にはまだ落ち着いているな、と一人ごちる。
椅子に座る位置をずらし、落ち着かないままそわそわと部屋を見渡す──乱雑なのは相も変わらずで、正直昨日よりましになっているのかひどくなっているかもわからない。
キッチンにはマグカップとティーパックが置かれている。お茶でも飲むつもりだったらしい。そういえば先程からヤカンは音を立て続けているが、ひょっとして蒸発して残りはもうないのではないか。ふとどうでもいいようなことを心配になり、苦笑する。無造作に髪をかきまわし、さて次はどうやって暇を潰そうかと思案し始めた時に隣の部屋から声が響いた。
「──全く。駄目じゃないか、ベッドから起きてきたら。ほら、まだ体調は悪いんだろう?」
「うー……」
二人の会話──と言っていいのかどうかは甚だ判断に苦しむところだが──を耳にしながら、ひどく疲れていることだけは自覚しておく。椅子の背もたれに体重を押し当てる。ぎし、と軋む音がなぜだか妙に耳に残った。
──遠坂凛は生きていた。
事実を実際に目にしたのならば、認めなければならない──だが訳がわからない。情報は嘘だったのか? それならば一体何故? 嘘と言うリスクを犯すからには何かしらの理由が必要だろう。それか、信用をなくすという致命的なリスクを把握できていないのか。どちらにしろたまったものではないが。本当、誰でもいいからここにきて一から十までわかりやすく説明して欲しいものだ──
「……本当に、その通りだ。士郎君? ええと──その、勿論説明はしてくれるんですよね?」
「何をだ」
部屋からようやく顔を出した士郎へ向かって目いっぱい皮肉めいた口調を投げかけてやるが、彼は素の表情でそう返してきた。それがまた勘に障る。思わず声が大きくなった。
「何を!? よくもまあ言えたものだ──彼女のことですよ!」
「リンがどうした」
「どうしたじゃ────!」
とうとう椅子から跳ね上がるように立ちあがり、バゼットは精一杯目の前の男を睨みつけた。低く唸る。
「……彼女は、その──死んだのでしょう?」
「何回言わせる気だ。凛は死んでいない。全ての記憶を失って──消えただけだ。私の知っている遠坂凛は、もういない……」
「そうじゃない……おかしいんだ」
「そうだな。何故だかここ数日おかしいことばかり起こってるよ。どうしてだと思う?」
「茶化さないでください!」
「そんなつもりもないのだがな──」
「士郎君」
いい加減この意味のない会話にうんざりし、ぴしりと語気を強めると、士郎は降参だとでも言うように嘆息まじりに両手を軽く挙げて見せた。
「……ああ、わかったわかった。それで何なんだ?」
息を吸い込んでから──迷う。質問から悪態まで言いたいことは山ほどあるが──一番気になることについてどう表現すればいいのかがわからない。幾許か悩んだと、結局バゼットは一番シンプルな疑問点を口にした。
「──どうして私にも見えているんです?」
「……?」
言葉の意味がよく理解出来ていないのか、士郎は不審そうにこちらを見返してきた。
愚鈍さに苛立ちかけて──そこでようやく、彼の反応の正体に気づく。そうだ、この男にはこちら側の事情は出来ていないはずだった。咳払いで間を作ってから、尋ねる。とりあえず一つ一つ駒を進めていくしかない。
「……士郎君、すいません一ついいですか?」
「なんだ」
「昨日、私に“凛さん”を見せてくれた時──彼女はどこにいましたか?」
士郎は怪訝そうに眉をしかめていたが──やがて遠慮の欠片もなく皮肉げに口を歪ませた。
「……その質問はひどくナンセンスだと思うがね。まさか君だって花瓶や本を見せられてこれが凛だと言って──納得はしないだろう? ベッドの上にいたに決まっている」
「……そうだ、確かに貴方はそう言って……でも、私にはそれは見えなかった。幻だと……士郎君、貴方が幻覚をみているのだと思っていました」
士郎は無反応。続きを促されているのかどうか判断に迷ったが、構わず続けた。かぶりを振り、我ながら焦った口調で。
「ですが──どう言うことなんです、これは。凛さんの姿が、私にも見えている……」
「……だから、それが何か問題があるのか?」
あくまで静かに、訪ねてくる。
「え?」
思わず、間の抜けた声が零れて落ちた。
「リンの姿が見えて──何の問題があるのかと聞いている」
「……それは」
言葉に詰まったのが自分でもはっきりとわかる──そうだ、確かにその方が都合はいい。昨日の出来事は全て壮大かつ無意味な村ぐるみの嘘だった。村人たちの証言も士郎の言葉も全てが嘘。動揺している自分を尻目にこっそり家へ戻ってきた凛は、何食わぬ顔で姿を現した──そう思えば今回の件は早々に片がつく。だが。
鼻から息を抜いたのは考えを仕切り直すためだった。彼女はぽきりと肩の骨を鳴らし、斜に構えて不敵に笑ってやる。
「……生憎と、そこまで柔軟でも寛大でもないんですよ、私は。納得出来る説明をしなさいと、そう言っている。あの凛さんは何者です? いや、そもそも本当に凛さんなのですか?」
「どう言う意味だ」
ず、と部屋の温度が僅かに下がったような感触。気のせいではないだろう。目の前の男からは怒りとも殺気ともつかない何かが滲み始めている。これ以上の挑発は無意味だとわかりつつも、口は止まらなかった。手を大きく振り払い、告げてやる。
「簡単な話だ。外見だけをそっくりにする方法ならいくらでもある、と言っているんですよ。魔術的な観点からは言うに及ばず、医療技術──整形手術を施すなどと言った方法もある。さらに言えば私は彼女と直接の面識はないに等しいのでね。正直誤魔化すだけならいくらでも出来ると思いますよ?」
「だから、それに何の意味がある?」
「──日本に連れ戻されないで済むでしょう」
「よく言うものだな。どの道無理矢理にでも連れて行く気だろう?」
「そんなことは──」
「ないと言いきれるのか?」
「──、よほどの事態が起きない限りは、あり得ません」
「ふん、うまい言い訳だな。主観的な所なものしておけば後になってもいくらでも言い繕える」
は、と嘲るような口調に歯噛みしつつも、バゼットはかぶりを振った。
「ですから士郎君、今はそんなことを言い合っている場合では──」
壁に背をつき腕を組んで、士郎は眉を片方持ち上げてみせた。
「……ああ、ついでにもう一つ質問だ。凛の存在がなぜ日本への強制帰還の免罪符となる?」
「それは……。貴方一人では危なっかしくてしょうがないからですよ」
「──ほら見ろ。連れ戻すんじゃないか」
言わされた──と理解した瞬間、頭に血が上った。思わず声を荒らげる。
「士郎君──!」
が、士郎は動じた様子もなく腕を組んだまま器用にも肩をすくめて見せた。
「第一よく考えても見ろ。今の君の理屈がまかり通るとして──つまり何か? 私は君に勝てない。だから遠坂凛を作り上げた、と? ……ふむ。随分とまあ労力のかかる反抗の仕方だと思うがね──そんなことをする手間や技術があるなら、さっさと逃げ出した方がはるかに手っ取り早いとは思わないか? 少なくとも私ならばそうするがな──」
それは確かにその通りだと思う。だが引き下がった。
「っそれは……そうだ、私との戦闘で勝ち目がないことは身にしみてわかったはずだ。だから逃げられないと判断して──」
士郎は視線の温度を揺らがせた。怒りはいつの間にか霧散し、呆れとも無関心ともつかにような気だるい眼差しへと変化している。適当にぱたぱたと手を振り払って、
「……随分と傲慢なんだな、君は。もういいさ、勝手にしてくれ。わかるだろう──疲れているんだ。昨日の傷もまだ完璧には癒えてない。君の相手をする余裕はどこにもないのでね……」
ひらひらと手を振りつつ、再び凛がいる部屋へと戻って行こうとする。慌ててその後を付いていき、背中に向ってなおも口を開いた。嘲るように目いっぱいの悪意を込めてやる。
「ふ……ふん。そうやって逃げる気ですか? 悔しいのでしたら、納得のいく説明でも──」
