3.

 

 

 

「うん……確かに、あのとき笑ったんだよなあ……」

呟いて薄く目蓋を上げると、ほの暗い光がわずかに瞬いた。それが玄関の奥から漏れてくる光だ、と気づけるようになってから――、

――ようやくイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、目を開けた。

「……怖くない、か」

 薄暗い天井を見上げながら、ぼんやりと繰り返す。

大河の支度を玄関前で待っているのだが、どうにも調子はよくないようだ──体もあるけれど、心もなんだか疲れてる。

「……でも」

 きゅっと目を閉じ、

「でも、今は……」

 ぼんやりと薄暗い廊下を眺めながら、少女はその後の言葉を飲み込む。

――――どさっ

イリヤがはっと我に返ったのは、それからしばらくした後、唐突に物音が響いたときのことだった。

 窓の外で、雪の塊が屋根から落ちたようだった。

 音はそれきりで、玄関は再び静寂に包まれる――

「……ああ、もう……」

 何かあきらめたように呟いて、イリヤは首を上に向け、目を開いた。霧がかったようにぼやけた景色が見慣れた天井へと変わり、ふうと息を吐く。

「とりあえず――」

 呟き、そっと腕を天井に突き出す。そして、広げていた掌を握り締めた。数回それを繰り返して少女は小さく頷いて見せた。続いて反対の手、首、頭。そこまで試してか、ようやく安堵の息を吐く。

「動く――か。うん、まだ平気だよね」

 言い聞かせるように呟いてから、

がらっ――

おもむろに扉を開けた。明かりが差し込んでくる。さして強くはない、グレイの光。

外は相変わらず曇りのようだった。

「早く、晴れないかな……」

 ぼんやりとそんなことを呟いて、片手をそっと、扉にはめこまれたガラスにあてる。

ガラス越しに見える庭はまだ暗く、見通しはきかない。薄ぼんやりと雪が部屋の光を浴びて輝いているくらいだった。

「……もう。寒いのは苦手なのにな」

 ぽつりと呟いた。

ガラスにあてていた手を、そのままゆっくりと右へ移動させていく。

薄く白く染まった透明な壁に、すっと一本亀裂が入った。

「……怖いよ、シロウ」

彼女は無表情のまま、じっと窓の外を見つめていた。

「怖く……なっちゃったんだよ……」

ただ淡々と――呼びかける。

 

どさっ

 

雪が屋根から落ちたようだ。

「……わたしが、夢を見るのは……駄目なのかな」

 

キュッ――

 

また一本、窓に線が入る。

「……うん。きっと駄目なんだよね」

彼女は瞳を陰らせると、小さく笑った。

何かが破綻したような。

――どこかに大切なものを置き忘れてきてしまったような。

ひどく、寂しげな微笑――

「でも、さ。シロウ」

そして少女はきゅっと唇をかみ締めると俯き、

「――最後くらいは、いいよね?」

 こつんと額を扉に押し当て、囁いた。

 

 

 

 

 

 

4.

 

 

 

 ざくり、ざくりと言う音が二重に響く。

「うーん、いい加減こう雪ばっかりだと飽きるわよねえ」

 藤村の屋敷から衛宮の家へと続く道の途中――

雪が深く積もったところをわざわざ歩きながら、大河はげんなりとした表情で呻き声をあげた。

 朝の雪道をふたり、歩いている。積雪量は昨日と大して変わりはなかった。人がいないのも同じ。天気も同じ。相変わらずのどんよりとした曇り空。

(でも)

 ぼんやりと空を眺めながら、思う。

(何もかもが同じじゃない――)

「やっぱり、そろそろ太陽が恋しくなるって言うか――」

(……同じだなんて。そんなこと、あるわけないのにな)

「やっぱり人間、お日様の下でいないとねえ」

 横でしゃべり続けている大河に根負けしたわけではないが、それでも疲れたように背中を丸め、イリヤは嘆息した。

「……どしたの? イリヤちゃん」

 ふと気が付くと――

 すぐ横に大河の顔があった。心配そうなその表情を見ると、思った以上に大きな溜息をついていたのかもしれない。少女は慌てて顔の前で手をぱたぱたと振ると、

「え? ああ、なんでもないわ」

「そう?」

 大河は呟くと、あっさりと納得したようだった。

 ……再びこっそりとため息を付く。

「イリヤちゃんは雪、好きよねえ」

「え?」

 聞き返すと、大河はにこにこと笑いながら、

「雪。好きだって言ってたじゃない」

「あ――う、うん」

 慌てて頷く。

 少女はそれからまたぼんやりとした表情を浮かべながら空を見上げた。

「でも」

 前を向いたまま、小さく呟く。グレイの空は無表情のまま、どこまでも続いている……

「うん、そろそろ太陽が出てもいいかもね」

 ――苦笑。

「だよねえ」

 やんなっちゃうよね、と大河がぶつぶつ言っているのを聞き流しながら、足を進める。

「手袋持ってくればよかったな……」

 足元に転がっていた雪の塊を蹴り飛ばしながら、イリヤは愚痴る。

 雪も止んでいることだし、それほどでもないだろう──と踏んでいたのだが、どうやらその見通しは甘かったらしい。両手に息を吹きかけながら、イリヤは心底うんざりしたように大河を見上げた。

