9.
「でも、まさか尾行なんてね」
道を歩きながら、ちくちくとイリヤが愚痴る。
「ご、ごめんなさい」
桜は身を縮ませながら、小さな声でなんとかそう呻くのみだった。
さすがに少し可哀想になったのか、士郎が素早く会話に割り込んだ。ところでさ、と明るい声を出しながら、
「それで桜、今日は夕飯どうするんだ?」
「あ、すいません先輩。今日は家の用事があるので、先輩のお家にはいけなんです」
小さく頭を下げて、桜は申し訳なさそうに笑う。
「あ、そうなのか」
「はい。すいません」
再び頭を下げようとする桜に向かって、士郎は慌てて手を振って、
「いや、そんな謝るようなことじゃないだろ。それに桜だって病み上がりだしな。きちんと栄養取って寝るんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
にこりと微笑む。
――しばらく歩くと、十字路に差し掛かった。
桜は一旦足を止めると、
「あ、それじゃあわたし、こっちなので」
「うん、じゃあ、また――ええと、明日は来れるのか?」
少し心配そうに尋ねる士郎に、桜は任せてください、と胸を張る。
「はい。多分大丈夫だと思います」
「そっか。じゃあ、また明日。お休み、桜」
「はい、おやすみなさい。――イリヤちゃんも、おやすみなさい」
イリヤもまたにこりと笑い、桜に軽く手を振りながら、
「ええ、おやすみさくら。身体には気をつけてね」
「はい」
ぺこりと頭を下げてから、桜は二人に背を向け歩き出す――
「……なんだか半分くらいデートじゃなかったわ」
イリヤがぽつりと半眼で呟いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。士郎は苦笑しながら、
「まあ、そう言うなって。――あ、ほら、じゃあこれから買い物行こう。イリヤは夕飯何が食べたいんだ?」
「え? うーん、何でもいいかなあ」
どうでもよさそうに言い捨てるイリヤ。士郎はますます苦笑する。
「む。それが一番困るんだぞ」
「ええ、でも本当に何でもいいんだよ?」
両手を後ろで組み、覗き込むようにしながら、イリヤ。
「ならせめて和食か洋食かでさ――」
「あ、じゃあお兄ちゃんが食べたいものがいい!」
大きく両手をあげて、イリヤが勢いよく提案する――
「む、それは」
「駄目?」
小首を傾げてイリヤは尋ねる。
士郎は首をゆっくりと横に振って、
「いや、駄目なんてことはないぞ。よし、じゃあ今日はそうするか」
「うんっ」
大きく頷いて、イリヤはさりげなく手を伸ばし、士郎と繋ぐ。
一瞬驚いたように士郎は視線を下げた──が、そのままわずかに眉根を落とすと、きゅっと握り返した。
と──
唐突に――イリヤの足が折れた。
かくんと膝が曲がり、前のめりに少女の体が倒れる。咄嗟に士郎が両手を伸ばし、イリヤの体を抱きかかえた。
「っと。危なかったな……」
ふう、と安堵の息を吐き、それから胸に埋もれているイリヤの頭を見下ろした。
「イリヤ、平気か?」
「……あ、うん」
頬を赤く染めて、頷く。それから彼女は悔しそうに士郎の顔を見上げてから、そっぽを向く。
「あ――ありがとシロウ」
「うん、どういたしまして」
体勢を立て直し、慎重に地面を踏みしめる。
「いけるか?」
士郎が心配そうに尋ねると、イリヤはむきになったようにがー、と両手を振り上げた。唾を飛ばすくらいの勢いで叫ぶ。
「平気よ、ちょっとつまづいただけなんだから。あんなの何てことないんだからねっ!?」
「うん、そうだな」
にこにこと静かに笑って頷く士郎。
イリヤは毒気を抜かれたように口ごもってしまう。何かを言いかけ、そしてあきらめたように口を閉じた。
「……もう。シロウの、ばか……」
「よし、いくか」
士郎はそんなイリヤの様子には全く気づいた素振りもなく、手を差し出した。
その手と、士郎の顔と──二つを交互に見比べてから、イリヤはそっと手を握り締めた。