「──挑発して答えを得ようとするのは関心しないな。相手が激昂するかもしれないし、その後のフォローが大変だ。第一、説明だと? ──ふん、そんなものをしてやる義理がどこにある──屋敷に勝手に入り、重症まで負わされ、挙句の果てに訳のわからないことをまくしたてる奴に親切にする輩なんかいるのかね。だとしたら是非ともお目にかかってみたいものだな──」
一気にまくしたててくる。
相手の言い分は全くもってその通りだと我ながら思えた。
(……駄目だ。このままでは……駄目だ)
この状態では、到底情報など得られそうにない──だとすればやり方を変える必要がある。
かぶりをふり、一旦ここまでの流れをリセットする意味も含めて深呼吸をする。
「ふう……」
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
(そうだ、まずは……確かめるべきだ)
一人ごちてから、椅子を立った。もうこちらの方へは見向きもせずに、士郎は紅茶の準備に取り掛かっている。その背中に向って呼びかけた。
「……士郎君、少し凛さんをいいですか?」
「……何をする気だ」
声を強張らせ、慎重に尋ねてくる。
バゼットはへらへらと笑ってみせながら、
「いえ、少しお話をするだけですよ」
(そうだ、士郎君が駄目なら、別方面を切り崩せばいい──)
我ながら妙案だと思う。
「ふん、勝手にしろ」
そろそろこの毒づきにも慣れてきた──それくらいの余裕を持ちながら扉をくぐり、中を見渡す。彼女はベッドに横になり、眼を閉じていた。瞼が僅かに動いているところを見ると、眠ってはいないようだが。まあ、こうもやかましくしていればそう簡単に眠れもしないか。少しばかり申し訳ないとは思いつつも、それでも声をかける。
「凛さん、少しいいですか?」
「…………?」
のろのろとこちらを見上げ、弱々しく首を僅かに傾げてくる。ひどくおっくうそうだった。見れば顔色が随分悪い。体調が悪いのかもしれない。そう言えば、士郎が先程何か言っていたな、そう思い、尋ねる。
「……風邪ですか?」
「原因不明だ」
重々しく士郎が背後から告げてくる。
「体調は──正直、よくない。衰弱しているんだ。時々昏睡状態に陥ったり、消え──いや、違う。これは違うんだ……」
眉根を抑え、何やら一人でぶつぶつと呟いているようだが。
暗に責められているようにも思えるが、それについては気づかないふりを決め込んだ。
「ええと……何と聞けばいいんですかね。貴女はその──遠坂凛さんで間違いはありませんか?」
「……う?」
ぱちくりと瞬きをしてしげしげとこちらを見上げてくるその仕草は年齢よりも随分と可愛らしいものだったが──
「いえ、あの。遠坂凛さん……ですか?」
「……うー?」
「で、ですから──」
「──これもすでに、昨日説明したと思うが」
と。部屋の壁ごしに、疲労を滲ませた士郎の声が響いてくる。
「凛は話が出来ない。言葉も記憶も全て失っている。まるで赤ん坊の状態だ──会話など、出来やしないさ……」
最後の方は自嘲を込めた口調で。
「……………………………」
そういえば──そうだった。確かにこの男はそうも言っていたような気もする。
だとすれば、致命的だった。手に入れた手がかりはあっという間に崩れ去った──いや、手に入れたと思いこんでいただけだった。
口元に手を当て、黙考する。
……少なくとも遠坂凛の姿をした何かがここに座っていることは、疑いようがない。
問題は、彼女が一体どういう存在なのかと言うことだった。
記憶がないというのも気になる。
(そうだ……昨日は見えなかったという点も気になりますね……)
昨日と今日。何か致命的な違いがあるようにも到底思えないのだが。
そもそもあれが士郎の錯覚という可能性もある。精神的に追い詰められていた士郎が凛がいるものと認識した──その程度のことなのかもしれない。
次に、彼女の記憶についてだった。
数日、あるいは数カ月というような部分障害ならともかく、全ての記憶が末梢されるなどそうそうはない──事例として確かにそういった症状が存在することはするが、高確率でなるようなものでは決してない。頭部を強く打つことにより脳に重度の衝撃が与えられる、あるいは脳に酸素がいきとどかなくなるなどの症状により起こる確率があるということくらいは理解しているが。
(例えば……一回呼吸が停止し、脳に酸素が行き渡らなくなった直後に、蘇生した、とか。生命活動は復活したが、脳細胞への致命的な傷が元で、記憶が消滅した……?)
考えられなくはない。可能性はゼロではないのかもしれない。
もうひとつ考えられるのは、彼女が偽物であるという事。あれは凛ではなく、凛そっくりの何者か、と言うことならば先ほどの問題点も説明はつく。記憶障害は単にそうなっているように振る舞えばいいだけだ。
だがここで別の問題が発生する。偽物ならば、その目的は何なのだ? 凛そっくりになることの意味は──いや、恐らくそれは士郎に近づくため、か。どこかでデータを入手してそっくりに偽装。二人は“正義の味方”をやっていたのだから、当然敵も作ったはずだ。命を狙われていてもおかしくはない。
動物爆弾、という可能性もある。普通ならば生きているネコなどの愛玩動物に爆弾を付けて、ターゲットの元へ送り込むというものだが、そう言った手段を用いる暗殺方法があると言う話は耳にしたことがある。
だが、彼女が死んだとされているのは一か月前だ。その間このリンと士郎は一緒にいたことになるが、それ故何もアクションを起こしていないというのが附に落ちない。殺害目的なら、いくらなんでも潜伏期間が長すぎる──だとすれば他の目的があるのかもしれない。例えば彼女たちの研究の成果とか。遠坂凛は極めて優秀な魔術師だったはずだ。その可能性もある──
──要するに。考えられる可能性は多すぎてどうにもならないということだけははっきりした。
(……とりあえず)
これで指が何も触れなかったら大笑いするかもしれないな──半ば希望にも似た祈りを抱きつつ、そっと人差し指を凛の頬へとあてた。
柔らかい感触が返ってきて、安堵と共に落胆した。
つまり、ここにいる凛は幻ではないと言うことになる。幻──
──それは、単なる思い付きだった。
(まさか──)
昨日は見えなくて、今日は見える理由。
その可能性もあるかもしれない──そう思い、意識を集中する。
組み上げる式は、ごく基本的な抗魔力の術式だ。
口の中で呪文を唱え、そして。
──遠坂凛は、あっけなく、視界の中から姿を消した。
X
居間へと逃げるように戻ってきた。ぱたりと扉を閉めて、安堵の息をつく。これで士郎と二人きりになった。遠坂凛はいない。いや、そもそも──
「……はぁ」
嘆息。やってしまってから後悔することなど、それこそ無数にあったが──今回のこれは致命的だったのではないか、そう思いつつ、肺に酸素を送り込む。喉を緩めるだけの吐息をついてから、そこでようやくそっと術を解除した。動揺は少なからずしているが、表情に出すことだけはなんとか避けられた──と思う。振り返らない──そんな愚行は犯すべきではない。大丈夫だ。士郎はこちらで何が起こっているのかは理解はしていないはずだ。
(……少しだけ)
はあ──とまた嘆息が零れ落ちる。
(少しだけ、消えなかったら、と思っていましたが……)
幻覚──簡単に言えば、彼女の正体はそう言うことだ。一口に幻覚と言っても、その在り方は無数にあるが。とは言え視覚のみならず、聴覚や触感まで再現しているわけだから、催眠、あるいは洗脳に近いものなのかもしれない。どの道相当に高度な代物なのだろうが。
だが──どうする。つまりはこう言うことなのか──今まで衛宮士郎は精神的に相当追い込まれていて、凛の幻影がみえるほど混乱していると思っていた。だが、事実はそうではないらしい──性格が変化していることでだまされかけたが、幻と思っていた凛は、士郎には実際に見えていた。
だが、原因はなんだ? 少なくとも昨日までは彼女の姿は自分にも見えなかった。昨日と今日の違いはなんだ?
