6.

 

 

 

「そういえばね、シロウ」

 ざくざくと音を立てるように歩きながら、イリヤは足元に視線を落としたままで口を開いた。

「ん?」

「わたし、さくらの家にいくの、初めてだったわ」

 しっかりと確かめるように雪を踏みしめながら呟く。

 そうだな、と頷いて士郎は空を見上げた。

 朝食を食べ、後片付けをして──と色々とやらなければならない仕事をしているうちに、いつのまにか時刻は11時近くになっていた。

 相変わらず太陽は出ていない。

「ああ、そう言えばそうだよな」

 付け足すように言って、衛宮士郎は前を向く。

「……しっかしどうしたんだろうなあ、それにしてもさ」

 ぼそりと呟いた士郎の声に、イリヤは半眼で、

「ふん。これでなんてことなかったなら、許さないんだから」

 士郎は黙ってその言葉に苦笑した。

 それきり話すこともなくなり、二人は黙って歩いていく。

「あ、ここだ」

 士郎が顔をあげたのは、それから五分ほどした後のことだった。

 ふうん、と関心のなさそうなイリヤの声に苦笑しつつ、呼び鈴を押す士郎。

「……」

 口を閉ざしたまま、しばし待つ。

しかし、しばらく経っても応答は何もなかった。

「……もしかして本当に留守なのかな?」

「シロウ、どいて?」

 にやりといたずらを思いついた子供のような――いや、子供なのだが――表情を浮かべると、イリヤは戸惑ったように立ち尽くす士郎を無造作に押しのけて、ベルの前に立った。そして、

「えーいっ!」

 楽しそうに叫ぶと同時、迷わず呼び鈴を連打する──

「うわっ、イリヤ!」

 慌てて士郎が止めようとするが、彼女は意に介さずにベルを連打し続ける。ようやく士郎が少女を引き剥がすと同時に――、

 ――カチャっ……

わずかな音とともに、玄関が少しだけ開いた。

「あ……」

 それに気づいた士郎が視線を向けた。

 ――扉は10センチほどだけ開いていた。

 ――中は暗く、何も見ることはできない。

 士郎は一歩踏み出して、ややためらいがちに呼びかけた。

「桜、か?」

 その問いかけはあてずっぽうなものだったのだろうが──

「……せんぱい?」

 扉の奥から聞こえた声は、間違いなく間桐桜のものだった。が、やけに力の入っていないような声でもあった。

 きぃ……

 扉が揺れる。

 が、それきりだった。返事をしたきり桜は扉の奥から姿を現そうとはしない。よく見ると、チェーンがかけられたままだった。

 ――イリヤがわずかに顔をしかめた。

「ええと……」

士郎は黙ってしばらくその場に立っていた──が、それ以上桜に出てくる気配がないことを悟ると、さらに一歩踏み出して口を開いた。一気にまくしたてる。

「その――いや。ほら、桜ここのとこ、家に来なかったからさ。さっきも電話かけても出なかったし。藤ねえはほら、仕事があるから来てないんだけど。その――だからつまり、心配になって──」

 そこまで一息で言ってから、はっとして顔をあげる。

「……桜?」

 いぶかしげに名前を呼んだ。

「あ──はい」

 返事は少し間を置いてから返ってきた。

 声は小さく、そしてくぐもっていて、かなり聞き取りづらいものだった。

「……あの、すいません先輩。その……風邪をひいたみたいなんです。それで、さっきまで寝ていたんですけど……」

「大丈夫なのか?」

 眉根を下げて、士郎。

「けほっ――あ、はい。寝ていれば大丈夫だと思うので」

 扉越しに、桜の髪がわずかに目に映る。それに目を泳がせながらも、そうか、と士郎は頷いた。

『…………』

 それきり話すことがなくなり、会話が途切れた。

「桜。開けてくれないか?」

 歯がゆそうな表情を隠そうともせずに士郎は言った。笑顔を浮かべ、静かに続ける。

「もしよかったら、看病するよ」

 返ってきた桜の声はひどく申し訳なさそうだった。

「でも……先輩、うつっちゃいます」

「大丈夫だ、そのくらい」

 どんと自分の胸を叩いて、士郎。

「……え、ええとその、でも、今ちょっと、服が……」

 言いにくそうにごにょごにょと桜が呟くと、はっと士郎は顔を赤くした。

「え――あ、ああ。そうか。風邪だもんな。うん、ごめん、気がつかなかった」

 気まずそうに視線を逸らしつつ、士郎が俯く。

 そんな二人の様子をジト目で見ながら、イリヤは周囲を観察した。屋敷の窓は見える範囲では、その全てにカーテンがかかっており、中を見ることは出来ない。庭は手入れされているようだった。だが――