俯いてありがと、と小さく呟く。
二人はイリヤの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出した。
ざくざくという雪を踏みしめる音が響く。
「ねえ、シロウ」
コートのポケットに手を入れたまま、イリヤはぽつりと尋ねた。
「ん?」
士郎は少女を見下ろし、首をかしげる。
「さくらがいないと、寂しい?」
「うん、それはそうだろ」
変なことを聞くんだな、と士郎は頷く。少しばかり目線を上げ、曇り空を眺めながら、独り言のように続ける。
「桜は家族みたいなもんだからな。家族の心配するのは当たり前だろ」
「そうなの?」
思わず反射的に顔をあげる──士郎と目が合う。
衛宮士郎はイリヤの顔を見つめたままにっこりと微笑み、握っていた手を離した。あ、と小さくイリヤが声を上げる。士郎はその手をぽんとイリヤの頭のせた。そのままそっと髪を梳くように、優しく頭をなでる。
「そう。イリヤだってそうなんだぞ?」
「え?」
くすぐったそうに身を縮こまえながらも、イリヤはなすがままにされている。
士郎は、そうだぞ、ともう一度頷いた。
「イリヤだって、家族の一員なんだからな」
その言葉に一瞬ぽかんと口を開けてから──
「──うんっ」
心底嬉しそうにイリヤは笑うと、早足で士郎の前に回りこんだ。
そして、黙ったままじっと顔を覗き込む。
「……イリヤ?」
くすぐったそうに顔を赤らめながら士郎が言うと、イリヤはますますにこにこと笑って士郎を見つめた。
ああもう、と呻いて士郎は視線を逸らす。
イリヤは小悪魔じみた笑顔を浮かべて、、
「ねえねえお兄ちゃん。私たい焼きたべたいなっ」
士郎はきょとんとした声で、
「え、今から?」
「何よう。可愛い妹のお願いがきけないっていうの? シロウはー!」
笑顔からいきなり膨れっ面になる。
「いや、そうじゃなくて、なんか唐突だったからな」
苦笑。
イリヤはくるりと回って前に向き直ってから、もう一度首だけで振り返り、
「江戸前屋のじゃなきゃ駄目なんだからね?」
「ああもう、わかったわかった」
士郎が苦笑しながら後へと続く──
イリヤは前を歩きながら、
「……家族、かあ」
そう呟き、小さく笑う。
少女は眩しそうに空を見上げた。
重い雲が、ゆっくりと風に流されていた。
10.
「へえー、そうなんだ。うん、うん────あ、……待ってね、今帰ってきたみたいだから。……おーい、こっちこっちー」
士郎の屋敷に帰ってくると、ちょうど大河が誰かと電話をしているところだった。足音に気づいたのか、大河はちらりと二人に視線を送り、受話器を持ちかえた。
ぽかんとしながら、士郎が呻く。
「あれ。藤ねえ、仕事いったんじゃ」
大河はその言葉には気づかなかったのか、気にした様子もなく、受話器を片手で塞ぐと、ちょいちょいとイリヤに向かって手招きしてみせた。
「イリヤちゃんイリヤちゃん」
わたし? と指で自分を指して聞くと、大河はこくこくと頷いた。一瞬二人は困ったように視線を合わせるが、イリヤは肩を竦めるとすぐに大河の元に向かった。受話器を受け取り、訝しげに眉をひそめながら、
「……もしもし?」
『あ、久しぶり──って言っても、朝ぶりだけど』
声を聞いてから、イリヤは急にトーンを落とした。半眼になって、つまらなそうに呟く。
「ああ、なんだ。リン」
『なんだって何よそれ。久しぶりだって言うのに』
イリヤは何言ってるんだか、と嘆息した。
「全然久しぶりなんかじゃないじゃない。朝聞いたわよ、もう」
『あー、そうそう。ちょっとかけた場所が悪くてね』
「いきなり切れたから、何かと思ったわ。って……」
ふいに真顔になってイリヤは首を伸ばし、居間をのぞきこんだ。机の上には、すでに広げられたたい焼きが6つ。士郎はお茶でも淹れにいっているのか、不在。つまり――危険。
「ごめん、ちょっと待ってて」
