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14.

 

日はとうに沈み、空は黒一色に染まっていた。その中で白い雪がただ静かに降り続け、地面に落ちていく。その様子をただぼんやりと眺めていた――

イリヤは屋敷の縁側に座り込み、ぼうっとしていた。その目に映るのは、白く染まった庭か、それとも黒い空か。

どっ――

奥から唐突にくぐもった笑い声が響いた。続いて、大河の笑い声。テレビを見ているのだろう――イリヤはそう判断し、ちらりと目だけで振り返り、そして一瞬で元に戻る。

ふう、と嘆息が零れ落ちた。

「あ、こんなとこにいたのか」

 斜め上から降りかかった声に、イリヤはのろのろとした動作で振り返った。

「……シロウ」

 色のない声で、呟く。

 そこには、両手にそれぞれひとつずつマグカップを持った衛宮士郎の姿があった。カップからは白い湯気が立ち上っている。

 ――衛宮の屋敷の庭に面した廊下の上。座布団も何もないところにイリヤは座り、ぼんやりと庭を眺めていた。空はもうすでに暗く、見通しはほとんどきかない。気温もかなり低い。

「ここ、いいか?」

 士郎は身を屈め、そう尋ねた。

 イリヤは小さく頷いた。

「よっと」

 カップの中身をこぼさないよう、慎重に座り込む士郎。それをこっそりと横目で見ながら、イリヤは口を閉ざしていた。

「ほら、温まるぞ」

「いらない」

 にべもない口調で、イリヤが拒絶した。

 だがめげた様子もなく、なおも士郎はにこにこと笑いながらイリヤの目の前にカップを突き出す。

 ……やがて根負けしたように眉を緩め、イリヤは両手で包み込むようにしてカップを手に取った。それを確認してからそっと士郎が手を離す。

「…………ありがと」

 ぎりぎり耳に届くか届かないかというほどに小さな声に、士郎は頬を緩ませた。

「どういたしまして」

 言って、カップを口にする。

 中身はホット・ココアだった。

「……どうしたんだ?」

 士郎の口調は優しいものだった。

「家に帰ってきてから、元気ないじゃんか」

「そんなことないよ?」

 イリヤは即座に否定した。

「夕飯もあんまり食べてなかったし」

「あー、うん。ちょっとね」

「……なあ、イリヤ」

 士郎はそっとイリヤの肩に手を置いた。イリヤは小さく体を震わせ、しかし振り向くことはなんとか自制したようだった。

「心配事があるんなら――」

「ねえ、シロウ」

 士郎の言葉を遮るようにして、イリヤは素早く呟くと彼に向き直った。

「んん?」

「シロウはさ」

 その視線から逃れるように、さっと眼を泳がせ、結局庭の木に視線を固定して。

「シロウは――セイバーのこと、好きだった?」

 その言葉に、士郎はきょとんとした表情でイリヤの顔をまじまじと見つめた。だが、その視線に気づいていないわけなどないだろうに、イリヤはかたくなに士郎に眼を向けようとはしない。

 そうだなあ、と士郎は空を見上げた。

 黒い夜空から、白い雪がちらほらと降っている。

 庭には残雪の上に新たに降った分が積み重なっていた。

 そうだなあ、ともう一度繰り返してから士郎は苦笑にも似た表情を浮かべ、そうっと囁いた。まるで――そうしなければ壊れてしまうというように、優しく、静かに。

「……好きだったよ」

 うん、とイリヤは頷いた。

 それからこっそりと横目で士郎の顔色をうかがいながら、

「今でも?」

「そうかもな」

 今度は完全に苦笑だった。

 雪。白い雪が降り続ける。

 イリヤは続けた。少しばかり語気を荒くして。

「もう、会えないんだよ?」

 言ってから、少女ははっと顔色を変えて慌てて口を閉じた。それからそっと――士郎の顔色を伺うように、おずおずと目を向ける。

そうだな、と士郎は静かに頷いた。

 そして、ぽん、と。

 イリヤの頭の手に、手を置いた。

「でもさ、イリヤ」

 士郎は、笑った。

「人を好きになるっていう、この気持ちは、嘘なんかつけないよ」

「シロウ……」

 じわり、と。

 ふいにイリヤの瞳に涙が浮かんだ。

 それを誤魔化すようにごしごしと腕で顔を擦り、あーあ、とイリヤは大きく息を吐いた。

「シロウはすごいねー」

 ぼすっ、とシロウの肩にもたれかかりながら、イリヤは呟いた。

「え?」

「うん、すごいんだよ」

 もう一度、繰り返して夜空を見上げる。

 ちらちらと降る雪を眺めていた。

 雪はただ静かに振り続けていた。

 

 

 

――覚えていてくれる。

この人なら。

シロウなら、きっとわたしがいなくなっても覚えていてくれる。

そのことが、すごく実感できて。

……暖かくて。

本当に……嬉しかった。

――うん、だから。

だからね、シロウ。

 

――わたしには、もう、怖いものなんて何もないんだよ?

