31.説教
沈黙。
絶対的な静寂が、場を支配していた。
はあ……
嘆息はアーチャーのものだった。恐る恐る凛が顔をあげると、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて凛を見下ろしていた。やがて彼は、再び嘆息すると席を立った。こめかみに人差し指を押し当て、眉間にしわを寄せて眼を閉じる。その様子を見ながら、凛は何も言えずにただじっとしていた。
「……凛。いいかね」
そう告げるアーチャーの声は、ひどく突き放したような響きを兼ね備えていた。凛はうっと呻いて唇をかんだ。が――それでも強気な姿勢は崩さず、アーチャーを睨み返した。
「な、なによ」
「君は一体何を考えているんだ、凛」
怒気を隠そうともしない、低い声だった。
「う」
凛は再び口ごもったが、今度はそこでくじけなかった。吐き捨てるように言葉を続ける。
「そ、そりゃあ確かに魔術でどうにかしようっていうのは悪かったけど――」
「そうじゃない!」
アーチャーの朗々たる声が、凛の言葉を遮った。
彼は一足飛びに凛の乗る机に寄ると、凛に顔を近づけた。
「そうじゃないだろう、凛」
そしてアーチャーは、つばを飛ばしつつ一寸の迷いもなく言い切った。
「胸はちっちゃくてなんぼだろう――!?」
「ガンド」
32.ばか
「つまりあれか。もうこのバカはバカなんだからどうしようもないって言うかいらないのよね?」
「い、いや凛。ちょっと待て。今のはちょっとした冗談で――」
よろよろと机の影から身を起こしつつ、アーチャー。
それをつまらなそうに横目で見つつ、凛は嘆息した。
「……一瞬でも反省したわたしがばかだったわ」
「む、何か言ったかね、凛」
今の言葉を聞き逃したのか、きょとんとしてアーチャーは聞き返した。
「な、なんでもないわよ」
ぷいと顔を背け、そう言い切ってから――嘆息。
顔を向けた方向には、窓があった。赤い空が屋敷の庭を照らしていることに気づいて、時計を見る――4時31分。いつの間にか夕方になっていたらしい。
それをぼんやりと眺めながら、凛は。
「……ばか」
そう小さく呟いて――もう一度だけ嘆息した。
33.守るべきもの。
「むう」
アーチャーは戸惑っていた。
原因は、凛の急激な態度の変化である。
(まずい……これはまずいぞ……)
内心で呟きながら、アーチャーは顔を引きつらせていた。と言うのも、彼女が急に大人しくなるときは、その後に爆発するための、いわば『溜め』のようなものであり――そしてそれは概ね、彼に洒落では済まない規模の致命的なダメージを与えることと同義だったためである。
「そ、そうだ、凛」
彼は顔を引きつらせながらも提案した。
「………」
凛はそっぽを向いたまま反応しない。
アーチャーの顔が、わずかに曇る――が、それでもくじけずに彼は続けた。
「そういえば、君のリボン。あれもなくなっているようだ。それでは色々と困るだろう?」
今度はもう期待していなかったのか、アーチャーは凛の返事を待たずに手をポケットに突っ込み――凛の目の前に突き出した。
「ほら――凛。これでどうだ」
その上には、いつも彼女がしているリボンの縮小版がちょこんと乗っていた。
凛はあくまでもそっぽを向いたまま、面倒くさそうに呟く。
「……いらないわよ、そんなもの」
「―――凛!」
怒声。
「いいかげんにしないか。君らしくもない」
「なっ――」
その言葉にかちんときたのか――凛は顔を引きつらせて叫ぶ。
「ちょっと待ちなさい! 何よ、わたしらしいってのは!」
「言葉通りの意味だが?」
「ああ、そう。ふうん?」
「貴女がどう思っているかはしらないけどね、わたしは――わたしは……」
そこまで言ってから、凛は唇を噛み締めて俯いた。
が――それ以上に戸惑った表情で、アーチャーがやや遠慮しながら、恐る恐る口を挟む。
「……いや、少し待ってくれないか」
少し考えてから――、慎重に尋ねる。
「何をそんなに怒っているんだね……?」
そして彼は、やはりおろおろとしながら、
「私はただ、ツインテールでない凛など凛ではないと言いたいのであって」
「って、そっちのほうが悪いってのよーーーーー!」
叫び声と共に、屋敷が大きく振動した――
34.究極の質問
「これでよし、と」
きゅっ――
言うと同時に、リボンを結び終え、アーチャーは満足げに頷いた。
凛はもはや反抗する気力もないのか、されるがままになっていた。
アーチャーは目を細めて、口元をゆるめながら、
「ああ、それでこそ凛だ」
「……あんたにとってわたしの存在意義はニーソックスとツインテールなわけ……?」
「ま、まさか」
半眼でうめく凛に、アーチャーは慌てて手を振って口を開く。
話を逸らそうと、彼はそう言えば――と続けた。
「ところで凛。私はこの状態の君をどうよんだらいいのかね」
「? そんなのいつも通りでいいじゃない」
眉を潜めて凛は聞き返す。
「……そういうわけにもいかないだろう。何せ小さくなってしまっているのだからな」
彼は何を言っているのだね、と呆れた口調で呟いた。
「……ええと、そういうものなの?」
「うむ。そういうものなのだよ」
アーチャーは断言した。
「――ちなみに候補としては凛たんと凛ちゃまがあるのだが、どちらがいいかね」
さりげなく、それでいてきっぱりと言い切る。
「……それは……どっちかじゃないといけないの……?」
凛は顔を真っ黒にさせて呻き――
そして当然の如く、その呟きは無視された。
35.ファイナルアンサー?
