――白銀の雪――
それは、ひとつの光だった。
眩しいほどに明るくはなく、
消えそうな程に儚くはない、
白い、小さな光だった。
セカイは灰色だけで作られていて
すごく、小さくて。
光はその中で、たったひとつだけ、静かに輝いていた。
──綺麗だった。
一面のグレイの中で、白く輝く光がひとつ。
ゆらゆらと揺れて、ふわふわと漂っている。
光――
……雪。
……白い光は、一粒の雪だった。
ひとつ、またひとつ。
白い塊が、灰色の空から降ってくる。
終わりなどあるはずがないと言うように、ずっと、静かに。
音はなかった。
しんと静まり返ったセカイ。
そこにあるのは、何も間違いを許さないほどの静寂のみ。
まるでそんなものは初めからなかったとでも言うように、一切の音がない。
足音も。
風の音も。
雪の落ちる音も。
吐息すらもが聞こえない。
夢だ、と直感的に感じた。
――そう、これは夢。
だって、これが現実だとしたら。
もしそうだとしたら、
……そんなの、寂しすぎるから。
だからこれは夢だ――
そう、思うことにした。
でも、だとしたら。
これは一体、誰の夢なのだろう――
――そう思った直後、視界が歪んだ。
世界が、ゆっくりとぼやけはじめた。
白い光が徐々に広がり――
純白に世界が染まって――
そして何も見えなくなる――
――――……
最後に、何か。
声が、聞こえたような――
――気がして。
そして、そこで目が覚めた。
「……まさか本当に夢だとはね……」
暗闇の中、皮肉っぽさを微塵も隠さない声色で呻いて――少女は半眼で虚ろに笑った。
「……はぁ」
疲れたような嘆息がひとつ。
やがて、しぶしぶと言った様子で少女――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは身を起こした。寝ぼけ眼をぐしぐしとこすりながら、枕元に置いてある時計を確認する――4時23分。
「……はあ」
嘆息、というよりは呆れたような感心したような、そんな声色だった。
まいったなあ、と小さく呟いて、少女は窓の外に視線を移す――
「あ」
イリヤは小さく感嘆の声を上げた。
窓の外――カーテンの隙間から見える景色はまだほの暗く、そして静まり返っていた。静謐という言葉がぴったりくるような冷たい静寂。紺色の空の下で、薄ぼんやりと地面が輝いている。
白と銀の混ざった、淡い光だった。
ふうん、と彼女は顎に指を当てて、感心したように呟く――
「雪、積もったんだ」
1.
しゃっ――
カーテンに手をかけ、一気に引いた。
途端、眩しいとまではいかないまでも、淡い光が部屋の中に差し込んでくる。わずかに目を細めた後、両腕を上に突き出して――、大きく伸び。
「ふぁ……」
欠伸が口から漏れた。それで眠気を思い出したのか、瞳がとろんと翳る。
「ん〜……」
指に髪を絡ませながら、窓の外をぼんやりと眺める。
どさっ、と重い音が響いた。
屋根に積もった雪が地面に落ちた音だった。
音のした方向にちらりと視線を送ってから、イリヤは再び時計を見た。かちり。長針が5の数字を指し示す。
「……うーん……仕方ないかぁ……」
面倒くさそうに呟きながらのろのろと、ズレていた掛け布団の位置を修正し始める。
――銀色の髪を腰の辺りまで伸ばした小柄な少女だった。幼さの目立つ顔立ちの中、真紅の大きな瞳が年に似合わない理知的な輝きを放っている。雪のように白い肌──ややサイズの大きめの水色のパジャマの裾から覗くのは、細くすらりとした指。
布団と毛布がぴったりと重なると、少女は満足そうに大きく頷いて再びその中にもぐりこんだ。全くもう、とぶつぶつと呟きながら、枕に頭を押し付け、頭の位置を固定してから目を閉じる。
「ん……」
煩わそうに顔をしかめながら、寝返りをうった。
しばらくしてから、今度は反対側に。