(……ひっかかるわね。何かが違う……)

 いぶかしげに視線を這わせながらも、表情にはおくびも出さず、一人ごちる。士郎はイリヤのことには気づいた様子もなく、明るい声で笑って告げた。

「じゃあ桜。あまり無理はするなよ。何かあったらすぐに電話してくれ」

「はい。……すいません、先輩」

 扉の奥から聞こえてくる声は、申し訳なさそうに震えていた。

「ばか、なんで桜が謝るんだ」

 じゃあ、と言って士郎はイリヤの背中を押した。

「行こう。帰るぞ、イリヤ」

「……ええ」

 イリヤはちらりと屋敷の二階のカーテンのかかった窓を見てから、次に士郎を見て、それからもう一度背後の扉を振り返った。さりげなく告げる。

「お大事にね、さくら」

「はい。ありがとうございます、イリヤちゃん」

 声は苦笑したようだった。

 イリヤは前に向き直るとさっさと歩き出した。

 士郎も慌ててそれに続く。

 それから少しだけ間を置いて――、

ぱたん、と扉が閉まった。

 

 

 

 

 

 

Interlude

 

 

 

 間桐の屋敷の二階──

 わずかに開いたカーテンの隙間から庭を見下ろしながら、ソレは身じろぎせずに立っていた。

「……ふむ」

 呟かれたその声は、老人特有のしゃがれたものだった。

「気づかれた、かの?」

 コツン、コツン、コツン──

 音は繰り返される。硬く、軽い音の正体は杖だった。その上にはしわだらけになった、小さい手が乗せられている。

 やがてソレは、窓から身を離した。杖をつき、ゆっくりと出口へと進みながら一人ごちる──

「……頃合、かの」

 呟きを一つ残して、ソレは部屋から出ていった。

 静かな音と共に扉が開き、閉まる。

 ──部屋の中には誰もいなくなった。

 カーテンの隙間から見える屋敷の玄関には、今まさに帰ろうとする士郎とイリヤの姿があった。

 

 

 

 

 

 

7.

 

 

 