「…………タイガ、寒いわ」

「うーん、それはわたしに言われてもなあ……」

 むう、と腕を組んでみせる大河にイリヤはますます口を尖らせる。

「何よ、タイガが悪いんだからね」

「むむむ」

「あ、でも」

 イリヤは顔を輝かせると大河の腕に飛びつき、そのまま力いっぱいしがみついた。

「こうすれば、あったかいよね」

 大河を見上げて、屈託のない笑顔を浮かべる。大河はぎょっとしたように少女の顔を見て、

「うわ」

 と、顔を紅潮させ仰け反らせた。

「……?」

 きょとんとイリヤが小首をかしげてみせるのと、

「〜〜〜っ! イリヤちゃん、かわいいっ!」

唐突に大河ががばっとイリヤに抱きついたのはほぼ同時だった。

一瞬何がどうなったのかわからなかったのかイリヤはきょとんとしていたが――

「きゃあああっ?! ちょっと、タイガやめな――」

 事態を把握したのか、少女は顔を真っ赤にして騒ぎ出した。

 大河の腕の中からなんとか抜け出そうと、両手をばたつかせて必死にもがく。身をよじり、どうにか抜け出すことには成功して――

「ひゃあっ?!」

 そして、その拍子に足を滑らせた。

慌てて大河が再び彼女の体を抱きとめようと手を伸ばす――が、それはすんでのところで届かなかった。バランスを崩したイリヤの体がゆっくりと後方に倒れていき――そしてぺたりと雪の残る道路の上に尻餅を付いた。

 イリヤはしばらくの間、呆然として雪上に座り込んでいたが、やがて顔をしかめて腰をさすり始めた。

「ったあ……」

「あ、ごめんっ」

 怨嗟のこもった目で見上げると、弾かれたように大河が身をかがめ、手を伸ばした。

 それを視界にいれないよう俯いたまま、険悪に呟くイリヤ。

「……いたい」

 あああ、と大河が顔を引きつらせるのを見ながら、嘆息。

「痛い。」

 拗ねたように口を尖らせながら、イリヤはようやく顔をあげた。大河の手を取って起き上がる。ぱんぱんと服に付いた雪を払い落としながら、澄まして告げる。

「最低よ。全く、レディの扱いがわかってないわ」

「……レディは飛び掛かったりしないんじゃ……」

「む」

 こっそりと愚痴った大河の小言を聞きとめたのか、イリヤは口をますますへの字に曲げた。が、数秒もしないうちに今度はにやりと笑った。いかにもいいことを思いついたと言うような、小悪魔的な笑み――

 まずい、と大河が身をこわばらせるより少し早く。イリヤは大河の背後に回りこむと、ばんざいのポーズをして大河の背中に飛び込んだ。

「そんなこと言ったりするひとには、罰ゲームー!」

 そして、しっかりと大河の首に手を回し、しがみつく。

「イリヤちゃん、重いぃ……」

 ううう、と呻きながらも大河はしっかりとイリヤの腰を両手で支えている。

 あら、とイリヤは目を細めながら大河の耳元で囁いた。ほんの少しの殺気を込めて。 

「タイガ? 今何か言ったかしら?」

 慌ててぶんぶかと首を横に振り、大河は嘆息した。こっそりと呟く。

「……ううう、まるで何だか遠坂さんが帰ってきたみたいだ……」

 が、イリヤはあえてその言葉を聞き流し、元気よく叫んだ。

「ほらタイガ、ゴー! このままシロウの家までいっちゃえー!」

「えええっ?!」

 さすがに顔色を変え、大河は振り返ろうとした。が、その直前にがしりと首をつかまれ、固定させられる。

 イリヤはあくまで前を見据えたまま、もう一度繰り返した。

「ゴー。」

「…………うん………」

 がっくりと頷いて、大河は雪道を進み始めた。

ざく、ざく、と言う音が、誰もいない道に響いていた。

「なんだよ、それで藤ねえあんなにバテてるのか?」

 

 

 

 

 

 

5.

