61.りとらい
「は……はっ……」
肺から空気を搾り出して、額の汗を拭う――
人通りのない裏通りまでやってきて、ようやくアーチャーはその足を止めた。
「……なんとか、逃げ切れた、か……」
前後左右、果ては上空まで見渡して、アーチャーは慎重にそう呻く。
「いやあ、あんな所に出てくるなんてびっくりよねー」
緊張感のかけらもない声で凛が笑う。
「そ、そうだな」
引きつった笑顔を浮かべてみせながら、アーチャーはそれに同意した。
「じゃあアーチャー」
ぱんっ、と両手を合わせて、凛はにこやかに続けた。
「もう一回いきましょう?」
ばったり。
62.壊
「アーチャー起きなさい、アーチャーってば」
うつぶせに倒れたきりぴくりとも動かないアーチャーをげしげしと足で蹴り倒しながら、凛は困ったように眉を寄せた。
「あーもう……」
まいった、と言うように、天を仰ぐ。
「ふ……ふふふ……」
それは、低く暗い笑い声だった。
凛はぎょっとしたように顔を引きつらせて、足をアーチャーからどけた。
「……ち、ちょっと……?」
恐る恐る、そう尋ねる。
「ふふふふふふふ――」
あくまでも倒れたまま、笑い続けるアーチャー。
「……ア、アーチャー……?」
顔を青ざめさせながらうめき声をあげる凛――
それを他所に、アーチャーはただ、笑い続けていた。
63.ふ
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――」
「ちょ、ちょっとアーチャー、しっかりしなさい。ねえ、アーチャーってば」
引きつりまくった笑顔で言いながら、凛が必死にアーチャーを起こそうとする。が、大きさが違いすぎるせいか、ぴくりとも動いてはいなかった。
「ああもう、やりすぎたのは悪かったわよ」
がしがしと頭をかきつつ、そっぽを向いて凛はしぶしぶ言い放った。
ぴくり、とアーチャーの体が動いて、笑い声が止まる。
「…………ふ?」
「言葉喋んなさいっての」
げしん、と頭を蹴り飛ばして、凛は半眼で呟く。
「………………………ふふふふふふふふふふ」
「だあああっ! だからやめなさいっ!」
結局――
アーチャーは、もう一度凛が折れるまで、えんえんと笑い続けた。
64.その程度
「…………全く」
ぶちぶちとアーチャーの頭の上で愚痴りながら、凛は腕を組んで前を見据える。
「とんだ道草になっちゃったじゃないの馬鹿アーチャー。さっさといくわよ!?」
「それは……私のせいなのかね……?」
なんとか反論出来るくらいまでには回復したのか、アーチャーは道を歩きながらのろくさと呟いた。
「え、何か言った?」
「いや特には」
しれっと言い切り、すたすたと道を歩く。
「ほら、さっさと進みなさい」
ぺしっと頭を叩く凛に、アーチャーは恐る恐る聞き返した。
「……もう、ティッシュは買わなくていいのかね……?」
凛はえ? と聞き返したあと、あっさりと、
「ああもう、いいわよめんどいくさいし。どうせネタだし、よくよく考えたら士郎におみやげなんて別にいらないでしょ」
「……………………………………………」
65.苛立ち
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――」
「あーもう! だから寝たまま笑うんじゃないっ!」
再びばったりと地面にうつ伏せに倒れたアーチャーに向かって凛が怒鳴る。
「そうだ……そうだったんだ……私の時もそんな感じの扱いで…………………」
ぼそぼそとなにやら呟いているが、凛には聞こえていないらしい。わめきながら、げしげしと蹴り飛ばしている。全くもう、と額の汗を拭い、凛は呻いた。
「……ああもう、何ぶつぶつ言ってんの」
「…………………いや。何でもない」
斜めに傾き、地面に視線を向けたまま呻くアーチャー。
「ところで凛」
「え、なに?」
きょとんとして聞き返す凛に、アーチャーはさりげなく尋ねた。
「今後──衛宮士郎とどういう関係を築いていくのか、何かこう、プランのようなものはあるのかな……?」
「……………。」
──凛は沈黙した。
「……凛?」
不安になったのか、僅かに視線を上へと向け、アーチャーが尋ねる。
凛は小さくくすりと笑うと、
「ふうん? つまりこういうことかしら。アーチャーはわたしが士郎とくっつけばいいとか、そんなこと思っているの?」
「……い、いや。そう言う訳ではないのだがな。あくまで可能性の一つとして──」
「……ああ、そうっ」
苛立たしげにそういい捨て──凛は腕を組んで、ぷいとそっぽを向いた。
66.思い
