9.
「――ところで凛。一つ確認していいかな――」
……いいわ。なに?
「ああ。時間を稼ぐのはいいが――」
「別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
アーチャー、アンタ――。
ええ、遠慮はいらないわ。がつんと痛い目に合わせてやって、アーチャー
「――そうか。ならば、期待に応えるとしよう──」
リリリリリリ………………
「…………んー?」
ジリリリリリリリリリ……
「……んあ」
呻いて、ぼんやりとした頭を起こす。
凛は辺りを見渡した。
屋敷のリビング──そのソファーの上である。
どうやら熟睡していたらしい。カーテンの隙間から覗く景色はすっかり暗くなっている。
「……あ、そっか。わたし、疲れてそのまま寝ちゃって……」
ジリリリリリリリ……
「え、あっ!?」
叫んで、ようやく何かがなっていることに気づいた。素早くあたりを見渡すと、音の発信源──自分の携帯電話へと手を伸ばした。
「ああもう、そんなにならなくても聞こえてる、聞こえてるから……!」
うあー、と呻きながらも携帯を開き、そしてそこで止まる。
「……え、と。どこ押すんだっけ。こ、ここ、かなあ……?」
黙考すること数秒。やがて彼女は恐る恐る、ひとつのボタンを押し──そしてそっと携帯を耳に押し当てた。
「も……もしもし?」
「遠坂先輩ですか……!? もう、なんで出ないんですか、さっきから何度も何度も……!」
どうやら押したボタンはあたりだったらしい。スピーカーからは聞きなれた声が飛び込んできていた。
「桜? どうしたの?」
妙に切迫したような、だが押し殺された声。
途端に引き締まった表情になり、凛は聞き返した。
『……緊急事態です。とてもまずいです……!』
「だから、何が──!」
『……おじい様とイリヤちゃんが戦っているんです!』
「え?」
思わず、聞き返した。
『だから、おじい様に、遠坂先輩のこと、やっぱり気づかれてたみたいで──わたし、今まで記憶が抜け落ちていて……それで、それで慌てて遠坂先輩に──』
「……ちっ。やっぱり屋敷に行ったのはまずかったか……って桜、アンタは大丈夫なの? 今どこ?」
慌てて身を起こし、脱ぎ捨ててあったコートを拾い上げつつ尋ねる。
『公園の近くの道路です。イリヤちゃんもそこにいて……もう二人とも、わたしのことなんか気にも留めていなくって、それで……』
「……公園ね!? わかったわ、わたしも今すぐそっちに向かうから──」
ぴくりと眉を跳ね上げる。玄関に向かい、トランクを確認。
唸りながら、玄関の鍵を捻り、慌てて扉を開いて。
「………………ごめん桜、少し遅れるかもしれないわ……」
『え!?』
低くこぼした凛の言葉に、桜は聞き返してきた。
ブゥゥゥゥゥン……っ
玄関の前には。
無数の羽虫がその場に停滞している──
気づけば、ぎり、と歯噛みしていた。
やられた。
完全に裏目に出た。
「……こっちも仕掛けられている。なんとか出来るだけ早くそっちに向かうけど、まずい、最悪だわ──いくらなんでも死んだらわたしでもどうしようもないわよ……」
『だ、大丈夫なんですか!?』
「当たり前でしょ。わたしを誰と思っているのよ」
不敵に笑い捨て、一歩踏み出す。
「じゃあ、また後でね」
言いきり無造作に携帯を切り、さらに一歩。
「──いい度胸じゃない、蟲風情が」
扉を押し、玄関を抜け、後ろ手に閉めてから彼女は足を僅かに広げた。
「……宝石は温存しないとまずい、か。後のアレに使う……強行突破しかない」
ち、と再度舌打ち。
トランクケースの取っ手をぎゅっと握りしめる。
「行くわよ……!」
そして、彼女は。
雪の舞う中、魔術刻印を輝かせ始めた──。
10.
「はっ!」
夜の中、白い吐息が舞い上がる。
ジジジジジィィ────っ!
耳障りな音を立てて、背後から虫の群れが追撃してくる。
(ひとまず人気のないところにいかないと──こんなトコで魔術使って、もし誰かに見られたりしたら……!)
舌打ちひとつ。魔術は秘匿されなくてはならない──そんな大前提ですら、あの男には通用しないようだった。街中で、全く遠慮なしに蟲を行使してきている。
(こっちはそうもいかないってのに──!)
頭を抱えたいが、そうもいかない──さらに悪いことには、こちらには大きなトランクケースがあるという点だった。おかげで動きが大幅に制限されてしまう。
(まずい、このままだと、公園にいくまで時間が……)
どうする。
どうする──?
桜は駄目だ。あの子はろくに魔術の訓練もしていない。あてにはならない。
勿論、イリヤが自力であの男を倒せれば、問題はない。
しかし、弱った体では難しいだろう。
下手をしたら、もう──
(っ、何考えてるんだわたし……! あの子がそんなに弱いはずがない……きっとうまくやってるはず……!)