――ちっ、ちっ、ちっ……
時計の音が、リビングに響く。
あれから約十分の時がすぎていた。
凛は未だに蒼白な顔をしたまま、考え込んでいた。
「……さあ、凛」
重々しい口調でアーチャーが促す。
凛は目を泳がせたあと、小さく呟くように、
「じ、じゃあ、たん、かな……」
「――たん、か」
アーチャーは口を開く。
「凛たん」
呟いた。その口調を楽しむかのように。
「凛タソ――!」
そして今度は、何かが壊れたおもちゃのように甲高い口調で。
「――で、いいのかね?」
と、いきなり素の顔に戻り、アーチャーはごく自然に尋ねた。
「ええと……ちょ、ちょっと待ちなさい?」
凛は頭を抱えながら、それでもぎりぎりで押し留めた。
36.我に返った
「まだかね、凛」
いい加減に待ちくたびれたというように、アーチャーは呟いた。先程からさらに十分、合計すると二十分近く経っている。だからアーチャーの不満は最もと言えるのだろうが――
「ううううるさいっ! ちょっと静かに黙ってなさいっ!」
凛そんなことは知らないとばかりにがー、とわめき散らす。
ったく、と嘆息と共に頭を抱えながら、彼女はぶつぶつと続ける……
「ああもう、こっちだって真剣に――しん、けん……」
と、そこまで呟いて。彼女は唐突に半眼になり、呆然とうめき声をあげる……
「……え、なんでわたしなんでこんなに悩んでるの?」
――そしてやはり、その呟きに大して答えるものは誰もいなかった。
37.たん
――30分後。
「……たん、でいいわよ」
むー、と仏頂面で唸りながら、凛はぼそりと呟いた。
「む、何かいったかね」
絶対に聞こえていたはずだと言うのに、アーチャーは聞き返した。言うのも恥ずかしいのか、凛は顔を真っ赤にさせながらわめき返す――
「だ、だからたんでいいって言ったの!」
「凛、それではわからない」
赤い弓兵は頑なに首を振ると、真摯な眼差しで凛の瞳を見つめ返した。
「きちんと――正式名称で言ってくれないか」
「だ――だから、その」
凛はあうあう、と口をぱくぱくさせていたが――やがて、上目遣いでアーチャーを見上げると、顔を真っ赤にしながら、それでも開き直ったようにきっぱりと、
「……凛たん、って呼びなさいっ!」
「は――」
――その言葉に、アーチャーは一瞬我を見失ったかのように呆然としていたが――
「くっ……!」
唐突に顔を手で隠すと、『ばっ!』横を向いた。その耳は真っ赤に染まっている。
「あ……アーチャー?」
アーチャーの反応にびっくりしたのか、凛は恐る恐る聞き返す。
「く――――」
アーチャーは歯を噛み締めるが如く俯き、何かに耐えていたが――
「生きてて……生きていて……よかった……!」
感極まったと言うように、男泣きに泣き始めた。
「………………えー……?」
取り残された凛は、呆然としながらその光景を見詰めていた――。
38.その台詞が
「よ――よし、では、凛。もとい凛たん」
ごほん、と咳払いをして、アーチャーは仕切りなおした。
「な、何よ」
やや気後れしながら凛はそれでもしっかり聞き返す。
「では、いくぞ――!」
アーチャーが吼える。全身に気を漲らせ、すさまじいまでの気迫を見せて。
「え? 何を?」
ぽかんとしつつ、凛は再び聞くが、アーチャーはそれには答えず腕を組んだ。『ふっ』とシニカルな笑みを浮かべつつ、頷き、そして告げる。
「そうか。では凛たんと。――ああ、この響きはじつに心地いい」
「…………」
――静寂。
感極まったというように拳を握り締め、虚空を仰いでいるアーチャー。
呆れてモノも言えない凛。
部屋は静まり返っている。
が――やがてのろのろと凛は呟いた。