わからないまま時間が過ぎる。昨日は色々なことがありすぎた。正直、怪しいものならばいくらでもある──だからこそ判断がつかない。とりあえず、きっかけについては保留することにする。
(幻、か……)
少なからず、動揺していることは認めなけらばならない。だが抑えきれないほどでもない──そうだ、死亡しているという前提だったのだから、ある程度心の準備は出来ていた。はずだ。
このことを士郎に打ち明けるべきなのかどうか──問題は、そこだった。
一つは、事実を明らかにすることで受けるであろう士郎への精神的ショックがどの程度なのかと言うこと。彼の性格が変質していたのは確か、凛の死がきっかけだったはずだ。彼にとっての彼女の死とはつまり、そういう重みを持っていることになる。それが二度繰り返されたらどうなる? 今度こそ衛宮士郎は駄目になるかもしれない──恐れているのはその点だった。
もう一つの懸念は──
(……そもそも、その事実を公表するべきなのかどうか、ということだ……)
憂いつつ、歯を噛みしめていた。
彼が見ているのは幻覚だ。
現実には存在しない、まやかしの存在だ。
だが、彼自身はそれが偽物だとは知らない。
記憶を失い、言葉を失ってはいるが、彼にとってはソレは紛れもなく遠坂凛なのだ。
(それは──わかる。痛いほどに、わかる……)
辛い現実よりは、幸せな夢を見続けることがずっと楽に決まっている。
でも──だが──
「……それで、いいのですか?」
思わず口にしていた言葉に、しまったと思うが──もう止まらない。バゼットは士郎へと振り返ると、
「士郎君。もし仮に──凛さんが死んだ世界と、死んでいない世界があるとして」
正面からその目を見据えて、尋ねた。哀願するかのように。
「そして、死んでいない世界のほうには、他に何もないとして。そうしたら──どちらを選びますか?」
「…………私は」
士郎は幾ばくかの間の後、唇を開いた。憂うように瞳を伏せ、囁く。
「凛が好きだ。愛してる。だから──凛のほかには、何も要らないさ」
彼の言葉は、言ってしまえばごくありふれた愛の告白だった。思わず舌打ちしたくなるほどに。だが、
「─────…………」
言葉は返せなかった。思わず拳を握りしめていることに気づく。
彼の答えは、つまりはそう言うことだ──。
(何も要らない、というのは。何もない、ということと同義では、ない……決して、ない……ないべきだ……)
なんとか、それだけ胸中で毒づいた。
もうそれ以上は何も言えない──バゼットは唇を噛みしめ、項垂れた。
(……それにしても)
頭の中で、組み立てる。
(彼女が幻覚だとすると……凛さん本人は既に死亡しているということで間違いはないでしょうね。入れ替わったタイミングは──恐らく本人が死んだ直後、ないしはその近辺か。そして……これが一番わからないのですが……一体何のために? こんなことをして何になる……)
ともあれ、推測ばかりでは埒があかないのも確かだった。バゼットは士郎へと向き直ると、
「士郎君、凛さんが記憶を失った時の話なんですが」
「──ああ」
「詳しい話を聞きたいんです。その──ええと」
慎重に言葉を選びつつ、続ける。
(今……ここで聞き出せれば、きっとうまくいくはずだ……)
「記憶喪失にしろ何にしろ何らかの原因があるからこそ結果があるわけだ。だからつまり──彼女がこうなったのも、何かきっかけみたいなものがあったと思うんです」
士郎はふむ、と相槌を打っている。
「そしてこれも概ねのことに言えると思うんですが、結果から原因を導き出すことも出来るはずだ。だから──まずは一つずつ考えていきましょう」
「ふむ」
(よくもまあ、ここまで適当に言葉がでてくるものだな……)
苦笑ばかりが出てくることに辟易しながらも、肩をすくめて見せる。
「ひょっとすると、それが彼女の記憶を戻す手がかりになるかもしれません──いいですか士郎君、よく思い出して下さい」
言いつつ、顔を近づける。士郎は真剣な表情でこちらの目を見返してきている──それを確認してから、慎重に尋ねる。
「まず一番ひっかかっているのが、凛さんの姿です。昨日は見えていなかったのに、今日はきちんと見えている。何かの変化があったはずです、昨日から今日の間に……。士郎君、昨日私と別れてから、何か変わったことはありませんでしたか?」
質問内容が入れ替わっていることには士郎は気づいていないようだった。真剣な表情で考え込んでいる。
「昨日、か──そうだな……」
少しばかり考える仕草をしてから、士郎はぽつりぽつりと話しだした。──とは言えそう長い話でもない。しばらく痛みでぼうっとしていた。衝動的に死のうとした。それから気を失った。そう言えば気絶する前に、剣が光っていた……
「剣ですか?」
死のうとした、と言う言葉がさらりと出てきて危うく動揺を顔に出しそうになったが──ぎりぎりの所で自制し、咄嗟に他のポイントへ話を振った。
「ああ」
それがどうした、とでも言うような表情。
(いやしかし、これは正解だったのかもしれないな……)
我ながら上手くやれている──そう脳裏に思い浮かべつつ、さらに話を膨らませようと思案する。確か士郎の魔術の性質は剣に特化している──と言えば聞こえばいいが、逆にいえばそれ以外のものに関してはてんで駄目だとも聞いている──はずだ。何かとっかかりのようなものでもあればいいのだが──。
「それは士郎君の知っているものですか? それとも見覚えのないもの?」
「……見覚えなら、あるさ」
呟く彼の表情には、暗い影。そして自嘲。
「……自分が宝箱に叩きこんだんだ。まさかもう一度見ることになるとは思っていなかったがな」
「はあ、宝箱ですか」
曖昧に頷くと、士郎は奥の部屋を顎でしゃくってみせた。いいですか? と念のために目で尋ねてから腰をあげて移動する。ぐるりと部屋を見渡す──部屋の隅、本棚がある壁の右に、それはあった。
「また随分と大きいですね」
「中はもっとある。凛が日本から持ってきたもので──理屈はよくはわからないが、なんでも特別製だとか」
ふむ、と呟いてそっと蓋を開ける。成程確かに中には外見よりも広い空間が広がっているようだった。そう言えば、資料にあった──遠坂凛はゼルレッチの家系。
(だとすると、魔法を何かしら応用してあるのか……?)
