/U
赤い空が黒に犯されていく。
黄昏とも黒夜ともつかないような時間帯はひどく緩やかだった――緩慢に流れる雲も、きちんと手いれされた庭も、屋敷の壁も。すべてが赤に染まっている。ひどく遅く、脆くて儚い。
二つ。屋敷の縁側には、ちょうど人一人分の隙間を空けて、二つの人影が広がっている。
風が草を撫でた。
それがきっかけと言うわけではないのだろうが、影の一つが口を開く──
「ええと……それってつまり、どういうことなんですか?」
「さっぱりわからないのよ。そもそも在り方からして奇跡的っていいくらい。だから──正直、何がおこるかわからない」
「そんな……」
「何も起こらないのかもしれない。でも、あってからじゃあ遅い。わかるわよね」
「それは、もちろん……」
「……とにかく、何かあったらすぐに連絡して」
「は、はいっ。でも、その……治るものなんですか?」
「んー、治るって言うか……まあアテはあるから、大丈夫でしょ、きっと。まあ、とにかく連絡だけは早めに。動こうにも時間がかかるから、何かあったらすぐにお願いね」
「…………本当に、行っちゃうんですね」
「そうね。……大丈夫、ちゃんと定期的に連絡し、ちょこちょこ帰ってくるわよ」
「はいっ」
「じゃあ。そろそろ戻るわ。まだ準備も終わってないし、ね。……あ、それと桜」
「はい?」
「えっとその──呼び方のことなんだけど……」
そして黄昏が終わり――影が、大きくゆらいだ。
6.
間桐の屋敷の桜の部屋。ベッドに腰をかけ、物珍しそうに見渡しながら、凛はへえと小さく呟いた。
「ふうん……きちんとしてるのね」
どすん、とボストンバッグを床に置く。トランクケースも部屋にあげてきていた。ここまでやらなくてもいいかと思ったが、念には念を入れたほうがいいだろう。
「そんな、普通ですよ」
苦笑して、桜が半分開いていた扉から顔を出した。両手には二つの湯飲みの乗ったお盆。お茶請けは煎餅のようだった。
「さっきは紅茶だったので、今回は緑茶にしたんですけど」
「うん、ありがと」
言って、手渡された湯飲みを受け取る。
凛はそわそわと身を捩るようにして、居心地悪そうに周囲を見渡した。
「……でも、本当に誰もいないのよね?」
机の正面に座りながら、桜もまた声を潜めて呟く。
「ええ。ここ3ヶ月くらいずっと姿をみせないんです」
「ふうん。3ヶ月か……何かあったかなあ」
「え?」
聞き返してくる桜に、慌てて手を振って凛は笑顔を浮かべた。
「ん、なんでもないなんでもない。こっちの話」
「はあ」
いまいちぴんと来ていない桜から素早く視線を逸らし、湯飲みを傾ける。そのタイミングで再び室内にアップテンポな曲が流れた。携帯だった。
「あ、先輩からだ」
「ふうーん」
顔を綻ばせている桜をにやにやと眺めながら、凛は頬に肘を当てたまま呟く。桜は携帯を胸に抱きながらやや体を引いた。
「な、なんですかその笑顔っ」
「べつにい?」
「もう……っ」
半眼で笑う凛に、桜は頬を膨らませる。が、すぐに携帯へと向き直ると彼女はいそいそと操作し始めた。
その様子を目を細めながら凛は眺めている──。
7.