イリヤはすっぱりと言い切り、電話から手を離した。大股で机に向かうと、紙で出来た箱の中からたい焼きを一つ『むんずっ』と掴み、
「……タイガ……?」
ぎろり、と睨む。
大河はびくりと体を震わせると、さっと視線を逸らした。
「全く。油断も隙もないんだから……」
呆れたように嘆息しながら、廊下を戻り受話器を持ち、声を張り上げる――
「お待たせ。それで、どうしたの?」
『……ん、まあ。元気かなって』
「うん、まあ別に元気だけど。そっちこそどうなの? 全然帰ってこないじゃない」
たい焼きの腹をふにふにとつつきながら、イリヤは半眼で告げた。
『あー、うん。時間がとれなくってね。なかなかまとまった休みは難しいわ』
「……どうせ研究が楽しいから帰って来ないだけなんでしょ」
「うっ……」
図星なのか、口ごもる凛。
『そ、それにしても士郎は元気にしてる? 桜は? ああ、藤村先生は勿論元気なんだろうけど』
「んー? そうね。みんな元気よ。──あ」
と、イリヤは声を詰まらせた。
『? どうしたの?』
しまった、と顔をしかめつつも、イリヤは正直に話した。
「ううん、なんでもないわ。ただ、そう言えばさくらが風邪ひいていたんだったってだけ」
『そう。まあ風邪くらいなんてことないでしょ』
そこまで言ってから──凛は声のトーンを低くした。
『……ところでイリヤ。わかっているとは思うけど──』
「わかってるわよ。無理はしない、無茶もしない。何か変だって思ったらすぐに連絡する──よね?」
指を折ろうとして、たい焼きが邪魔をしていることに気づく。イリヤは一瞬の躊躇の後、嬉しそうに頬を緩ませながら頭からかぶりつき――
「……」
そして、表情を固まらせた。それでもなんとか彼女はもごもごと口を動かし、口の中身を咀嚼し、飲み込んだ。それからさらに、もう一口。
『そうそう。いつ調子が悪くなるかもわからないんだから、無茶は絶対駄目よ』
明るい凛の声が受話器から響いている。
「……」
イリヤはぼんやりと手にしたたい焼きを見つめた。手を動かし、色々な角度から覗き込んでいる。断面からはアンコが覗いていた。
『……イリヤ?』
「……え?」
はっと我に返り、イリヤは慌てて聞き返した。
『大丈夫? 何かあったの?』
受話器から、心配そうな声が聞こえてくる。
「あ――ううん、なんでもない」
イリヤは静かに否定した。
『そう? ならいいけど……』
凛は納得していないようだったが、反論はしてこなかった。
「……ねえ。リン」
ぼんやりと庭を見つめたまま、ぽつりとイリヤは口を開いた。
庭は一面の雪景色。純白の世界が広がっている。
『え?』
「そっちは雪って降っている?」
『雪? ううん、別に。今日はすごくいい天気だし――あ、何、そっちはひょっとして降ってるの?』
「ん……」
電話口から聞こえてくる凛の声に、曖昧に頷く。もう一度たい焼きに視線を落とした。ぐりぐりと指で押してみる。
『でも雪ってことは結構寒いでしょう? こっちもこっちで相当寒いけど、やっぱり日本とは気候が違うっていうか――』
「……寒いのかな、うん」
受話器を顔から放し、イリヤは俯いたままぽつりと零した。
視線は窓に固定されているかのように、微動だにしていない。
一切の感情がない、平坦な瞳で彼女は庭を眺め続けていた。
『ちょっとイリヤ? 聞いてる? ねえ、返事しなさいって――』
だらりと手を下げ、イリヤはひとりごちる。
「……寒いのは、苦手なのにな……」
呟き、たい焼きを口に含む。
機械的に口を動かし、それを飲み込んだ。
受話器からは凛の話す声がえんえんと響いていたが、イリヤは構わず手を持ち上げ、
『ちょっとイリ――』
迷わず、本体に置いた。
声が寸断される。
「……ふう」
受話器を両手で押さえ込むようにして、息を吐いた。
そして。
「うっ……!?」
顔をしかめ、口元を手で唐突に抑え――少女は小走りに廊下を進みだした。
11.