そしてその二分後、三度目の寝返りをうったところで彼女は眠るのをあきらめたようだった。根負けしたように嘆息し、むくりと身を起こす。不機嫌丸出しに眉をしかめ、右手でこめかみをこすった。さらにもう一度大きく嘆息してから――少女はしぶしぶと言った表情で布団から抜け出した。
嘆息をまた一つ。猫背で、頼りない足取りのままのろのろと壁際まで歩いていく。スイッチを手で探り当てて電気をつけた。ぱぱっと蛍光灯が数度明滅し、その一瞬の後、乱暴なまでに強い白色光が部屋の闇を裂いて照らし出した。
暗さに慣れた目にはきついものだったのか、イリヤは煩わしそうにますます目を細めた。
部屋は純和風の作りだった。8畳ほどのスペースの中には、机と箪笥と本棚、そして布団が置かれている。布団のすぐ横には彼女のものにしてはサイズの大きなスリッパがきちんと揃えてあり、部屋の隅にはイリヤの背丈ほどもある大きなウサギの人形――士郎に買ってもらったものだ――が鎮座していた。
――藤村の屋敷の中の、イリヤに与えられた部屋である。
――聖杯戦争が終わってから、彼女はこの屋敷に居候していた。
「もう。目が覚めちゃったじゃないっ」
誰に言うでもなく呟きながら、イリヤは面倒くさそうにしながらも再び身を起こした。スリッパをつっかけ、畳の上に放り出してあったカーディガンを羽織る――これで完全武装。
襖を開けると廊下に出た。そこも電気がついていないために暗かったが、完全に真っ暗という訳ではない。居間から漏れる明かりがわずかに床を照らしていたためにある程度の視界はきく。
ふらふらと、光に誘われるように足を進める。襖の前まで来るとそっと足を止めてから──用心深く襖の隙間から居間の中を覗き込んだ。
「あ……タイガったらもう起きてるんだ」
ふうん、と唇に指の先を当て、呟く。居間では藤村大河が一人だらしなくごろりと横になって、テレビを見ていた。
「……違うわね。寝てるわ、あれ」
半眼で呻くとイリヤは襖に手をかけ、力いっぱい横に引いた。ばんっ、という音とほぼ同時にタイガの体がびくんと跳ねた。期待通りの反応に少女の口元が小さく歪む。大河は慌てた様子できょろきょろと周囲を見渡し、そこでようやくイリヤの存在に気づいたようだった。口をぽかんと開け、間抜けな表情でイリヤに視線を送っている。
「は、あれ……?」
ぼんやりと呟く大河に、イリヤは横柄な態度を崩さないまま、意地の悪い笑みを浮かべて近づいていった。にいっ、と見下ろしながら、噛み含めるようにして尋ねる。
「――おはようタイガ。いい夢は見られたかしら?」
「えー……と」
そこまで言われてようやく――大河は自分の置かれている状況がわかったようだった。わたわたと身を起こそうとして――
「うわっ!?」
その際に手を傍に置いてあった煎餅の皿に引っ掛け、盛大に中身を床にぶちまけた。イリヤの視線がますます冷たくなる。それでも大河は半泣きになりながらも煎餅をかき集め、なんとか再び皿の中に戻し、そして取り繕うように正座した。
『…………』
イリヤはその一連の様子をぼんやりと眺めていた。何も言わずに、半眼で。
「…………」
「…………」
沈黙が続く。
イリヤは静かな、そして底冷えのする視線を保ったまま何も言わない。
微動だにしないイリヤとは対照的に、大河の表情は次第に引きつってきている。
額に脂汗がじっとりと浮かんできた頃、静寂を切り裂くように、テレビがぴーんと音を立てた。おはようございます、と無意味なほどに爽やかな声が聞こえてくる。
「……寝てたの?」
小さくぽつりとイリヤが聞くと、
「…………うん」
大河はがっくりと首をうな垂れた。
イリヤは嘆息しながら彼女の傍によると、ちょこんと正座した。
「もう、風邪ひいちゃうよ?」
大河は腰に手を当てると、ふふーんと自慢げに、
「大丈夫。風邪なんてめったにひかないもんねー」