「……あまり近寄らないほうがいい。一度酷い目にあったことがあるんだ──中からは外へ出ることは出来ず、また中身は外見以上の収納能力がある。一種の別世界になっていると言ってもいいだろうな。
背後から飛んできた言葉に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「別世界、ですか。さすが……と言ったところですね」
感嘆の息を漏らしてから、静かに蓋を閉じる。士郎へと振り返り、肩を竦めて尋ねた。
「それで、肝心の剣はどこですか?」
「いや、それが──」
彼は訳がわからないと言うように首を振って見せながら、
「……見当たらないんだ」
ぴくり、と眉が動いた──と自覚した。
「つまり、盗まれたと言うことですか? 誰かが入った形跡は? この家には結界が張ってあるんですよね?」
「ああ、それが妙なんだ……結界は反応していない。攻撃性は全くない、単なる不法侵入感知の機能だけなんだが、それゆえにその一点においては間違いはないはずなんだがな……」
腑に落ちない、と首を傾げる。確かにそれは妙な話だ──念のため、今の事を記憶しておくことにしよう。
「ますます奇妙な話ですねえ……」
……多少こんがらがってきた気がするので、頭の中で話を整理する。まず凛が死んでいるのは間違いない──はずだ。大前提となるべきこの点からしてあやふやなのは如何ともしがたいが。ひとまず仮定としてそう言うことにして──ではここにいる彼女は何故存在するのか? 何が目的なのか? それが今日の課題だった。何故凛そっくりの顔なのか。何故記憶までは引き継いでいないのか。
一方で、消えた剣の問題が浮上してきた。何故剣は消えたのか。剣と凛に何か関連性はあるのか? 勿論単に不可思議な点が二つあるだけで、両者の間には何ら関係はないと言う可能性は高い。だが、かと言って切り捨てられるものでもない──はずだ。
いや、まずはそれが事実かどうかの確認が必要か。
考えられる点は何か。想像してみる──混乱し、白濁していく意識の中で、僅か数瞬見たというその映像……。
(まともに考えれば、単なる記憶違い、か……)
単に剣の刃に何かの光が反射していただけなのかもしれない。ただでさえひどく不安定な男だ。正直、どこまで彼の言葉を信用していいものかはわからない。嘘はついてはいないのだろうが、かと言ってそれが事実とも限らない……
(駄目だ、泥沼にはまってきたような気がする……)
嘆息をなんとか押しとどめ、なおも思考する。一番わかりやすいものは何だろう──結界は侵入者に対して効果を発動する。つまり、結界が機能する前から侵入されていればその効果は発揮されないと言うことだ。
(……その間、ずっとこの狭い屋敷に潜入していたと? しかも腕の立つ魔術師が二人いる所に? ……ありえないですね、これは)
他には──そうか、侵入者、と言うからには、結界は物には反応はしないのだろう。物が放り込まれるのならば問題はない──例えば釣り竿のようなものが投げ入れられ、そして、目的の物をひっかけて釣りあげられる。これならば問題はない。作業が行われたであろう時間は、家には気絶している士郎しかいないのだ。決して不可能ではない。
「私が出て行った後、扉は閉まっていましたか?」
「どう、だったか……いや、開きっぱなし、だったと、思うがな……」
のろのろと呻く士郎の言葉に、思わず嘆息しかけた。あいまいな点が多すぎる。剣イコール凛という図式が成り立てば話は早いのだが。しかしまさか剣が人間に化けたなどというわけではないだろうが──いや、待て。
「士郎君、その剣は一体どこで?」
恐る恐る尋ねると、士郎は表情を陰らせた。
「あれは──凛の形見で、仇だった」
彼の語った内容はひどく断片的だった──この剣の噂を聞いて、凛と二人で取りに行った。だが中にあったトラップがとても悪質なもので──なんとか剣は手に入れられたものの、凛は重症を負い、自分もまた傷を負ってしまった……
「──そのくらいだな。正直あまり覚えていないんだ……あの時のことを思い出そうとすると……頭痛がして…………っ」
ぐ、と眉をしかめている。
(部分的な記憶障害……? 何でしょう。凛さんも──いえ、凛さんの幻影も──、完全に記憶を失っていて……そして士郎君も? だとすると、そう言うトラップがあったと言うことか? いや、士郎君のはそうではなくて、単に自己防衛のためと言う可能性も──人間、本当に辛い記憶ほどなかったことにしたがるものですし……しかし、これは、なんとも……)
情報が圧倒的に足りていない──断片的に与えられるものはほとんどが連続性を持っていない。それら個々を繋ぎ合わせる何かが必要なのだ、きっと……
「そうだ……士郎君は確か解析能力に長けていると聞きます。その剣の能力は把握しているのですよね? そこから何かヒントのようなものが──」
ほぼ思いつきの提案だった。確か資料にそんなものもあったな──と。彼の魔術の属性は剣。だが特筆すべきはその解析能力であると。だが。
「いや……あの剣に関しては、何も視てはいないさ……」
士郎は力なく、首を横に振った。
「では、その効果までは把握していないと……?」
「そうだな。解析すればよかったのかもしれないが……」
今更だな、と自嘲している。
彼の言葉が正しいのだとすれば、あの剣を取りにいって凛さんは死んだ。だとすれば、そうなる気持ちもわからなくはない──捨てられない、だが見たくもない。決してその感情は理解出来ないものではない──。
「効果は不明……怪しいですね……」
顎に手をあて、ふむ──と考える。
「その剣は凛さんが探しにいこうと言ったんですよね?」
「そう──だったか、な……」
ひどく自信なさそうに曖昧に頷く。
「そこも……覚えていないんですか?」
やや詰問するような口調になっていたことは自覚はしていたが自制はしなかった。士郎は力なく首を振って、
「本当に、記憶が……あやふやなんだ……あの事件の周辺のことが……」
目を閉じ、眉をひそめている。
「あの事件?」
危うく聞き流しそうになるところをぎりぎり捕まえて、聞き返した。
「……ああ、そうだ。凛が、記憶を失う事件だ……」
ひどく疲れたようにうなだれている。少しばかり申し訳ないとは思いつつ、それでも尋ねた。
「そうだ……一番肝心な質問をしていなかった。そもそもどうして彼女は、記憶を失ったんですか?」
「………………………」
士郎は顔を伏せ、しばし考え込んでいたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「……わか、らない」
「──つまり、ある日突然こうなったということですか? 全く何も前触れもなしに? だとしたら、彼女は何かしらの病気や怪我を以前から──」
「違う」
「?」
「そうじゃ……ない。覚えて、ない……」
かろうじて聞き取れるくらいの声で、ぼそぼそと呻いている。苛立ちは表情に出さないよう気を配り、ゆっくりと丁寧に尋ねた。
「あの日は……二人で出かけたんだ。それで──それから─────」
「でかけた? どこに?」
「遺跡…………」
頭を掻き毟り、かぶりを振りながら士郎は続ける。
「そうだ、遺跡に行ったんだ……それで、その中で、何かが…………」
「……あの、士郎君?」
「……二人で探索に──それから──それ、から……っ」
そして唐突に、士郎は動かなくなった。頭を掻き毟っていた手も、呼吸すら止めているのではないほどに微動だにしない。背中に何か圧迫感を覚え、バゼットはそっと声をかけた。
「……士郎、君?」
「──っ覚えてないんだ!」
その叫びは、弾けるように。
「覚えてない──わからない! 全部何も覚えてない! そうだ──何で俺は覚えていないんだ!? こんな大事なこと──凛と約束したのに! なんで俺は──私は──!」
「し、しっかり──しっかりしてください、士郎君!」