 

 

 

 

 

 

15.

 

 

 

「じゃあ二人とも、おやすみ」

 玄関前で士郎は二人を見送っていた。大河はすでに玄関の外に出て、傘を手にしている。イリヤはまだ靴を履いていなかった。

 大河が傘を士郎に突きつけて、からかうように告げる。

「うん。士郎も明日は学校なんだから早く寝るのよー?」

「はいはい、わかってるよ」

 苦笑する士郎。イリヤはその様子を横から見ている。

「でも、桜ちゃん今日来なかったわねえ」

 そういえば、と大河は呟いた。士郎はそれに苦笑して、

「まあ、家の用事があるんなら仕方ないだろ。それに明日には来れるみたいだし」

 そうなんだ、と大河は安心したように笑う。

「シロウ」

 くいっ、と士郎の服の袖を引っ張り、イリヤ。

 その頭にそっと手を置いて、士郎は笑いながら頭をなでた。

「うん、イリヤも気をつけて帰るんだぞ」

「いいえ。シロウ、わたし帰らないわ」

 ふいに呟かれたその声には、強い意志が混ざっていた。

『え?』

 二人の間の抜けた声がハモる。

 イリヤはそんな二人の様子には全く気にした様子を見せず、大河に向き直ってきっぱり告げた。

「タイガ、そういうわけだから。今日はひとりで帰ってね」

 ひらひらと手を振るイリヤに、大河は戸惑ったように手をばたばたと動かしていた。

「え? ええ?」

「イリヤ、うちに泊まる気か?」

 頭に手を置いたまま、尋ねる。

「うんっ。……いいでしょ?」

 聞いてくる士郎の腕にぴょんとしがみついて、イリヤは甘えるような声を出した。

「ちょ、ちょっとイリヤちゃん」

 大河が困ったように声をかけた。

「なによー。タイガはさっさと帰っていいんだからね?」

 イリヤは面倒くさそうにそう告げると、再び士郎の腕にしがみついた。

「士郎―!?」

「うーん……」

 責めるような大河の視線にほとほと困り果てたような表情を浮かべ、士郎は頬を掻きながらイリヤを見下ろす。それを察したのか、少女は顔をあげ、くいくいと士郎の腹を引っ張りながら猫なで声で囁いた。