「で」

 屋敷の門を出たすぐ先の道路。とんとんと靴の先を地面に打ちつけながら、士郎はイリヤに向かって尋ねた。

「どうする? もう帰るか」

「うーん……」

 イリヤは人差し指を唇に当ててしばらく考えたあと、

「もったいないし、とりあえず、ぶらぶらしようよ」

 にぱっと笑い、そう提案した。

「ぶらぶらって……」

「一緒に歩こ?」

問答無用とばかりに士郎の腕を引っ張って、イリヤは踊るような足取りで進み始めた。

「……ああ、そうだな」

 釈然としないような表情をしていた士郎も、やがて苦笑して歩き出す。

「んー、やっぱり曇ってるねー」

「そうだなあ。明日か明後日には晴れって天気予報にはあったけど」

「晴れかあ……」

 空を見上げて、イリヤは嬉しそうに呟く。

「早く、晴れるといいよねっ」

 言うと同時、士郎は士郎の腕に絡みつくと、もたれ掛かるようにして横を歩き始めた。

「ちょ、ちょっとイリヤ……」

「なあに?」

 きょとんとしてイリヤは士郎を見上げると、彼は顔を赤くしながら、視線をそっと逸らして呟いた。

「えっと……なんて言うか、歩きづらいって言うかさ……」

「ふうん?」

 くすっ――

 一瞬、悪戯を思いついたような楽しそうな笑みを浮かべると、

「えへへっ」

イリヤはますますぎゅっと士郎の腕にしがみついた。

「う、うわ」

「シロウはお兄ちゃんなんだから、そのくらい我慢しないと駄目なんですーっ」

 くすくすと笑うイリヤ。シロウは頬を染めながら、それにしたがって歩いていく。

「まいったなあ……」

「……本当は嬉しいんじゃないの?」

 くすりとイリヤがからかうように尋ねると、

「ば、ばか、何言ってんだよ」

 ああもう、とふいっとシロウはそっぽを向く。

「む、それともお兄ちゃんはわたしに魅力がないっていうの!?」

「え、や、そうじゃなくってさ……」

 途端に不機嫌になったイリヤをなんとかしてなだめるように、シロウは身をかがめた。心底まいったと言う様に眉を下げて、

「……イリヤ、俺のことからかってるだろ?」

「からかってなんかないわ。楽しんでいるだけだもん」

 下から顔色を伺うようにして、イリヤはさらりと告げる。、

「だからそれをからかっているって言ってさ――」

 頭をかきながら、士郎。

「あ、でもねシロウ」

 ふいにぱっと士郎から腕を放し、とてとてを先を歩きながらイリヤは呟いた。

「ん?」

 肩をまわしながら士郎が聞き返すと、イリヤはくるりと振り返って、

「――わたしは、シロウのこと、好きだよ?」

「……………………」

 一瞬で、シロウの顔が真っ赤に染まる――

「うわ……」

 そのことに自分でも気づいたのか、彼は慌てて片手で自分の顔を抑えるとそっぽを向いた。

「〜〜〜〜……」

 何かを言おうとするが――言葉にならないのか、結局押し黙る。

「あ、ねえねえお兄ちゃん」

 ぐいぐいと腕を引っ張りながら、イリヤが楽しそうに提案する。

「公園、行かない?」

「公園?」

 間の抜けた声でシロウは聞き返す。イリヤは無邪気に笑いながら、

「うん、そう。ブランコ乗りたくなっちゃった」

「……ん、そっか」

「じゃあ、公園な」

「うんっ!」

 元気よく頷いて、歩き出す――

 

 

 

 そして。

「………………」

 その二人の姿を、角からそっと見守る人影があった――

 

 

 

 

 

 

8.

 

 

 

「お兄ちゃーん、やっほー」

 ブランコに乗りながら大きく手を振り、イリヤが叫ぶ――

「あんまり漕ぎすぎるなよー」

 士郎はすぐ近くのベンチに座りながら、ひらひらと手を振ってみせた。

「でも、本当にこんなのでよかったのか?」

 不安の色を乗せた声が耳に届いて、イリヤはぴくりと顔を横に向けた。

そこには振り子の針のように左右に大きく動いている士郎の姿があった。それに向かい、口を尖らせて少女は元気に叫ぶ――

「こういうのがー、よかったのー!」

 もう、と不満そうに呟くと、彼女は揺れる足場を蹴り上げ、宙に舞い上がった。

 本当に浮いていたのではないかというほどの遅さで、ゆっくりと地面に足を付く。

 きい、きいと彼女の背後でブランコが揺れていた。

 ――二人は公園に来ていた。

 天気のせいか、それとも地面のぬかるみのせいか、二人の他に人はいない。町の中からそこだけがすとんと切り離されたとでも言うように、喧騒も何もが聞こえなかった。

「ふうっ」

 鋭く息を吐くと、イリヤは士郎の傍へと歩いてゆき、両手を腰に当てて下から顔を覗き込んだ。うわ、と士郎がびっくりしたように顔を引きつらせるが、彼女はさらに凝視した。

「どうしたんだ?」

「……んん?」

 イリヤはにこにこと笑いながら、曖昧な返事を返した。士郎はしばらくの間その視線に耐えていたが、やがて我慢できなくなったのか、視線をそっと横へとずらした。頬が少し赤く染まっていた。