「…………ええと、凛……?」
そっと、おずおずと声をあげるアーチャー。
「…………。ふぅ……」
わずかな嘆息が頭上から響いてくる。
「……ううん、なんでもない。行きましょう、アーチャー」
そう呟く声には、何故か疲れたような響きが。
「あ、ああ……」
曖昧に頷き、それでも歩みを再開する。
「ね、アーチャー」
そう囁きかける声は、僅かに儚げに。
「──何だね」
そう尋ねる声は、ややぶっきらぼうに。
「もし……もしわたしが士郎と、その……一緒になったら」
一瞬、言葉に詰まってから、凛はそっと尋ねた。
「その時は──貴方は祝福してくれるの?」
「…………」
沈黙。
黙ってアーチャーは道を歩んでいく。
「……アーチャー?」
いい加減じれて、凛が聞き返す──その、まさに同時。
「────……そうだな」
アーチャーは呟いた。
誇らしげに。悲しげに。そして──真っ直ぐに。
「それで君が幸せなら。後悔しないと言うのなら──祝福させてもらうよ、凛」
呟き、そっとポケットを漁る。
その掌の中には、赤いペンダントが鈍い光を放っていた。
67.責任の所在
「あ、見えた見えた」
ぽつりと凛が呟いた。
「ああ、あそこだな」
アーチャーの指差した先には、一軒の純和風の建物があった。衛宮士郎の屋敷である。
心底安堵したようなアーチャーの嘆息を他所に、凛はつまらなそうな表情で、段々と近づいてくる屋敷を眺めていた。が、唐突に何かを思いついたのか、『ぱんっ』と両手を打ち合わせると、
「あ、アーチャー」
「……なにかな」
嫌な予感でも感じたのか、慎重に尋ねるアーチャー。
凛はぴっと指を一本立てて、
「なんだか家の鍵閉めたか不安になってきたから一旦帰りましょう?」
「猫一匹寄り付かない家なんだから何も問題はなあああい!」
そう叫んでアーチャーは、全力で屋敷との距離を縮めていった――
68.ぎりぎりアウト
「ふ、ふふふふふ……」
口の中で笑いながら、アーチャーはただひたすら感激していた。
「長い……長い道のりだったさ……だが、ついに! ついに着いた……! 誰にも見つかったり捕まったり色々する前に着いた! 見たかね凛、これが私の実力というやつで――」
「ママー、へんたいさんがいるよー」
「しっ、みちゃいけません」
そして。
男泣きに泣いているアーチャーの後ろの道を、一組の親子が通り過ぎていく……
「……ぎりぎりアウト、ね」
ぼんやりと、やる気のない声で呟く凛。
「……………………………………………………」
ガッツポーズを取ったまま、ぴしりと固まったアーチャー。
「ねえ、なんであのひとあんなかっこうなのー?」
「世の中にはそういう人もいるのよもしもし警察ですか?」
「…………………………………………………………………」
ひゅるりと風が吹き、アーチャーのエプロンを舞い上げる。赤のビキニパンツがちらちらとのぞく。
「………実力?」
ぼそりと呟く凛。
「…………………………………………………………………………………」
69.変コンビ
衛宮士郎は台所で夕飯の支度をしていた。ガスコンロの上には大きな鍋が鎮座しており、中には卵や厚揚げ、大根などが入っている――どうやら今日のメニューはおでんのようだ。
「ん、よしっ」
小皿に出汁をとり、一口なめ取ってから士郎は小さく頷いた。と。
ふいにチャイムが鳴り、士郎は振り返った。
「はーい」
大きく叫び、エプロンを手早く外して玄関へ。
「どちら様ですかー?」
言いながら士郎は扉を開けた。
そこには――
「…………ふん」
やたら不機嫌そうな、ネコ耳裸エプロンのアーチャーと。
「や……やっほー」
その頭の上に乗っている、やたら小さな姿の凛がいた――
70.全力門前払い
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。三人は向かい合ったまま言葉を発することなく固まっている……
「………………………ええと、士郎? これには深い理由がね?」
愛想笑いを浮かべて凛がそう言いきる、その前に。
がらっ、ぴしゃん!
士郎は視線を限界まで逸らしながら、全力で扉を閉めた。
「…………」
「…………」
取り残された二人は、どうリアクションをしていいものかと、固まっている。
「……………なあ、凛」
「……………なに、アーチャー」
ぼそりと呟いたアーチャーに、やはりぼそりと凛は返す。
「……………そろそろ本気で、くじけそうなのだがな……」
「……………偶然ね……わたしもよ……」
そして、衛宮家の招かれざる客は、玄関の前で二人して涙するのだった。