「イリヤー、お茶がはいったから、電話終わったら――って」
そこまで声に出してから、士郎は電話の傍に誰もいないことに気づいたようだった。
「あれ」
呟き、周囲を見渡す――が、やはりどこにもイリヤの姿はない。
「どこいったんだ……?」
首をかしげながら、電話に近寄る。と、それとほぼ同時。
電話がけたたましく鳴り響いた。
びくりと一瞬体を震わせてから、士郎は慌てて受話器を取りあげた。
「はいもしもし、衛宮ですが――」
『ちょっとイリヤなんなのよ――って、あれ、士郎』
「なんだよ、どうなってるんだ?」
きょろきょろと周囲を見渡しながら、尋ねる。
耳に入ってくる凛の声は、やけにうんざりとしたもののようだった。
『こっちが聞きたいわよ。あの子途中でなんだか上の空になっちゃうし。そこにいないの?』
「え、ああ。いない、みたいだけど……?」
『…………』
「? どうしたんだ、遠坂」
『うん。もう一度聞くけど、イリヤの様子が変なのよね?』
「そうだな。なんだか少し落ち着きないかな」
言って、再度辺りを見渡し、確認する。やはり誰もいない。気配すらない。隠れているというわけではなさそうだった。
士郎はひょっとして、と半眼になって、声のトーンを落とした。
「……何か怒らせるようなこといったんじゃないのか、遠坂」
『…………』
「……あれ。遠坂?」
シロウは訝しげに受話器に耳を寄せた。
『……ねえ、衛宮くん?』
猫なで声で凛は囁く。
そして、その言葉と口調で、士郎の顔が一気にしまった、と青ざめる──
「え、あ――おう。なんだ遠坂」
『あんたわたしをどんな目で見てるのよー!』
がー、と叫ぶ声が聞こえてきて、士郎は反射的に受話器を耳から離した。手をぱたぱたと振って否定しながら、
「いやいや、そういう意味じゃなくて――」
『ああもう、久しぶりだしちょうどいいわ。いい、士郎。貴方はそもそも――』
いきなり説教を始めた凛の声を聞き流しながら、士郎はこっそりと嘆息した。それから視線をあげ、背後を振り返る――やはり誰の姿も、ない。
はあ、と情けない声をあげて、士郎は困ったように呟いた。
「イリヤ、どこいったんだ……?」
12.
――ばたんっ!
勢いよく扉を閉め、便器に顔を近づけると同時――口の中のものを吐き出した。
ばしゃあ……っ!
「う………………」
うんざりしたように、呻く。
嘔吐したものの中には、胃の中の内容物も確かにあるのだが――
――その大半は、血だった。
「真っ赤、だぁ……」
憔悴しきったような顔で、なんとかそれだけを呟き、イリヤは床に座り込んだ。朦朧とした様子のまま、なんとか振り返ってかちゃりと鍵を閉める。
「……イリヤか? なんか走ってたけど平気か?」
「……シロ、ウ?」
ぼんやりとしたまま聞き返す――が、なんとか気力を振り絞って声を張り上げた。慌てたような口ぶりで、ドアの向こうへと叫び返す。
「ちょ、ちょっとシロウ、何で来てるのよ!」
「え。なんでって、具合悪そうだったから……」
「いいから、どっかいってよばかーっ!」
「うわ、ごっ、ごめんっ!」
慌てたような口調。そして、ばたばたと廊下を走る音……
「………ああ、もう。本当デリカシーないんだから……」
額の汗を拭いながら、イリヤは呻く。
「────は、あ」
呼吸を整えてから、のろのろと立ち上がり、便器に腰掛ける。
「…………」
虚ろな瞳だった。焦点のろくにあっていない、力ない眼。おおよそこの年頃の少女に似つかわしくない、ひどく疲れた表情。
「……ふう」
もう一度、嘆息。息も整ってきているようだ。
「…………はぁ……」
もう一度。今度はより深く、より疲れたように。
頭を垂れたまま、少女は呟く。
「……どうやら本当に──時間がないみたい、ね」
その言葉を口にしてから、少女は唇をかみ締めた。
「……怖いよ、シロウ」
自嘲するように、イリヤは囁く。
「怖い、なんて──」
そこまで呟き、少女はまた嘆息をひとつ。乱暴に手を頭に突っ込むと、くしゃりと髪を握り締める。
「…………シロウ──」
唇が僅かに動き、言葉を紡いだ。
扉ごしに、とんとんと言う料理をする音がわずかに聞こえてきていた。
13.