慌てて両肩を掴み、がくがくと力任せに揺さぶる。がくりと傾いた士郎の首、頭がようやく正面を向いて、その目を見てしまう。
一点を凝視しているようで、何も映っていない、その瞳。
「凛──なんで……」
その眼が、ぐるりと回転し、体から急速に力が抜ける。失神したらしい。慎重に彼の体を抱え、壁に寄せかける。
「はあ……」
出てきたのは嘆息だけだった。
「なんだ、これは」
呻いた。
「なんなんだこれは……!」
ごすっ、と壁を打ちたたいた。俯いて。
錯乱状態──としか言いようがない。記憶の混濁。幻覚症状。そして、周囲に起こっていた彼にとって辛い思い出。確かにこの状況を作り上げるには十分すぎる。だとしても──これは、あんまりだ。そうだ……あんまりだ。バゼットは俯いて深く嘆息した。
「どうすれば、いいんですか……」
そっと士郎から視線を外し、窓の外を見上げる。その行為は決して救いを求めてのものではない──はずだった。ただ、何かに嘲笑れたような気がしていた。
Y
「はあ……」
士郎をベッドへ運んで、居間へと戻ってきた。何が何だかさっぱりだ──ひょっとして、と思う。
(もう……どうにもならないんでしょうか……)
恐らく凛はもうこの世にいない。
士郎はあの調子だ。
「こんな、形で……」
何がいけないんだろう。長年連れ添ってきた恋人が死んだ──確かに言葉にすれば悲劇的だ。だが、言ってしまえばその程度の悲劇など、どこにでも溢れている。そして皆、悲しみから立ち直り、あるいは目を背けて歩いていく。年月の違いこそあれど、別段珍しいことでは決してない。それと、彼の場合と。一体何が違ったというのだろう。
魔術的な要素が何か絡んでいたのだろうか。一番初めに思いつく相違点と言えばそのくらいだが──
(じゃあ……もし、普通の、ごく普通の別離だったらどうなんでしょうね)
例えば、病死、事故死。そうだ、死など世界のどこにでも溢れているではないか。
(……凛さんの幻影がいるから士郎君はひきずられている。それは間違いない。そうだ、彼女がいるから逆に状況は悪くなっている……)
ああ──そうか。
何故こんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
一番近くに、こんなにもピースが揃っていたと言うのに。
(…………そうだ)
それは、簡単なことだった。
その別れが異常なものだったとすれば。
思い出を、上書きすれば、問題ない──。
(記憶操作……彼は魔術師とは言え抗魔力は極めて低い。問題はない──)
ふらり、と立ち上がる。
ああ──もう、本当に馬鹿みたいだ。
何でこんなことに悩んでいたんだろう。
元より自分は昔から、こんな方法しか取れなかったではないか──。
「そうだ……ニセモノのキオクなんか、消してしまえば、いい」
思いを言葉にのせたことで、何かが吹っ切れた。
要するに、面倒くさくなったのだ──と自覚する。訳のわからない錯乱者も意味のない幻影ももううんざりだ。下手に立ち回ろうとするから失敗する。理解はしなくてもいい。ただ結果だけが残ればいい──
(その前に……彼女が、邪魔だ。いくら記憶を消しても、見えていたのでは意味がない、か……)
今の自分がどんな表情をしているのかは容易に想像出来た。きっと笑っている。
ゆっくりと、足を進める。
凛の部屋の扉を、そっと開ける。
彼女の幻影は、ベッドの上で苦しそうに横になっていた。音で気づいたのか、こちらに目を向けてきている。
相変わらず顔色は悪い──
(そうだったな……彼女は何故かは知らないが、随分衰弱している……)
それならば──と思案する。
何も偽物の記憶を植え付ける必要もないのではないだろうか。
(このまま、もし凛さんが弱って……死んでいけば……幻覚の消滅としてではなく、ヒトとしての死を迎えてくれれば……)
目の前で彼女の死を看取れば、今度こそ本当に、衛宮士郎は彼女の死を受け入れるだろう。
彼は恐らくひどく嘆くだろう。でもそれは──そう言うものだ。人が生きていくうちで、別れを経験しないものなどないのだから。そう、それは決して特異なことではない。恋人、家族、友人──人が人と出会う以上、別れも必ずある。だから、彼には人並みにその死を悲しんで、そして人並みに立ち直ってくれればいい。
(そうだ。何も焦ることはない……彼女が死んでくれれば、話はこじれないんだ──そして、士郎君が、ゆっくりでもいいから、彼女の死をきちんと受け入れられたら。そうしたら、日本へ連れ戻そう……)
「あー、うー?」
ひどく弱々しく──それでも、けなげに笑いかけてくる。
「………………………」
何も答えない。バゼットはただ無言のまま彼女を見下ろしている。
──残酷だとは思わなかった。何故かなんて考えるまでもない。ここにいる彼女は幻影なのだ。生きてなどいない、ただの幻。
天秤にかけるまでもない。一人の人間の人生と、一つの幻影の消滅。どちらを優先させるべきなのかなんて、わかりきっている。だから、それでいい。問題はどこにもない。これでいいのだ──。
「……あー、ぁー?」
凛は、無邪気に笑いかけてくる──。
必死に目を合わせないようにしつつ、握った拳を確かめる。そうしなければいけないような気がしていた。
──こんなコトで決意が揺らぐなんて。前はありえなかったはずなのに。苦笑を噛み潰しつつ、頭を振ってそっと拳を解いた。
「……そうだ、夢は、いつかは覚めなければいけない」
なついてくる凛の黒髪をそっと撫でながら、バゼットは優しく囁く。
「でも、それなら、精一杯、楽しい夢を見る努力くらいは……、してもいいはず──」
自分に言い聞かせるようにして呟いたその声は。
「残念。そんな余地なんざ、どこにも入る隙間はねえよ」
──耳元でふいに囁かれた声で、寸断された。
「な……!?」
慌てて周囲を見渡す。
が、誰もいない。
自分と、凛の二人だけしかいない。
「なん……だ──?」
その問いに答える者はいない──
誰も、いなかった。
Z
広がっていたのは、恐ろしいほどの静寂。何も聞こえない。何もわからない。
一瞬か、それとももっと長かったのか。どうやら自分の意識は途切れていたらしい。
何が一体どうなったのだろう。わからない──理解出来ない。
状況を──なんとか飲み込もうとする。
まず一番初めに気づいたのは、目が見えないということだ。一時的なものなのかどうかはわからないが、視界は黒一色に塗りつぶされている。
次に、痛み。
激痛が全身から警鐘を鳴らしている。全身の骨と言う骨が鉛にでもなったかのように体が重い。
一番大きいのは後頭部のものだった。相当強く打ったのか、他の傷に増して痛みが激しい。これのせいで思考が寸断されてしまう。恐らく出血もしているだろう。
自分の状況はなんとか把握できた。次は──
……次は、何だ?
今まで俺は何をしていたんだ?
思い出せない──わからない。俺は……さっきまで一体何を──
──視界いっぱいに広がったその光景は、少なくとも美しくはあった。飛沫が宙を──
「そうだ、凛!」
叫んで彼は手を周囲へと伸ばそうとして──自分が何かを背負っていることに気づいた。
「凛……なのか……?」
黒い闇の中、必死に呼びかける。
「…………士郎」
聞こえるか聞こえないかというくらい小さくか細い声が、耳元から届いた。
「凛……凛……っ」
慌てて顔をそちらへと向ける。視力は未だ回復しない。
……後頭部が痛む。気を抜けばそのまま倒れてしまいそうなくらいに痛みがひどい。
「だい──じょうぶ、か?」
「…………」
声が帰ってこない。焦燥感を抱き、再度呼びかけようとした刹那。
「士郎、好きよ……大好き」
溜息のような熱い囁きが、耳の横で聞こえた。
「何を突ぜ──」
慌てて振り返ろうとして、
ぬちゃっ……
ひどく重く熱い液体が、服にべっとりと付着していることに気がついた。
これは……なんだ
血──なのか……?