 

 

 

 あきれたような表情を浮かべて、台所から居間を覗き込んでいるのは衛宮士郎だった。ジーンズにトレーナという格好の上にエプロンをしている。左手に卵を入ったボウルを抱え、もう片方の手には菜箸を持っていた。

 その隣にはイリヤが両手を後ろに組んで立っていた。居間の畳の上にへばって寝転んでいる大河をちらりと見て、

「そ。体力ないわよねー。きっともう年なんじゃない?」

「ううう、士郎ー、イリヤちゃんがいじめるよー」

 畳にうつぶせになったまま大河が呻くのを聞いて、シロウは苦笑する。

「イリヤ、ほどほどにな」

「わかってるわよ。――あ、シロウ。これもう持っていっていいの?」

 焼き上がり、皿に盛り付けられた鮭を指差す。

「うん。頼んだ」

言いながら士郎はボウルと菜箸を持って台所へと戻っていく。イリヤは両手にそれぞれ一枚ずつ皿を持ち、ふんふんと鼻歌など歌いながら機嫌よく居間へと進みだした。

「それにしても……」

 と、ちらりと開いたままになっていた襖の奥に目をやる。そこにあるのは、何の変哲もないただの廊下。当然誰もいない。そのことを確認してから、ふん、と首をそっぽに向ける。

「さくら、今日もこないのかしら」

「そうだな、これで二日目だもんな」

 コンロの火を付けながら、士郎は頷く。

「まあでも、そっちの方がシロウを確実に起こせるからいいけどね」

 くすりと笑うイリヤを士郎はたしなめた。

「こら、駄目だろそんなこと言ったら」

「む、お兄ちゃんはそんなこと言う資格なんてないんだから」

「な、なんでさ」

 怯む士郎に、イリヤは詰め寄った。

「だって今日も土蔵だったじゃない。寒いんだからあんな所で寝たら駄目って言ったでしょー?」

「ああ、悪かった悪かった」

 眉根を下げながら、士郎は熱したフライパンの上に溶いた卵を流し込んだ。手早くかき混ぜていくのを見ながら、イリヤはぷいとそっぽを向いて腕を組む。

「言葉に誠意がないわ」

 士郎は困ったようにイリヤを見つめていたが、ボウルを流しに置くと、少女の頭に手を乗せた。

「ごめん。明日から気をつけるよ」

「うんっ」

 ぐりぐりと髪をかきまぜられながら、頷く。

「それならさー」

 欠伸をかみ殺しながら大河が顔を上げた。

「電話してみたら?」

 皿を並べながら振り返ると、士郎はそうだな、と頷いた。

「じゃあイリヤ、俺ちょっと電話してくるから、こっち頼む」

「うんっ」

 フライパンをしっかりと手に持ち──とは言ってもイリヤにできることは文字通り見ることだけなのだが──彼女は真剣な表情で玉子焼きと睨めっこを開始した。

「あ、おいしそう」

 いつの間にか復活したのか、気がつくとすぐ後ろに大河が立っていた。物欲しそうな表情で玉子焼きを凝視している。イリヤは『きっ』と大河を睨みつけると、

「タイガ、つまみぐいなんかさせないわよ」

「だってもう出来てるじゃないのよう」

 あきらめきれないのか、大河がじりじりと間合いを詰めてくる。プレッシャーを肌で感じつつも、イリヤはぷいと横を向いて強気に押した。

「駄目よ。マナー違反なんだから、そんなの」

「えー」

 聞く耳持たない、という様子でにじり寄ってくる大河を目でけん制する。と──

「悪い悪い。またせちゃったな」

 絶妙なタイミングで士郎が台所に戻ってきて、イリヤはふっと気を吐いた。話題を逸らす意味も兼ねて、士郎に聞く。

「どうだったの? さくら」

 士郎は力なく首を横に振った。

「いや、出なかった。こうなるとちょっと心配だよな」

 そう、とぽつりと呟いてイリヤは黙考する。

「病気とか怪我とかしたのかなあ」

 大河が横から口を挟んできたが、士郎はそれにも首を振って見せた。

「でも、連絡くらいあってもいいだろ」

「そうね。まさかいきなり旅行に行っているってわけでもないでしょうし」

「……うん、よし」

 じっと自分の手のひらを見つめながら、士郎が頷いた。二人に、と言うよりはむしろ自分に言い聞かせるように呟く。

「ここにいたってわからないって言うんなら、こっちから行かないとな」

「さくらの家。いくの?」

 質問ではなく、確認の意味を込めてイリヤは士郎をちらりと見た。士郎はこくりと頷いて、

「ああ。だって心配だろ?」

「そうね」

 あっさりと同意する。フライパンから手を離し、士郎に場所を譲った。あ、と言う声に振り向くと、大河が口を手に当てて、しまった、という表情を浮かべていた。

「ごめん。仕事入ってるんだ」

 士郎は笑い、首を静かに振る。

「いや、それはしょうがないだろ。藤ねえは仕事いってきてくれ」

「うん。ありがと、士郎」

 にこっと笑い、すたすたと居間へと歩いていく大河を見送りながら、イリヤはこっそりと息を吐いた。

 士郎は空いた手をイリヤの頭にぽんとのせて、

「よし、じゃあイリヤ。これ食べたら桜の家にいくぞ」

「うん」

 頷いて、外を見る。

 空は相変わらずどんよりと曇っていた。














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