「ええと、もうなんか、突っ込む気にもなれないんだけど…………」
そして凛は半眼で尋ねる――
「アーチャー、あんたひょっとして、それがやりたかっただけなの……?」
アーチャーは今度もまた、聞こえないふりをしたまま――じっと宙を見つめてたたずんでいた。
39.気づかれた
「はあ……。ったく、何やってるんだか……」
完全に呆れた口調で、凛。頬杖を着きつつ、未だ余韻に浸っているアーチャーを眺めている。
とりあえずしばらくは放っておいても大丈夫だと判断したのか――彼女はさてどうしたものか、としげしげと自分の格好を見回した。とは言え何か変化があったわけではない――小さいのもそのままなら、服装も同じである。
「本当、どうしたもんだか……」
呟く。そして。
「ん……………?」
首をわずかに傾け、彼女は眉を潜めた。
「んー…………?」
「……? どうしたのかね、凛」
固まったままの凛に、ようやく我に返ったアーチャーが不思議そうに尋ねた。
凛はゆっくりと――ことさらゆっくりと振り返りながら、口を開いた。
「……………ねえ、アーチャー?」
「何かね」
「うん。わたしね、きっとどうかしていたのよ」
疲れたように天井を見上げ、凛は呻く。
「……ふむ?」
聞き返すアーチャーを他所に、凛はひとりで地団駄を踏む。
「そうよ。冷静に考えたらそんなことあるはずない。ってゆーかちょっと考えたらわかるじゃないのそんなの……! ああもう何やってんだわたし……」
「いや、あの。凛?」
恐る恐るアーチャーが聞き返すと、
「ねえアーチャー?」
『ばっ!』 と勢いよく振り向き、凛はにこりと笑ってみせた。
「……何かね」
「冷静に考えたら」
「ああ」
「さっきの、たんとかちゃまとかなんだけど」
「……ふむ?」
そして――凛は振り返る。『ごごごご……』という効果音を背後につけながら。満面の笑顔の中に、怒りのマークを浮かべながら。
「別に、あんたの言うことなんか、聞かなくってもよかったんじゃないのかしら……?」
「う」
痛いところをつかれた、とばかりにアーチャーが口ごもる。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「……………………………………………………」
「……………………………………………………」
40.ぴんぽーん
「さて、と」
べきばきと指を鳴らしつつ、凛は暗黒の瘴気を身に纏いながら笑う。まるでレストランで注文を聞いているような気楽さで、彼女は軽やかにアーチャへと尋ねた。
「アーチャー、どっちがいい?」
「と・いうと……?」
顔面にびっしりと冷や汗をかきながら、それでもなんとかアーチャーは聞き返した。
「ええとね」
凛はとびっきりの笑顔を浮かべて、握り締めた拳を眼前に突き出してみせる。
「反抗して殺されるか、素直にあやまって殺されるか?」
ぶおわっ――!
彼女の言葉と同時、瘴気が膨れ上がり、舞い上がる――
じゅわあっ……
何かが溶けるような音がしてそちらを振り向くと、キッチンの近くにあったタマネギが一瞬にして干からびて、粉へと変わるところだった。続いて『びしっ!』と言う音と共に窓ガラスにヒビが入った。そばにあった本が灰と化し、カップが問答無用に融解する。『どしゃあっ!』と言う音と共にソファーの足が崩れ、クッションが床にばら撒かれた。さらには天井と言わず机と言わず、何かに侵食されるかのようにその悉くが黒色に染まっていく――
それを、どこか傍観者のような達観した表情でアーチャーは眺めていたが――やがてのろのろと顔を凛へと向けると、へらっと笑い――恐る恐る尋ねる。
「どっちにしろ……私は死ぬのかな?」