「凛……? 怪我、してるのか……?」
「あはは……しくっちゃった……ああもう、ほんと、どうしてここ一番で──」
笑っている──自嘲ともつかない、ひどく弱々しいもの。
そう言えば、声がひどく小さい。
どのくらいの傷なんだ
くそ、早く視力が回復すれば──
「いいからしゃべるな! 今治療を──」
とにかく傷の具合を確かめる必要がある。凛を床へ降ろそうとして──
「……いいから。進んで?」
耳元で、そう、囁かれた。
「凛……?」
顔を──顔を、見せてくれ
なぜこんなにも真っ暗なんだ
「士郎、ごめんね……」
やめてくれ。なんで謝るんだ
凛
凛──
「ずっと……一緒にいられたら、よかったのにな──」
すっ……と。
その言葉に、背中が、冷え込んだ。
嫌な予感を押しこめて、叫ぶ。
「何を……言っているんだ……一緒だ、ずっと一緒だよ凛!」
「うん、ありが、と……」
あはは、と弱々しい笑い声。
「いい……士郎、よく聞いて」
ね? と囁き、凛はこちらにしなだれかかってきた。
耳元に、吐息がかかる。
「士郎、あなた、は─────────────────」
「─────────っ!?」
がばっ──
跳ね起きて──息を大きく吸い込む。
目の前にあるのは……白いシーツ。
顔を上げる。
見慣れた古ぼけた壁が、目に映る。
窓の外では、雨が降っている。
──自分の家だ。そこまで判断して、ようやく息を大きく吐き出した。
「…………また、夢か」
気づけば、呟きがこぼれていた。
「……もううんざりだ」
眠ると決まって夢を見る。凛の夢だ。凛の────な夢。
「眠ることすら……許されないと言うのか? 私が一体何をしたと言うんだ──」
激昂しようとして──ふと感情が立ち止まった。
「そうだ……俺は、何を……………?」
耳鳴りがする。頭痛がひどい。気持ち悪い──ひどく、何か、気に食わない。それが何なのかが最も腹立たしい。ああそうだ、気に食わないのならばいっそのこと──
「……っ」
気づけばじっとりと額に汗を浮かべていた。何か決定的な所で履き違えているような。ひどく単純で凶悪な破壊衝動がこみ上げていると言うのに、どこか致命的な絶望感があって、もう何がなんだか──
「なんでだ……なんでなんだっ!」
がしゃんっ!
感情に任せて、腕を振りぬいた。机の上にあった物が床に散乱した。腕が鈍痛を訴えている。
「士郎君?」
居間からバゼットが顔をのぞかせている。
「なん、で────」
呟いて、がくりと膝から崩れ落ちた。
わからない。
自分が、よくわからない。
何故こんなことに
どうして
どうして……
ぺたん、ぺたん
足音が近づいてくるのが聞こえて、かぶりを振って眼を瞑った。もう嫌だ。何で自分だけこんな目にあうんだ。不公平だ。確かに至らない部分もあったかもしれないさ。でも──だからって……
────ぽんっ
頭の上に、柔らかい感触。
のろのろと目を開けた。
そこには──
「……うー?」
自分の頭を撫でながら、心配そうにこちらの顔を覗き込む凛の顔が──。
「………………………………………っ!」
頭の中が真っ白になっていくのが自分でもわかる。鼓動の音がけたたましく鳴り響いている。
「あー、あー」
何かを訴えるように、一生懸命の目を覗き込み、頭を撫でてくる。
「凛…………」
そっと──手を伸ばした。
彼女の首の後ろへとそろそろと回し、そして、壊れないよう優しく抱きしめる。
「ふあ……?」
びくり、と凛の体が揺れた。
しかしそれだけで、さしたる抵抗はない。
手からは、確かな感触が返ってきた。
幻ではない。
温かい、鼓動。
「……凛」
呟いた自分のその言葉で──何かが、すとん、と。胸の奥に落ちてきたような気がした。
「うにゃぁ……」
くすぐったそうな声が、耳に届く。
柔らかい漆黒の髪に指を絡ませ、顔を埋める。
「そうだな、……うん、そうだよな……」
ひとり頷いて、凛の体から離れ、真っすぐ目を覗き込んだ。
「凛は……凛だよな」
「……う?」
よくわかっていないのか、凛はにぱっと笑い、手を伸ばしてくる。その掌を取り、彼は立ち上がった。
「……治すからさ」
きゅっ、とその手にほんのわずか、力を込める。
「絶対、凛の記憶、取り戻して見せるから──」
そうだ。嘆くだけなら、いつだって出来る。
記憶がない? そんなことは瑣末だ。死んだと思っていた凛が生きていた──それだけで十分じゃないか。
やらなければいけないこと。彼女を元に戻すこと。これ以上ないくらい明瞭じゃないか。
何を迷う必要があると言うんだ。
あと必要なのは、自分の覚悟。
凛と一緒に居続けると言う、自分の覚悟だけだ──
「だから、これからも、一緒にいような、リン……」
凛はその言葉にゆっくりと振り返ると、
「……ん」
そう囁いて、柔らかく微笑んで──
かくんっ────
人形のように滑稽に。
唐突に──全身から力が抜け、彼女は気を失った。
[
「リン──!?」
反射的に凛の体を支えつつ、士郎が叫ぶ。
「リン、しっかりしろ! リンっ!」
「ちょっ──落ち着いてください士郎君!」
慌てて凛の体を士郎から引きはがし、バゼットは鋭く叫んだ。
「体を揺らさないでください。そっと運びます。いいですね?」
「あ……ああ」
のろのろと力なく頷くのを見てから、彼女の体を士郎の背中へと預ける。ゆっくりと背負いあげると、士郎は進み始めた。
「リン、しっかりしてくれ……」
呻くようなその呟きを残して、士郎が凛の部屋へとはいっていく──その後ろ姿を見送りながら、バゼットは溜息をつこうとして──
「…………っ!?」
思わず、息を飲み込んだ。
士郎に背負われた凛の姿が、次第に薄れて──、消えた。
「な────」
見えるはずのない士郎の後頭部が、背中が──見えている。
が、それもほんの一秒にも満たない間だけ。
すぐに彼女は色を取り戻している。
(なん、だ……? 今のは……)
目の錯覚? いや、それにしても──。
人間の体が消えることはありえない──当たり前だが。だが、彼女は人間ではない。あくまでも推測の域を出ていないが、幻影にすぎない。それが一瞬なりとも消えた。つまり、幻影が解けかけた。──幻に、綻びが生まれている。
これはつまり──
(幻影の効果が……消えかかっている……?)
魔術が魔術として効果を発揮できるのには、様々な制約がある。それはつまり人間の持つ魔力が有限であることにも関係しているのだが──要するに、魔術と言う力は決して万能ではないということだった。
(士郎君は──私もですが──、一回この幻影に飲み込まれている。効果をおよばさないわけでもない。そして、効果範囲から出たということも考えにくい……彼らはずっとこの家にいた。元となる何かが移動しているのならばまた話は違ってくるが。だが、やはり一番可能性が高いのは、効果時間の限界、か……)
凛が死んだとされているのは一か月前だ。恐らくそれと同時期に、この幻も生まれたはずだ。一ヶ月間。かなりの長期間と言えるだろう。幻影が消滅するには十分すぎる期間だ。
心の中で舌打ちしつつ、冷静に思考を巡らせる。
(あと……どれくらい持つんだ。一日? 一週間? まさか一時間だけなんてことはないでしょうが……そうか、衰弱していたのは、ひょっとしてそのこととも関係が……?)