人気がないことを確認してから、くるりと背後を振り返り──同時、呪文を唱えて斬撃を解き放つ。機敏な動作で蟲たちはそれを回避したが、それでも僅かに一部を消滅させた。
「そうだ、士郎──!」
あの男なら、動ける。
イリヤを助けにもいける。
後は時間だけが問題だが──
「携帯、携帯……!」
コートを漁り、凛は携帯を取り出した。走りながら、なおかつ蟲たちの攻撃を回避しつつ、携帯を操作するのは至難の業だったが──それでもなんとかボタンを押し、耳に押し当てた。
「──っこの……!」
まとわりついてくる蟲を再度斬撃で撃退しつつ、走る。
呼び出し音が響く。
「出ろ……早く出ろ、あの馬鹿……!」
舌打ち。と──
がっ!
トランクが道路の凹凸に引っ掛かり、大きく跳ねた。それに引っ張られる形で凛の体もまたバランスを崩し、
どしゃあっ!
「あっ!?」
凛は放り出されるように転倒していた。それでも携帯だけは手放さなかったが。
『……はい、衛宮で──』
「──士郎!?」
痛みも手伝って、思わず叫んでいた。
『うわ、って、遠坂か!?』
「そうよ! いい士郎、アンタ今すぐイリヤを追いかけなさい! 公園にいるから!」
『え? なんでさ?』
「っいいからさっさとしなさいこのアンポンタン! あの子死ぬわよっ!?」
それだけ怒鳴りつけて、問答無用とばかりに携帯を閉じる。
素早く立ち上がり、周囲を見渡す──転倒した際にトランクを手放していたが、幸いあちらには蟲は興味はないようだった。一直線にこちらに向かってきている──。
「──ああ、もう、いい。」
ゆらり……
体を揺らし、凛は完全に据わったまなざしで蟲の群れを睨みつけた。
「──覚悟しなさい。このわたしを怒らせたらどうなるか、今思い知らさせてあげる……!」
呻き、魔術刻印を輝かせる……
幸い、周囲に人影はなかった。
「──Fixierung,」
そして。
「EileSalve─────!」
赤の光が膨れ上がった──。
11.
雪はその強さを一層増してきていた。
風が白い粉を舞い上げる。
暗い夜道の中、視界はかなり奪われている──。
「ああもう、なんでこんなコトに……!」
がらがらがらがら……
唸り声と共に、何かが転がる音。
凛である。どことなく全体的にぼろぼろになっているが、無事なようだった。
公園の傍、道の隅でおろおろとしていた桜は、凛の姿を見つけるとぱっと顔を輝かせた。
「遠坂先輩!こっちです!」
「ごめん桜、完全に裏目に出た。くそ、まさかこんなコトになるなんて……!」
「それを言うならわたしもです。いいからとにかく中に入りましょう……! さっきから音が止んでいて……先輩もさっき飛び込んでいったんですけど……」
トランクがあるため、早歩きで我慢せざるを得ない──二人は足早に進んでいった。ここにきて雪はますますその激しさを増していた。視界があまり効かない。
「イリヤ、士郎! どこっ!?」
「せんぱーい!」
声を張り上げる──
「桜!それに、お前遠坂か……!?」
声のした方へと進むと、そこには士郎がいた。
鋭く尋ねる。
「……イリヤは? どっち!」
「あ、あっちのほうだ。それより遠坂、俺金縛りにあってて──」
「そのうち解ける! 後!」
言い捨てて、ざくざくと雪の中を進んでいく。今は士郎にかまっている暇はなかった。
公園の中は惨憺たる状況になっていた。地面はえぐれ、木は倒され、蟲の死骸が周囲一帯に散乱している。この数の蟲全てをイリヤが倒したのだとすれば──
「相当に消耗しているはず……まずい……!」
「イリヤちゃーん! どこですかー!?」
桜の声を聞きながら、地面に目を落とす──この辺りには蟲の死骸はあまりなかった。その代わりというわけでもないだろうが、白い雪の上に、点々と赤い模様が付着している──
「これ……!」
「え? あ、これって………」
桜は絶句したようだった。
「イリヤのでしょ。急ぐわよ」
凛は素早く囁くと、雪の上のイリヤの血痕をたどり始めた。
「あ、あそこ!」
桜の声に顔をあげると、30メートル程先に、ひとつの人影があった。
「……行くわよ!」
「は、はい!」
ざくざくと、さらに雪道を進む。
そこに倒れていたのは、白い少女。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが血みどろで倒れていた。
「イリヤ、ちゃん……!?」
ひっ、と桜がうめき声をあげて後ずさる。
少女の体は、最早全身ぼろぼろで。
傷がない箇所などどこにもないくらい。
だと言うのに──笑っていた。
彼女は、柔らかく微笑んでいた──
「……大丈夫、まだ生きてる。気絶してるだけよ」
どしゃっ。
トランクを横倒しにし、凛は眼を引き絞る。
「時間がないからここでやるわ。桜、士郎をお願い」
「は、はいっ」
「イリヤ──」
穏やかな少女の寝顔に、眉根が緩む。
そっとその頬をなでた。
「……うん、よしっ」
そして凛は、表情を引き締め、
「やるわよ──!」
鋭く叫ぶ。
雪は次第にその勢いをなくし始めていた。