「ふうっ」
息を吐いて凛はふと部屋にかかっている時計を見上げた。
屋敷を訪れてから、かなりの時間が経過していた。
「うわ」
思わず呻く。
「? どうしたんですか、姉さん」
首をかしげる桜に、軽く肩を竦めて答える。
「ん? ああ、随分と話し込んでいたんだってね。いつのまにかほら、もうこんな時間よ」
「あ、本当ですね……」
口に手を当てて呻いている。
と、ドアごしにベルの音が響いた。
「ん、何の音?」
「チャイムです。誰かお客様が──」
言いながら桜が、カーテンの隙間から外を眺め見た。
そして、顔を引きつらせた。
「先輩……それに、イリヤちゃんまで……?」
「……なんですって?」
表情をひきしめ、凛が桜の最後からそっと窓の外の様子を伺った。屋敷の入り口に立っている二つの人影を目に止め、顔をしかめる。
「……来たわね。よりによって今一番会いたくないのが来たわね。桜あんた、何かヘマした?」
「そ、そんな……」
小さく首を振る桜に、凛は腕を組みながら静かに告げた。
「……まあいいわ。とにかくこの場をどうにかしないとね。わたしが今会うのはまずいわけだし、桜、貴女なんとかして追い返して」
「わ、わたしですかっ!?」
「他に誰がいるのよ」
呆れたように、息を吐く。
「それは、そうですけど──」
「風邪でもなんでもいいでしょ、そんなの。その格好だとまずいから、パジャマにでも着替えていって──」
「そ、そうですね」
わたわたと着替えだす桜を見ながら、こっそりと嘆息。
「じゃあ言って来ますっ」
「ん、気をつけてね」
ひらひらと手を振り、凛は桜が出て行くのを見送る。
カーテンの隙間から、凛は再び階下を観察する。
桜は玄関で応対しているようだった。と──
────ぞくり……
「──っ?!」
唐突に横へと振り返り、凛は息を呑んだ。油断なく周囲の気配を探りつつ、呼吸を潜める。
そのまま時間がすぎる。一分、二分……
かちゃり、と扉が開き、桜が戻ってきた。
「……姉さん?」
「──桜」
「この家。他に誰かいる?」
桜は静かに首を横へ振った。
「いえ、さっきも言いましたけど、おじいさまは――」
「――そう。ううん、でもあれは……」
口の中で小さく呟いている。
「……姉さん?」
心配そうに桜は考え込む凛を見つめる。凛は唇に指を当ててしばし黙考していたが、顔をあげるとはっきりと告げた。
「ごめん。わたし帰るわ。──お茶、ごちそうさま。おしかったわ」
手早くそう言い切ると、呆気に取られている桜をよそに彼女は手早く荷物を手繰り寄せ始めた。
「え、あの……」
「じゃあ、またね」
ひらひらと手を振り、凛は桜の横を通り過ぎ──
──二人が完全にすれ違う直前に、素早く凛は囁いた。
「……いるわ。気をつけなさい」
「は、はいっ」
途端に顔をこわばらせる桜。
じゃあね、ともう一度言い残して凛は廊下へと出た。慌てて桜が追ってくる。
「別にいいわよ」
「せめて玄関まででも送りますから──っ」
「ん、ならお願い」
きゅっと拳を握り、力説してくる桜に向かって小さく笑い、凛は先を歩いていった。
8.
天気は相変わらずの曇り空。人気のない道路をひとり、少女が歩いている。片手に大きなトランクケース。反対の肩にはボストンバッグ。そしてその手には、携帯電話が握られていた。
「……ねえ、衛宮くん?」
ひくり、と頬を引きつらせながら凛は大きく息を吸い込み──
「あんたわたしをどんな目でみてんのよー!」
叫んだ。くしゃりと髪をかきまぜ、ああもう、と苛立たしげに口を歪めてから──、それから矢継ぎ早に携帯に向かって怒鳴り始める。
先ほどの桜に感化されたのか──、道を歩いていた凛がふいに自分の携帯を取り出し、士郎の家へとかけ始めたのは10分ほど前のことだった。
番号をど忘れしていることに気づいて、慌てて手帳を引っ張り出して番号を打ち込み始めたのが8分前。
いくら正しい番号を押しても一向につながる様子を見せない携帯に苛立ち始めたのが5分前。
最終的に、偶然親指が通話ボタンを押し、たまたま士郎の家へとつながったのが3分前。
一回電話が切られて、再び奇跡的につながったのが2分前。
そして、受話器に出た士郎に怒鳴り散らしたのがつい先程である。
「ったく、何だって言うのよ……!」
苛立たしげに呟きながら、携帯電話をぱたりと閉じた。髪をかきあげた嘆息する。
それ以降、携帯が鳴ることはなかった。
無言のまま進む。
屋敷にたどり着いたのは、それから約十五分程してからのことだった。