「お兄ちゃん、いいでしょ?」

「――ん、まあ」

 曖昧にそう返事して、ちらりと士郎はイリヤから大河に視線を移す。大河はあからさまに憮然とした表情で、眉をひそめていた。

「いや、イリ――」

 困ったような笑顔を浮かべて、士郎は身をかがめた。

「……ね?」

 ぎゅっ……

 言葉と同時、士郎の服が、強く握り締められた。

 そのことに驚いて、士郎はイリヤの顔を見つめた。

 ――イリヤは驚くほどに静かで、そして切ない表情を浮かべていた。

 ――それに魅入られ、士郎ははっと息を飲む。

――わずかに一瞬。戸惑ったように士郎の瞳が揺れた。

 が、その直後には彼は笑顔になって大河へと振り返っていた。まあまあ、となだめこむように手で制しながら、

「そうだな、いいじゃんか、藤ねえ」

 イリヤの頭をゆっくり撫でながら、士郎が言った。

「む」

 あからさまに不機嫌そうに大河が頬を膨らませた。

「わーい、お兄ちゃんありがとー!」

 イリヤはますます士郎にしがみつく。

「むむむ」

 唸る大河。騒ぐイリヤ。その二人の間に挟まれ、士郎は曖昧な笑顔で立ち尽くしている。

 と、士郎はふと思いついたように付け加えた。

「でもイリヤ、今日だけだからな」

「……ん」

 と――

 その言葉にぴたっと騒ぐのを止め、神妙な面持ちでイリヤは頷いた。唐突な少女の態度の変化に、二人は頭上に疑問符を浮かべている。

場の空気が妙な方向に向き始めているのを察したのか、イリヤは顔を上げるとぱっと笑顔を浮かべた。

「じゃあシロウ、先いってるね。タイガばいばーい!」

 言って、返事を待たずにイリヤは廊下を駆け出した。

「あ、うん。おやすみ……」

少女の姿が廊下に吸い込まれていく中、付け足したように慌てて大河が呟いた。

「ふう」

 やれやれ――と言った面持ちで士郎は嘆息する。

「もー、いきなり我が侭言い出すんだから」

 大河はまだ納得していないのか、頬を膨らませながら、二本持っていた傘の内一本を乱暴に傘立てに差し込んだ。その様子を見ながら、士郎がぽつりと零した。

「でも、元気ないよりかは――うん。ずっとこっちの方がイリヤらしいよな」

 ほっとしたような士郎の声に、大河はそうだね、と頷いた。しみじみと遠くを見るような眼差しで。

「このところ、元気なかったもんねえ」

「ああ」

「――ねえ、士郎」

 玄関に立って、傘をさして。士郎に背を向けたまま大河は呟いた。俯いているのか、表情は士郎の立っているところからは見えなかった。

「んん?」

 士郎が何の気なしに聞き返した。

 ゆっくりと振り返った大河の表情は――今にも泣きそうなものだった。

「イリヤちゃん……いなくなったり、しないよね?」

「え――――」

 その言葉に、士郎は絶句した。

 数瞬、いや数秒、完全に固まっていた。

「な――」

 口から言葉がこぼれ出て、それから言うべきことが進み始める――

「何――言ってんだよ藤ねえ、いきなり……。そんなこと、あるはずなんかないだろ……?」

「うん、そうだよね……」

 そう頷く大河の表情はひどく弱々しいものだった。

「大体なんでそんなこと――」

 呆れたように士郎が問い詰めると、大河はのろのろと口を開いた。

「えっと……だって」

 ちらりと士郎に視線を送り、続ける。

「だって、なんだか、そんな気がして……」

「そんな気ってなあ。あのな藤ねえ、そういう洒落にならないことはさ――」

「で、でもねっ!?」

 呆れたように呻く士郎にすがるように、大河はなおも続けた。

「でも、なんだか。……なんだか、遠坂さんが行っちゃったときと、似てるような気がして……」

(あ――)

 そして、士郎は――

『遠坂さん、忘れ物ない? ハンカチ持った? ちり紙は?』

――思い出して、いた。

 

 

 

 

 

 

……そう言ったのは、確か藤ねえだった。

あれは……いつのことだったんだっけ?

ああ、そうそう。

確か遠坂が――

うん、そうだ。

段々思い出してきた。

あれは、遠坂がロンドンに行く前、日本にいる一番最後の日のことだ。

確か、玄関で皆で遠坂を見送ってたんだよな。

「先生、子供じゃないんですから」

笑って返す遠坂の横で、藤ねえは心配そうにしていた。

「うん……」

藤ねえはここで引き下がった、と思った。

「――でも」

それから、本当に小さな声で、藤ねえは呟いていたんだ。

「……それでも、心配なんだよ」

そう言った藤ねえの表情は、本当に寂しそうで、不安そうで。

――今にも、泣きそうだったんだ……

 

 

 

 

 

 