あるいは恐ろしく高レベルのものなのかもしれない。つまり、効果が弱まるにつれて自身も衰弱する。消えるときには死ぬ。そうすることで対象者に最後まで幻覚と思わせない──
考えられなくはない。いずれにしても推測の域を出ないことだが。
「士郎君、凛さんの体調なんですが──」
思わず部屋へと駆け込み、尋ねている。
「その、彼女はずっとこんな感じだったんですか? それとも、段々調子が悪くなってきたのか……」
「……そうだな。目に見えて調子が悪くなりはじめたのは、大体一週間くらい前だな」
凛にシーツをかぶせつつ、士郎は疲れたような溜息を吐いた。
(すでにもう、一週間が経っている……。本当に余裕がないじゃないか。くそ、どうする……いや、何を言っているんだ。これでいい……これでいいんだ。偽物が消えて、全てが正常に戻る。何の問題もないではないか……)
口元に手を押し当てつつ、黙考する。
(でも、本当に一番いいのは──ああ、そうだ。そんなの、はじめからわかりきっている……)
ぼんやりと、窓の外へと視線を向けて。
(このリンが、本物だったら──それで話は終わるというのに……)
考えてはいけないことだ、と嘆息する。
「……士郎君」
「ん?」
「その……」
口を開いたはいいが、言うことが思いつかないことに気がついた。何と声をかければいいと言うのだ──もうすぐそこの凛さんは消えるから、覚悟しておいて下さいとでも? ああ、だが確かに心の準備は必要かもしれない。二回目の凛の死は、彼の心に決して少なくない影響を及ぼすだろう。一回目で、性格と記憶が壊れた。ならば二回目は? 今度こそ心が壊れるのかもしれない──最悪の事態は避けたい。
(……しばらく、目の届く所にいたほうがいい、か。彼が何をしでかすかわからない以上、監視は必要だ)
決意してから、笑顔を作って提案する。
「──その、しばらく私もここに泊まってもいいですか?」
「何故だ?」
「ええと──凛さんは体調が悪いのでしょう? 看病が必要だ。でも貴方一人ではどうしても限界がある。人手は多いに越したことはないはずだ」
「…………」
士郎は値踏みするかのようにこちらを眺め見ている──
……ふっ
その士郎の背中で、また凛が一瞬消えている。
視線を移動させそうになるのを必死に自制して──唾を飲み込む。
「……まあ、そうだな」
士郎は頷いた。どうやら背後で起きたことには気づかなかったようだった。ほっと吐息を吐き出しつつ、
「感謝──しなくれはいけないんだろうな。きっと」
「いいんですよ。私がしたくてするんですから」
動揺を押し隠すことにはどうやら成功しているらしい──ともすれば強張りそうになる表情を誤魔化すようにして、手で口元を覆う。そのついでに思考して、そして気づいた。
「ああ、でもそうすると今ある荷物を持ってこないといけませんね……士郎君、すみませんが、いったん宿に戻ってもいいですか?」
「好きにするがいいさ」
適当に頷いてくる士郎に軽く手を振り、
「ええ。ではそうさせてもらいます。──ああそれと」
言いつつ、士郎の腕を引っ張った。
「部屋から出ましょう。彼女を少し休まさなければ」
「リンから目を離したくない──」
「傍でじっと見られていると凛さんもきっと疲れますよ。落ち着いて眠れないかもしれない。貴方だってそれくらいはわかるでしょう?」
「……そう、だな」
士郎は頷いた。
「……リン、隣の部屋にいるからな」
そっと囁きかける士郎と凛を眺めながら、とりあえず二人を引き離すのに成功したことに安堵する──彼女が消える瞬間を見られるのは厄介なことになりかねない。どの道いつかは気づくのだろうが、それでも今すぐでなくてもいいはずだ──
士郎の背中を押しだし、後ろ手に扉を閉めて、嘆息する。
「はあ……」
「……どうした」
不思議そうにこちらを眺めてきている。だとすれば、安心したのが思いきり顔に出ていたのかもしれない。
「いえ、なんでも。ああ、すいませんがお茶をもらいますよ……」
言いつつ、カップに入ったままになっているお茶を喉に流し込んだ。冷めていてとても美味しいものではなかったが、喉を潤すことは出来た。これで十分だ。
「ふう……」
「……いかないのか?」
「え?」
完全に不意打ちに呟かれて、思わず士郎を見返した。
「いや、荷物。取りにいくんだろう?」
「あ──え、ええ。勿論行きますとも」
こきりと肩を鳴らして、頷き、出口へ向かう。名残惜しさのような訳のわからない感情が胸をちらりとよぎった。本当に訳がわからない。
「……じゃあ」
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。曖昧にそれだけ残して、外へと出た。空は相変わらず暗く黒い。それでもあの家よりかはずっと広い──当たり前だが。すっと空気を吸い込んだ。あの場所との違いを確認したかったかもしれないが、結局のところ大した違いはなかった。
後ろ髪を引かれるような感覚。本当に何なんだろう──。
「……行こう」
言葉にしてから、無理に体を動かす。宿に行って荷物を取ってくるだけだ。それだけの行為。士郎の家へ泊まる口実、それだけだ。
背後から視線を感じるのを意識しつつ、足を動かし始めた。宿まで大した距離はない。荷物を取って──ああ、そうだ。何か食材でも買ってきたほうがいいのかもしれない。そんなことを思いつつ、歩いていく。
(……せめて、最期くらいは)
唇をかみしめて、なんとはなしに想う。
「最期くらいは、幸せな時間を過ごしてほしいと思うのは……我儘なんでしょうか……」
誰に言うでもないその囁きは、風に流れて消えた。
\
「やれやれ……」
そんな言葉しか、出てこない。
玄関前で立ち止まっていたバゼットの姿が見えなくなって、士郎はぼんやりと呟いた。いまいちあの女の考えていることがわからない。殴りかかってきたかと思えば、今度は泊めてくれと来る。正直言って理解出来ない。だが、看病に協力してくれると言う申し出は正直言って助からないこともない──結局嘆息せざるを得ない。
「……まあいいさ。あの調子なら、放っておけばもう害はないだろう」
そんなことより、凛だ。
ちらりと扉を見る。バゼットはあまり傍にいすぎないほうがいいとは言っていたが、かと言って目を離すのは不安だ。何せ凛の症状は────なのだから。
「……?」
よくわからない。何だったのか──思い出そうとして、結局あきらめる。
彼は凛の部屋へと足を向けた。
音をたてないように扉を開け、そっと中をのぞき見る。凛は弱々しい呼吸を立てて眠っているようだった。ほっと息を吐き、扉を押して中へと入る。
ベッドの脇に置いてある椅子に、音をたてないよう注意しながら腰掛ける。
凛は静かに眠り続けている。
──屋根を音が叩いた。
──どうやら、雨が降り出したらしい。
──雨が降る音。
──屋根に落ちる音。
──屋根から地面へと落ちる音。
静かな音が、静かな旋律を奏でる。
時間が淡々と過ぎていく……
「……うぁ……?」
凛が目を覚ましたのは、しばらく経ってからのことだった。正確な時間はわからないが──少なくともバゼットはまだ戻ってきてはいないようだ。
「リン」
囁いて、そっと額に手を当てる。
「う……?」
凛は僅かに目を開いた。
「……起きたのか。気分はどうだ?」
そっと囁き、優しく頭をなでる。
「ふにゃ……」
凛は気持ちよさそうに、くすぐったそうにしている。
「……ゆっくり、休んでいてくれ」
凛はわかっているのかいないのか、ぼんやりとこちらを眺めている。
眠る邪魔になるな──そう判断して、そっと手を頭からどけようとして、
「んー……」
その手に、絡め取るかのような動きで凛の腕が巻きついた。
「あー……」
両手で、そっと自分の手を掴み、頬にすり当てている……。
「……リン……」
彼女の柔らかな笑顔を見ているうちに、ふいに涙がこみ上げてきた。何故だろう──わからない。わからない……
「……っ」
慌ててもう片方の手で涙を拭うが、どうやら凛に見られていたらしい。彼女は不思議そうにこちらを見上げると、
「あー、しー、しー」
わたわたと身を起こし、倒れこむようにして腕にしがみついてきた。そして。
──────ふっ……
一瞬その手が消えた──ように、見えた。いや、手だけではない、体そのものが、一瞬透けたような……?