──遠坂邸は相も変わらず。出て行った時とほとんど同じ姿のまま、ひっそりと佇んでいた。
「……変わんない、か」
懐かしさと苦笑を半分ずつ顔に浮かべ、そっと口の中で呪文を唱えてから門を押す。ロンドンに行くと決まった時から、何重にも結界とトラップを張ってあったので、それを解除したのだ。
鞄から財布を出し、さらにその中から鍵を出し、ドアノブを捻る。
微かな軋む音を残して、扉が開いた。
「……ただいま」
ぽつり、と呟く。
廊下はしんと静まりかえっていた。
当然だ。この屋敷には彼女しか住んでいないのだから。
「……ふう」
トランクケースを玄関に放置し、靴を脱いで廊下をあがる。
少々埃っぽいが、まあ住めないと言う程でもないか。自室に戻ろうかと考えるが、ひとまずはリビングへと向かうことにする。歩きながらコートのボタンを外し、ソファーにぼすんと倒れこんだ。
「……つかれた……」
うー、と唸る。
「駄目だ。座りっぱなしたってやっぱり疲れるもんね……」
もごもごとくぐもった声で、誰にともなく独り言。
「これから……どうすんだっけ……
「はあー……………」
大きく息を吐く。
──それが穏やかな寝息に変わるのに、大して時間は必要なかった。
/V
「……今なんとおっしゃいましたの? ミストオサカ」
ひくり、とこめかみを痙攣させて聞いてきたのは、ルヴィアだった。
時計塔の食堂の隅のテーブルで、わたしと彼女は顔を向かい合わせて話をしていた。
がたん――。
今のルヴィアの険悪な声を聞いたのか、近くに座っていた学生が俯いたまま席を立った。よくよく周囲を見渡せば、わたしたちの周囲はやけに空席が目立つ。昼時だから混雑はしているのだけれど――
「……あ」
たまたま目が合った生徒が、なぜか顔を引きつらせてそっぽを向いた。つられて、その周囲にいた人間全てが明後日の方向に視線を逸らす。
……一体何だと言うんだ。
「ちょっと、聞いてますの?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事」
「全く、貴女という人は……」
「それで、先ほどの件でしたが、何とおっしゃったのです?」
「あら。耳まで悪くなってしまいましたか? ミスエーデルフェルト」
わたしは負けじと、精一杯意地の悪い声色で言い返す。
「耳までとは何ですか、までとは!」
がー、と澄ました顔を一転させて叫んできた。
ざざっ。
周囲の人間がますます遠ざかる。ああもう、こんなんだからみんながわたし達のことを怖がるのだ。こんなにも品行方正なヤツなんてそうそういないだろうに──。
「あら。何か思い当たる節でも?」
ルヴィアはふん、と髪をかきあげると、
「まさか。鏡をご覧になったことはあるのかと聞こうとしていたところですわ」
「……っこの女は……」
ひく、と頬がひきつった。
「それは私の台詞ですわ……!」
顔を突きつけて、睨み合う――
「……って。それどころじゃなかったわ」
先に折れたのはわたしのほうだった。ふう、と溜息を着きながら、ルヴィアへと向き直る。
「……とにかく、力を貸して欲しいのよ」
「あら。つまり貸しを一つ作るということですが、よろしいのですか?」
もう一度、頬が引き攣った。
確かに、これは極めて不利な条件だ。
魔術士は等価交換が原則。一方的な貸しや借りはつまり、相手に対して弱みを作る。特にコイツ相手にそんな状況は何としてでも避けたい──のだけれど。
でも、悔しいことに、今のわたしには、ルヴィア以外にソレが可能な人間が思いつかない。
沈黙を肯定と受け取ったのか、極上の、そして勝ち誇った笑顔を浮かべて、ルヴィアは聞いてくる。
だから、ここは甘んじて屈辱に耐えるしかない。堪えろわたし。大丈夫だわたし。
今すぐUターンしたい気持ちをぐっと堪えて、わたしはぶつぶつと、
「……正直全力でやめたいんだけど。でもまあ、そういうことよ」
「――はあ。まあいいでしょう、わかりましたわ。……それで」
と言って、ルヴィアはすっと目を細めた。
「もう一度、依頼内容をおっしゃってくれませんか? よく聞き取れなかったので」
嘘だ。絶対嘘だ。
ルヴィアもそんなわたしの考えを読み取ったのか、ふうと息を吐き、肩を竦めて見せる。
「だって。それはそうでしょう? 気でもふれたのかと思いますわよ。さもなくば、からかっているか」
いやまあ、それはわからなくもないんだけど……
わたしは重く息を吐きながら、それでも一言一言はっきりと告げた。
「 に接触したいのよ」