「変だよね、士郎」

 ぐしぐしと目をこすりつつ、大河は呻く。

「わたし、先生なのに。もっとしっかりしなきゃいけないのに……」

「藤ねえ、大丈夫だ」

 士郎は大河の肩に手を置くと、そう言って頷いた。

「あ……士郎」

「大丈夫だからさ」

 そして、力強く頷いてみせる。

「イリヤはどこにも行かせやしない」

「士郎……」

 不安そうな表情のまま、大河は士郎の眼を見つめていた。

「……大丈夫だ」

 士郎がもう一度繰り返すと、ようやく大河は小さく頷いた。

「……うん、そうだね」

 そこで気が緩んだのか、大河の眼にじわりと涙が浮かんだ。士郎もそれに気づいたのか、はっと顔色を変える。大河は慌てて眼を擦りながら、ごまかし笑いを浮かべてみせる――

「な、何いきなり言ってるんだろうね、わたし。もう本当、何言ってんだか――」

「そうそう。藤ねえの思い過ごしだよ」

 ぽん、と。

 いつもイリヤにやるように、士郎は大河の頭に手を置いた。大河はびっくりしたように士郎を見上げた――が、ふっと笑うと士郎に身を任せた。

「……うん、そうだね」

 大河は笑うと、大きく息を吐き出した。

 士郎もまた笑って、ぐりぐりと、イリヤにやるよりかは幾ばくか乱暴に大河の頭をかき回す。

「……あははっ」

 くすぐったそうに笑う大河を見て、士郎は慎重に声をかけた。

「落ち着いたか?」

 心配そうに覗き込んでくる士郎に、大河は再び愛想笑いを浮かべて、

「……ん。ごめん士郎、なんか格好悪いとこみせちゃったね」

 その言葉に、士郎は顔を赤らめて顔を引いた。それから取り繕うようにぽりぽりと頬をかきながら悪態をつく。

「安心しろ。藤ねえはいつも格好よくなんかないぞ」

 途端、その台詞に噛み付かんばかりの勢いで大河が反論する――

「あー、何よそれ。お姉ちゃんだって怒るときは怒るんだからねー!?」

「ああもう、悪かったよ。それに藤ねえ、しょっちゅう怒ってるじゃんか」

「え、う。……そんなことありませんー!」

「はいはい、そうだな」

 士郎は苦笑に苦笑を重ねると、ぱっと大河の頭から手を離した。

 それがきっかけだと思ったのか、大河は傘を握りなおすと半開きになっていた扉に手をかけた。いつも通りの笑みを浮かべて、

「じゃあ士郎、そろそろ帰るから」

「ああ、うん。夜道、気をつけてな」

「だーいじょうぶ。何があったって返り討ちにしてやるんだから」

 どん、と胸を叩いて言って来る大河に、士郎は笑う。

「はいはい」

「じゃ」

 ひらひらと手を振りながら、大河が歩き始めた。

「うん、おやすみ」

 その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、

「……イリヤ、か」

 士郎は何気なしにぽつりと呟いた。

 そして自分も玄関に下り、開けっ放しになっていた扉に手をかける。

閉める直前に屋敷の庭にもう一度目を通すが、もう大河の姿はなかった。

嘆息しつつ、体の向きを変えて再び廊下にあがろうとし――

――そこで、廊下で仁王立ちをして腕を組んでいるイリヤと眼が合った。

「うわあっ!?」

 全くの不意打ちだったのか、士郎が体をのけぞらせて悲鳴を上げた。イリヤは機嫌を損ねているのか、むーと膨れたまましばらくそんな士郎の様子を眺めていたが――やがてずんずんと士郎の元に詰め寄ると口を尖らせた。

「もー、何やってんのお兄ちゃん。あんまり遅いから戻ってきちゃったじゃない」

「ああ、いや悪い悪い」

 士郎は言いながらばたばたと廊下にあがった。イリヤはすぐに士郎に手を絡ませ、見上げる。

「早く中入ろ、シロウ。寒いよ」

「ん、そうだな」

 言いながら、士郎はちらりと玄関を振り返った。

 誰もいなくなった玄関は、しんと静まり返っていた。

 

 

 

 

 

 

16.

 

 

 

「イリヤお待たせー、ってまた雪みてるのか?」

 濡れた頭をタオルで拭きながら、士郎は襖を開けて部屋に入ってきた。風呂に入っていたのか、全身からほこほこと湯気が立っている。服も今まで着ていたもの普段着ではなく、パジャマに着替えていた。

「あ、シロウ」

 ぱっと輝かせて、イリヤが振り返る――彼女もまたパジャマに着替えており、こちらも髪が少し湿っていた。イリヤは嬉しそうに微笑むと士郎の元に駆け寄り、目の前で立ち止まった。それきり何をするでもなく、にこにことしながら士郎の顔をじっと見ている――

「ん? どうしたのさ」

 くすぐったそうに笑い、士郎は手を伸ばしてイリヤの頭に置いた。

 なんでもないよ、と笑ってイリヤは頭を士郎の胸に押し付けた。

「う……」

 シロウの顔が赤く染まる。

「――ねえ、お兄ちゃん?」

 胸に顔をうずめたまま、そっとイリヤは囁く。

「ん?」

「――えいっ」

 聞き返すと、イリヤはふいに顔をあげ、体重を全部預けた。いきなりのことの対処しきれず、士郎は押し倒され、しりもちをついた。

「うわっ!?」

「えへへえ……」

 にこにこと笑いながら、イリヤが士郎の上に覆いかぶさる。士郎は口を尖らせて、軽くイリヤの頭を小突いた。

「こっ、こらっ」

構わず少女は手を伸ばし、そっと士郎の胸に触れた。

「あ、どきどきしてる」

「う……うるさいな」

 顔をあからめ、士郎がうめく。イリヤはますますいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「ふーん? あ、顔も赤くなってるよ?」