ざくっ――
白い地面に、小さな足跡が点々と続いていた。
「ふうっ」
声と共に白い吐息が舞い上がり、寒気に混ざって薄れて消えた。きんとした冷たい空気と、底冷えのする風が混ざり合っている。
衛宮の屋敷の裏庭はそれなりの広さはあるものの、居間に面した庭に比べればひどく狭く、そして寂れていた。誰も歩くこともないからか、地面に広がった雪は彼女が歩いてきて付けたもの以外はどこも踏みしめられていない。
「はぁ――」
あのまま居間にいけば士郎と顔を合わせてしまう。それがなんとなく嫌だったので、ぶらぶら歩いていたら、こんな所にまで来ていた。
壁に体重を預け、イリヤが息を吐いて空を見上げると同時に風が吹きぬけた。銀髪が大きく舞い上がり、そしてすぐにゆっくりと重力に従ってさらさらと落ちてゆく。少女は無言のまま顔に張り付いた髪に手をかけ、灰色の濁った空を見上げた。
雲はゆっくりと、だが確実に動いていた。
さわさわと言う音がしだいに弱まっていく。
「そっか──そうだよね」
風が止んで途端に静まり返った世界の中、小さく声が響いた。
どこか疲れたような、諦めたような……そんな声だった。
ふいに彼女から1メートルほど離れた場所に、屋根から滑り落ちた雪の塊が落下した。重い音が響いたが、少女は大して気にした様子もなく、ただ空を眺め続けていた。
遠くで車の走る音がわずかに聞こえ、そしてそれもすぐに消えた。
その方向に目をやりながら、少女は呟いた。
「運命――か」
イリヤは手にしたたい焼きを一口かじった。その拍子に断面からあんこが飛び出て、一粒雪の上に落ちた。
彼女は気にした様子もなく、のろのろと咀嚼し始めた。
十回ほど口を動かした後に、こくんと喉が小さく動いた。
やがてイリヤは、ぼんやりと庭を眺めながら、口だけを動かして呟いた。
「おいしく……ないなあ……」
呟かれた少女の声は、小さく震えていた。やがて、わずかにその瞳が潤んだ。零れ落ちるほどではない、ごく少量の涙だった。
――たい焼きを持つ少女の手に力がこもった。
「おいしくないよ……シロウ……」
風が、また吹いた。
たい焼きからあんこが飛び出し、ぽとりと雪の上に落ちた。
interlude
そこは……黒く暗い部屋だった。窓のない地下室に光源がひとつもなければ、視界がろくにきかないのは当然なのだが。黒と深緑の混ざり合った奇妙な重い闇。風すらも押しつぶしていると言うように、何一つ音はない。
部屋はさほどの広さがあるわけでもなく、また天井も低かった。さらにはやけに湿度が高い。濁った重い空気が辺りに蔓延していた。まともな人間ならば、中にいれば十分とたたずに飛び出したくなるような雰囲気。
部屋の中央にはひとつの影があった。
光も風すらもない部屋の中で、しかし影は闇と別個の存在だった。何が違うという訳ではない。ただ在り方そのものが異なっている、それだけだった。影はまるでそれ自身に意思があるとでも言うようかのようにゆらゆらと蠢いている。
――コツン
硬い音がひとつ、部屋に響き渡った。
反響は二度、三度、そして永遠に続くと言わんばかりにずっと続く。そしていつしか――音と音とが重なり合い、膨れ上がり、揺れた。
それは、泣き叫ぶ声に似ていた。地の底から響きわたるような重低音が部屋を満たしている。
その出来具合に満足したとでも言うように――影は小さく口を歪め、笑った。
影はふいに動き出した。
暗い闇の中を、影がゆっくりと進み始める。
今まで佇んでいた場所から、地上へと繋がる階段へと。
コツン、コツン、コツン――
リズムを刻むようなその音は足音ではなかった。節くれだった手が掴んでいる杖が床を打ち鳴らす音――それが音の正体だった。
やがて影はぴたりと足を止めた。ゆっくりとした動作で後ろ――つまり今までいた地下室を振りかえり――
「……さて、準備を整えるとするかの」
小さく、一言をこぼした。
影はそのまま外へと出て行った。
反響した音は、いつ止むとも知れず、部屋の中に響き渡っていた。