「ねえ、お兄ちゃん」

「何?」

「あのねえ――」

 と、そこまで言ってからちらりと視線を外した。横目で一瞬背後に気を向ける。すとんと表情らしい表情が全て抜け落ちたように、真顔で。

――再び士郎に向き直った少女の顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。

「シロウ、わたし喉渇いちゃったな」

「む、そっか」

 言いつつ士郎は周囲を見渡した。

「……自動販売機か何かで買ってくるよ。何がいい?」

「うんとね、温かいのがいいわ。あ、この前飲んだオシルコって言うのがいい!」

 きらきらと目を輝かせながらリクエストしてくるイリヤに、士郎は破顔した。

「うん、わかった」

 苦笑しながら士郎はぽん、とイリヤの頭に手を置いた。

「じゃあ、買ってくるから。どこか座って待っててくれよ」

「うんっ」

 歩いて道路に出て行く士郎に向かってぶんぶんと手を振りながら、イリヤは手近なベンチに座ったまま笑った。

 そのまま、士郎の姿が見えなくなるまで姿を見送る――

「…………それで」

 ――そう呟かれた彼女の口調は、今までのものとがらりと変わって低く、そして鋭かった。

少女はベンチに座ったまま、静かに続けた。

「……何か用かしら?」

「ふむ、さすがに気づかれるか……」

 声と同時に――

気配がゆるりと闇の中から溶けるように現れた。

 イリヤの背後、木の陰から現れたのは、杖をついた一人の老人だった。しわがれた顔には薄い、見るものに不快感を与えるであろう捩じれた笑みが浮かんでいる。

 間桐臓硯。間桐桜の祖父である。

「そうね。まあシロウは気づいていないみたいだったけど」

 呟きつつ振り返ったイリヤの表情には、士郎と話している時の柔らかさは完全に消え、代わりに冷徹とも言える硬さが浮かんでいた。

 だが、老人はその変化にも戸惑うことなく平然としている。

「……それで。何か用でも?」

 ――少女は再び尋ねた。余裕を持って髪をかきあげる仕草をしながら、その実油断なく周囲に気配を張り巡らせて。

「用もなしにこんなところには来んよ……」

 ざんっ……

 杖が、湿った土を叩いた。

 臓硯は闇の中で一歩前へ踏み出し――淡々と告げた。

「何、折角尋ねてきてもらったことだし、何かもてなしでも──と思っての」

「……そう」

 イリヤの返事は、ただそれだけ。

 言葉短かにうなずき、そして彼女はゆっくりと顔をあげた。

「それって、つまり」

言いながら、口元に挑戦的な笑みを浮かべる――目が鋭い光を放つ。

喧嘩を売られたって思っていいのかしら(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」

「そうじゃの。まあそう思ってくれていい」

 イリヤの視線に臆することなく受け流しながら、臓硯は飄々と頷いてみせた。ふん、と鼻を鳴らしつつイリヤは髪をかきあげ――嘯く。

「……シロウがいない時に出てきたのは、知られたくないってことかしら」

「わしが用があるのは、あくまでお前さんじゃよ――あの小僧には興味がない」

「ふうん? でも」

 イリヤは半眼で、からかうように続ける――

「……貴方のお孫さんが、代わりにいるみたいだけど?」

 少女の視線の先――公園の入り口に身体を隠すようにして―――と言ってもイリヤのいる場所からでは丸見えなのだが――、間桐桜がこそこそと辺りを伺っていた。士郎が消えた方向をしきりに見ている。どうやらあの後すぐに家を出て二人を尾行してきたようだが……

「……いいお孫さんをもったわね」

「ふむ、全くじゃ。いくら可愛い孫とは言え、これは少々目に余る」

 苦笑じみた声が響いた。

「しかし、これでは興も削がれるというもの。――時間を改めて伺わさせてもらおうとするかの」

「……ふうん?」

 少女の眉がぴくりと持ち上がった。口の中で舌打ちをしながら、とうとうイリヤは立ち上がり、そして振り返った。背後にあるのはただの深い草むらのみ。人影はどこにも見当たらない――しかしそれでもそこに()()がいると確信しているのか、少女の様子に動じた様子はなかった。イリヤは挑戦的に口元を吊り上げると、暗闇に向かって視線を投げつけた。

「いいわ、正々堂々、一対一。これ以上ないほどきっぱりと、決着つけてあげるわ」

 余裕たっぷりに言い切り、両手をそっと組み合わせる。

「……今晩、公園で。そこで殺してあげるわ」

「ふむ。まあ、それもよかろう」

 心底可笑しいというように、しわがれた声はくつくつと震えている。

「楽しみに待っておるぞ」

「……早く消えて」

 振り返ることなく、イリヤは囁く。

「かかか……」

 ――残像のように、低い声を残して。

 それまで場に漂っていた気配が掻き消えた。

 ざあっ……

 途端、周囲に音が戻った。ざわめく草木をぼんやりと眺めながら、少女は知らず小さく息を吐いた。

「……そう。気づかなかっただけなのね」

一瞬だけ浮かべた呆けたような表情は、すぐに消え去った。唇をきゅっと結び、イリヤは再び嘆息した。

「決着、か――」

 言葉にしたことで何かが変わるわけではないだろうが――それでも少女は開いた口をすぐに閉じ、慎重に周囲を見渡した。手で髪を押さえ、ゆっくりと空を見上げる。空――

 灰色の空は途切れることなくどこまでも続いていた。

「……シロウ」

 その呟きに呼ばれたというわけではないだろうが――視界を元に戻すとちょうど彼女の元に走りよってくる士郎の姿があった。彼は視線が合うと、途端にこりと笑って少女に向かって大きく手を振ろうとした。そこで手に缶を持っていることに気づいたのか、慌てて手を引っ込める。