「うわ、ばか、何見てるんだ」

 耳まで真っ赤になりながらわたわたとする士郎を見て、イリヤはにぱっと笑った。

「うん。お兄ちゃん、かわいい」

「……くそ。なんだか今日はからかわれてばっかりだな」

 言いながら、ようやく体制を立て直す士郎。イリヤは今度は大人しく士郎の上からどいた。そのまま布団の上に横になり、ごろりと一回転してうつぶせに寝転がり、頬杖を付く。

「ほんとだよ?」

 言って、また笑う。

 士郎はとうとう目を逸らした。手で口元を隠しながら、

「そ、それにしたって――」

 数秒間を置いて、苦し紛れに呻く。

「――ええと。ほら、そんなさ。かわいいとか言われても、困るだろ?」

「じゃあ――」

 と――

 一瞬の間に、再び士郎のすぐ目の前にまで迫って、イリヤは真顔で尋ねた。

「――シロウは、何て言って欲しいの?」

「……イリ、ヤ?」

 戸惑ったように瞳を揺らして、士郎が鸚鵡返しにたずねる。

「ねえ……?」

 イリヤは構わず士郎に詰め寄った。仰向けの士郎に覆いかぶさるようにして、静かな表情で。

「……イリヤ?」

 さらさらと銀髪が下へと流れ落ちて行く。まるで魅了されているかのように、士郎はイリヤから眼を離せないでいた。何も言えない。何も出来ない。それだけがルールだとでも言うように、二人は静かに見詰め合っていて。

――そして。

「……ふが」

 唐突に鼻を指でつかれて、士郎は奇妙な声をあげた。

 見ると、イリヤがくすくすと笑いながら士郎を見上げていた。

 ようやく状況を把握したのか、士郎は半眼になりながら、呻く――

「……このやろ」

「きゃー、襲われるー」

 けたけたと笑いながら、イイヤが身をよじって逃げようとする。

「そういうこと言う口はこうだー!」

 きゃきゃっと笑いながら逃げ惑うイリヤに、それを追いかける士郎――

 時刻はもうすぐ11時になろうとしていた。

 

 

 

 ――同時刻、衛宮の屋敷前の道――

 ざっ――

 静まり返った暗い夜の道に、足音が一つ、響き渡った。

 

 

 

 

 

 

17.

 

 

 

「……そしたらね、タイガったらこう、びくっと震えちゃって」

 両手を振り回して話に熱中するイリヤに、士郎は苦笑しながら言葉を返した。

「うわ。なんだかその光景が目に浮かぶなあ……」

 布団の上に二人は寝転がりながら談笑していた。

 談笑、とは言っても、主に話すのはイリヤの方で、士郎はその話に相槌を打つ程度のものである。

 彼女の話の内容は、それこそどこにでも転がっているような、ありふれた日常の出来事ばかりだった――

 この前、おいしいケーキ屋さんをみつけた。

 大河がまたお小遣いを借りに来た。

 初めて映画館に行った。

 買い物に行ったら、少しおまけしてくれた。

 自転車は案外乗るのが難しかった――

 などなど。

「ああ、そうだよな」

 ――と。

「え? 何が?」

 いきなりしみじみと呟いた士郎に、イリヤはきょとんとして聞き返した。話の腰を折ってしまったことに気づいたのか、少し気まずそうな表情を浮かべて、士郎は申し訳なさそうにイリヤをちらりと見た。が、大して気にした様子もなく、少女は続けて? と促した。