「り、リン……?」
ぎょっとして、思わず目を凝らす──大丈夫、凛の手は確かにある。そうだ、きっと何かの見間違いだ。そんなことがあるわけがない──人の体が消えるなんて。
「し、おー」
彼女はそのまま、こちらを不安そうに見上げてくる──
「しおー?」
「……ああ、そうだな。しおーだ。しおーだよ、リン……」
ずきり──頭痛がする。頭のどこかが疼くように痛む。だが、無視できないほどではない。声が震えていることは自覚していたが、どうしようもなかった──囁いて、そのまま彼女を抱きしめる。温かい。柔らかい。
「えへー、しおー」
凛もまた、安心したような声とともに、身を委ねてくる。
「……ここにいる」
囁く。囁いて──また一瞬、腕の中の彼女の感触が消えた。
体の力が急速に抜けていくような。ともすれば想像しそうになる思考を無理矢理停止させて、祈る。
(気のせいだ────)
そう思い、眼をぎゅっと瞑る。
ずきずきと頭が痛い──
頭の隅で、警鐘が鳴っている。
必死にその妄想を振り払い、
「ここにいるからな、リン……!」
言葉を紡ぐ。
なんだこれは──
リンが──消える?
何でだ──何でだよ──こんな──
気づけば不安が思考を加速させていた──駄目だ、もう止まらない。怖がっていることを自覚してしまったのだから。だからもう、この思考は止まれない──
──猛烈に嫌な予感がする。何が起こっている? 何でこんな──リン──
「リン、どうした。大丈夫か? リン──リン──っ!」
必死に叫んだ。もう、一体何が起こっているのか、訳がわからない。
必死に抱きしめた。目を閉じて、ただひたすらに抱きしめた。腕の中の感触が、一回、二回……消えてはまた復活する。
目が開けられなかった。何が起こっているのか、見たくない。
「何でだよ……お願いだ、リン……」
声が……震える。
訳がわからない。
何でこんなことになっているんだ。
駄目だ。止めてくれ。もう──沢山だ。
もう、リンしかいないのに。
なんでそれすら、奪おうとするんだ。
お願いだから、もうやめてくれ────
「し、おー」
……その声に。
恐る恐る、瞼を開いた。
目の前にある凛は、柔らかく微笑んでいて。
幸せそうに、笑っていて。
「…………リン…………」
声が震えているのがわかる──
「しおーっ」
凛は、そう呟いて、微笑んで──
ふっ─────…………
あっけなく。
あまりにもあっけなく、凛の姿が消えた。
「────────────────────────────っ!?」
声にならない悲鳴は、なんとか飲み込んだ。
違う──違う。そうだ、きっとさっきみたいに──、今までみたいに、消えるのは一瞬だけで、すぐにまた姿を現す……そうだ、そうに決まっている……
(ああ、そうか──)
頭痛の正体。あれはそう言うことだった。そうだ──今までも、彼女の体が消えかけたことがあった。ただ、気のせいだと思い込んで──忘れようとして──忘れて──なのに──だから────っ
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………リ、ン?」
もう、何秒か、過ぎたはずだ。
「リン……おい、リン……」
何で、出てこないんだ?
そうだ──きっとどこかに隠れて、驚かそうとしているんだ。
困ったもんだな──本当、困ったもんだ。本当に────何で──────
「っリン!」
叫んだ。
叫んで、飛び起きて──
──飛び起きた?
「ゆ……め?」
そうだ。
夢だ。
今のは夢だった──
そうだ、リンはどこに──
慌てて彼女の姿を探そうと顔をあげて、
「──あーくそ、なんだよ。起きやがった」
ふいに、そんな声が耳に届いた。
「な──」
ぎょっとして、姿を探す──までもない。すぐ目の前、50センチも離れていないところに、一人の男が立っている。
暗くて、男の顔は判別できない。いや、それに加えてどうやら布で顔を隠しているようだ。
「誰だ貴様は──!?」
思わず激昂して叫ぶが、男はさして気にした様子もなく平淡に告げてきた。
「さあねぇ……。まあいいや。だりい。興ざめですよ、っくしょうが」
「……? 一体何を言って……?」
わけがわからない。この男は誰だ? 何故こんな所にいる? 何が目的なんだ──?
「殺してやるのは、また次にしてやるよってことだ」
疑問を全部置いてけぼりにして、男はそう告げると素早く扉の奥へと身を滑らせた。
「ま、待て──」
慌てて追いかけようとする──が、それよりも先にしなければならないことに気がついた。ベッドの上。今までは男が邪魔で確認できなかった場所。
「……リンは!?」
ばっ──
振り返る。
が──いない。
ベッドの上には、誰の姿もない。
「リン、リン……!」
慌てて部屋を飛び出した。
男はすでに家から飛び出したらしく、姿は見えなくなっている。
──いや、それどころじゃない。あっちはどうでもいい。
必死に家中を捜索した。とは言え広くもない家だ。自分の部屋と、今と、バスルーム。残った部屋はそれしかない。
そして──そのどこにも凛の姿はなかった。
ふと思いつき、再び部屋へと戻ってベッドの下を確認する──靴はある。外に出たわけではない──はずだ。
「そん、な……………………………………」
呆然と、呟く。
夢じゃ──なかったのか?
リン
リン──
なんでだ──どうしてだよ──こんなの、あんまりだ──
「うあぁ……」
声にならない声で呻き、その場に崩れ落ちた。
凛。リン。どうして俺の前からいなくなるんだ──
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
絶叫が頭の中に響く。
もう、何もわからない。
もう、何もかもがどうでもいい──
雨の音が、やけにうるさい
遠くで誰かが呼んでいるような
どうでもいい──
リン──
凛────
どしゃぁっ──
飛沫が跳ねる。
泥だらけの草原に、凛が倒れ落ちた。
凛はぴくりとも反応しない
だって、凛は、もう、
ぐるり、と視界が暗転するのを見ているような
、
「ずっと……一緒にいられたら、よかったのにな──」
すっ……と。
その言葉に、背中が、冷え込んだ。
嫌な予感を押しこめて、叫ぶ。
「何を……言っているんだ……一緒だ、ずっと一緒だよ凛!」
「うん、ありが、と……」
あはは、と弱々しい笑い声。
「いい……士郎、よく聞いて」
ね? と囁き、凛はこちらにしなだれかかってきた。
耳元に、吐息がかかる。
「士郎、あなた、は─────────────────」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ────」
まるで自分が溶けて崩れていくような
誰かが、叫んでいる。
誰かが、泣いている。
涙が
/凛が
消えて
溶けて──
見えなくなる──
例えば自分をずたずたに壊していくような
凛はぴくりとも反応しない
「しおー」
凛は、そう呟いて、微笑んで──
「士郎、あなた、は─────────────────」
あっけなく。あまりにもあっけなく、凛の姿がきえた。
だって、凛は、もう、
オレは
私は
誰かが
声が
呼んで
「ああああああああああああああああああああああああ──────────」
雨の音が
やけに
ひどく
うるさくて
要するに全部何もかもに絶望するような
「っそこには、誰もいないです! 凛さんは────」
「くっちゃった……ああもう、ほんと、どうしてここ一番で──」
「今の貴方の姿を見たら──凛さんは、きっと──── 」
「──あああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
つまるところ、もう、叫ぶことくらいしか出来なくて
絶叫が、途切れて。
世界が、暗転した。
誰かが、嘲笑っているようだった。
何かが、崩れたような気がした。
雨音も何も、もう、聞こえなかった。