 その様子を見ながら、イリヤは口元に小さな笑みを浮かべると、ベンチから飛び降りた。士郎の元に駆け出しながら、声を張り上げる。

「もう、お兄ちゃん遅いー!」

「悪い悪い、なかなか見つからなくってさ」

 士郎はイリヤの元までやってくると、ほら、と二つ持っていた缶の一つを手渡した。イリヤはそれを受け取り、蓋を開けながらちらりと士郎の顔を盗み見た。

「ん?」

 視線に気づいたのか、にこにこと笑いながら見返してくる士郎――

 ――その視線から逃れるように顔を背けながら、イリヤは口早にまくし立てた。

「もう、遅いよシロウ」

「うん、ごめん」

「……うん」

 素直にイリヤは頷いた。少しほっとしたような、そんな表情を浮かべて。

 右手に持っていた缶を左手に持ち帰る。

「……ねえ、お兄ちゃん」

 少女は呟き、空を見上げた。

「うん?」

 士郎は缶の蓋を開けながら聞き返した。

「…………ん」

 言葉を続けることなくイリヤは小さく頷くと、そっと眼を閉じた。

 そのまま、風に体を預ける。

 銀の髪がわずかに持ち上がった。

 やがて、イリヤは閉じたときと同じようにゆっくりと眼を開いた。

「……帰ろっか、シロウ。ちょっと疲れちゃったね」

 言って、士郎の顔を見上げて、笑った。

「あ、あと――」

 と、そこまで言って、わざと声を大きく張り上げる――

「そこに隠れている誰かさんも。どうせなら一緒に帰らないー?」

「え、誰かいるのか?」

 慌てた様子で振り返る士郎。

 二つの視線が、じっと一点を見つめる……

「……あ、あああああのっ」

 と――とうとう観念したのか、柱の影から桜がひょっこりと姿を現した。顔を真っ赤にして、違うんです、と言いながらわたわたと歩いてくる……

「桜!?」

 士郎が目を見開いている。風邪を引いていると思っていたのだろうから、当然と言えば当然か。

「ええと、その。そんな尾行(つけ)てたとかじゃなくってですね――えっと、そのう……」

『…………………………』

 二人は反応しない。士郎は困ったように、イリヤは冷たい視線を送ったまま、黙っている。

「あのう、うんっと……ひゃっ!?」

 唐突に、びくりと体を震わせる桜。

「? どうかしたのか?」

「え? えと、その、携帯が……ああもう、こんな時に、ってしかも電話……あ、でもどうしよう、何か急用なのかなあ……で、でも、えいっ!」

 などと言う掛声とともに、携帯を操作している桜。

 どうやら着信をそのまま切断したようだが。

『…………………………』

「ふう……」

 桜は一仕事終えたような爽快な表情で汗を拭いつつ顔をあげ、

『…………………………』

 そして。半眼のまま立ちつくしている二人と目が合った。

「………………ごめんなさい」

 がっくりとうな垂れて、全面降伏をする桜。

「はあ――」

 呆れたように嘆息をして、イリヤは缶を口にする。澄ました顔で、口調だけを意地悪くして。

「あまり趣味がいいとは言えないわね、さくら」

「う」

「って言うかさ、風邪はどうしたんだ? 調子よくなったのか?」

「あ、はい、あっとその、そうです、調子が悪いかなー、なんて思っていたんですけど、案外大したことなかったみたいで。すっかりよくなったから報告しようと思って、それで──あう」

ぶつぶつと呟いた後、桜はがっくりとうな垂れて、

「……ごめんなさい」

 と、二人の間に体を割り込ませて士郎が口を開く――

「まあまあ、そのくらいでさ。なんにしろ回復したんならよかったよ」

「あ、あはは。ありがとうございますっ」

「よし、じゃあ桜も一緒にいくか」

 軽く答える士郎に、イリヤはがーっと噛み付いた。

「ちょっとお兄ちゃん、デートだってわかってるのー?」

「先輩、ちょっと鈍すぎだと思います」

「お、俺が怒られるのかあ?」

 情けない声を上げて、士郎が、また一歩後ずさる――

 風が一段と強く吹き、少女の髪を舞い上げ――

 その風もまた、空へと吸い込まれていった。








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