 少しだけほっとしつつ、士郎は口を開く。

「ん、いやさ。ええと……なんて言うかな」

 話しながら考えているのか、しきりに首をかしげつつ、士郎は続けた。

「ほら――あれだよ」

 言って、士郎は笑った。

「――多分さ、幸せって。こういうこと言うんだろうな、って。そう思った」

「……」

 イリヤは、ぽかんと士郎を見上げていた。

 が――次第に表情がじわりと崩れ始めた。

 泣いているような、笑っているような。なんとも表現し難い複雑なものだった。

「イ……イリヤ? あれ、俺そんな変なこと言ったか?」

 慌てて士郎がイリヤの顔を覗き込もうとする――が、それを拒絶するように、イリヤは顔を背けた。

「ううん」

 目頭を擦りながら、なんとかそう呟く。

「ああもう、なんだかなあ……」

 そう呟いた少女の声は、わずかに震えていた。

「本当、シロウはずるいよ」

「え……?」

 言っている意味がわからなかったのか、士郎は首をかしげた。イリヤは目頭から手を離すと、顔を一気にあげた。

「なんでも、ないで、すーっ」

 言うと同時、イリヤは『むぎゅーっ』と士郎の頬をつねりあげる――

「ひ、ひりひゃ?」

 もがもがとしながらも、士郎が聞き返す。

 イリヤは小さく笑って、手を緩めた。

「お・し・お・き。もう。大体シロウは――」

 その声にかぶさるように、玄関のチャイムが鳴った。

『え?』

 二人して、一斉にそちらの方向に向き直る。

 しばらくの間を置いて、もう一度、チャイムが鳴った。

 シロウは訝しげに首をかしげながら、部屋にある時計を確認した。

「なんだ? こんな夜遅くに宅配便もないだろうし……」

「――シロウ」

 立ち上がろうとした士郎の服を掴んで、イリヤが静かに口を開いた。え? と見返してくる士郎の視線をすっと避けて、彼女は素早く立ち上がり、士郎の横を通り過ぎていった。すれ違いざまに、一言、言い残して。

「わたしが出るわ」

「あ、ああ。わかった……」

 と、どこかぼんやりとした口調で、曖昧に士郎が頷いた。

 少女はスリッパも履かずに廊下を歩いていき――玄関に着くと、迷わず鍵を開け、扉を開いた。

 そして。

「あなた――」

 少女の瞳が――驚愕したように見開かれた。

 その一言を呟いたきり、イリヤは固まっていた。

「……さくら」

 なんとかそこまで、呟く。

 ――玄関に立っていたのは、間桐桜だった。何故かまだ制服姿のまま、俯いて直立している。彼女は虚ろな瞳でこちらを見つめたまま、一向に口を開こうとしなかった。

「……そう。迎えってことかしら……?」

 慎重に尋ねる――が、やはり桜は答えない。明らかに普通の状態ではない──何らかの術にかかっていることは明確だった。

(そう、人質ってわけね……逃げるわけにもいかなくなった、ってことか……)

 舌打ちしそうになるのを、なんとか押しとどめる。

「イリヤ、どうした――ってあれ、桜?」

 彼女が言い終える前に、廊下からひょっこりと士郎が顔を出した。

「あ、お兄ちゃーん」

 にぱっと満面の笑顔を浮かべると、士郎に向かって大きく手を振ってみせた。──桜の顔を隠すように。

「わたし、さくらとちょっと散歩にいってくるね?」

「え、こんな時間にか?」

 戸惑ったように聞いてくる士郎に、迷わず頷いてみせる。

「うん」

「散歩ってどこにだ?」

「うーん、どこだろ。ねえさくら、どこにしよっか?」

 尋ねつつ、ぐいぐいと桜の背中を押して、玄関の外へと押し出した。

「…………」

 桜は反応らしい反応はしない。

少女は動じた様子もなく、にっこりと笑って続ける。

「――うん、そうだね。歩きながら考えるのもいいかも」

 一方的に言って、靴を履きながら、さりげなく付け足す。

「お兄ちゃんは来ちゃだめだからね?」

「なんでさ」

 やや憮然とした声をさらりと聞き流し、とんとんとつま先を床に打ち付ける。傘立てに入っていた赤い傘を引き抜いた。

「お姉ちゃんの言うことは、聞かなきゃだめなのーっ」

 べー、と意地悪く舌を出してイリヤは玄関の外に歩き出した。行こ、と桜の服の裾を摘まみながら、髪をかきあげる。小さく会釈をして桜もまたそれに続いた。

「それじゃ、お兄ちゃん」

 イリヤはひょっこりと扉の向こうから顔だけ出すと、

 

「――――ばいばい」

 

 そう言い残して、扉を閉めた。

「え」

 静まり返った屋敷の中で、士郎はしばらく呆然としていたが――

「…………イリ、ヤ?」

 その呟きに答えるものは。

もう、屋敷の中には誰にもいなかった。









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