「そうね。貴女、莫迦だものね」
テレビから視線を外さないまま、退屈そうにしてさらりと告げる。
ぴしりと大河が凍りついた。
イリヤは全く気にした様子もなく、つまらないわね、と呟きながらチャンネルを数度切り替えていたが――、やがてあきらめたのか、チャンネルをソファの上に放り投げると、意味ありげに息を吐いた。
ううう、と呻いたまま反論出来ずにいる大河に、彼女はさらに言葉を続けた。
「……ライガに言おうかしら」
からかうように、言葉を投げかける。
「お、おじいさまには言わないでっ!」
「さあ、どうしようかしら?」
くすくすと笑いながら、人差し指を唇に当てて思案する。さらに何か言おうとイリヤが口を開いたところで、居間に置かれている電話がけたたましい音を立てて鳴り響いた。 助かったと言わんばかりにほっと息を吐き出しながら大河が慌てて立ち上がり、電話を取りに向かう。話の腰を折られ、イリヤは少しむっとしたように電話を睨みつけていたが、
「……もう、こんな早朝にかけるなんて、非常識もいいとこよね」
それきり興味を失ったのか、イリヤはテレビに視線を戻すと適当にチャンネルを切り替え始めた。
「はい、藤村――え?」
大河は言葉を区切ると、間の抜けた声をあげた。それからちらりとイリヤを横目で見た。イリヤもまたそれに気づいたらしく、眉をぴくりと動かした。
「え? あ、ああ。……うん。うん……え? あ、ちょっと待ってね。今そこにいるから。――イリヤちゃーん」
電話口を手で押さえて、大河は呼びかけた。
イリヤは不審そうな表情のまま、素直に傍に歩いていった。
「……誰?」
小声で聞くと、
「――遠坂さん、だと思う」
同じく小声で、ひどく曖昧な返事を大河は返した。
「……思う?」
首をかしげながらも、わかった、とイリヤは電話を受け取った。受話器に目を落とし、耳に当てようとしてから、それからやや申し訳なさそうに上目遣いで大河に視線を向けた。
「じゃあタイガ、悪いけど」
「あ、うん。顔でも洗ってくるね」
曖昧な笑顔を浮かべて、そそくさと大河が居間から退散する――
それを見届けてから、イリヤは居心地悪そうに息を吐いた。再びまじまじと受話器を見詰める。
もう一度ゆっくりと息を吐き出し、イリヤは受話器を耳に当てた。少しトーンを上げて外行きの声を作り上げ、笑顔を浮かべて。
「――もしもし、リン?」
『あ……、リヤ?』
聞こえてきた声はやけに遠く、そして雑音まみれだった。イリヤは一瞬眉をしかめると耳を受話器にぴたりと付け直した。慎重に頷く。
「うん、そう」
『ごめ――ちょ…………ぁぁ、もうっ!』
やけに語尾だけが大きく響いた。受話器から耳を咄嗟に離し、さらに眉をしかめる。文句のひとつも言ってやろうと声を硬くして、とげとげしく告げる。
「ちょっと、リン?」
だが、その後に聞こえてきたのはますます大きくなってきている雑音だけだった。受話器の向こう側には聞こえないようにこっそりと嘆息してから、イリヤは辛抱強くもう一度リン、と呼びかけた。反応はなかった。さらにもう一度、先程よりも大声で呼びかける――と、雑音の隙間からようやく凛の声らしきものが聞こえてきた。
『え、あ……まちなさ――』
そして。
その言葉を最後に電話は切れた。
ツー、ツーという音がやけに空しく響き渡る。
「……こっちが待って欲しいんだけど……」
怒ることも忘れ、イリヤはぼんやりとそう呻いた。
さて、どうしたものか――と思案し、とりあえず受話器を元に戻す。
「……さむっ」
手を擦り合わせてから、息を両手に吹きかけた。
──電話は鳴らない。
「……え、まさか本当にあれで終わり?」
取り残されたような呻き声が、しんとした廊下に響く。
そのままぼんやりと電話の傍に立っていたが、2分ほど経っても電話はかかってこなかった。
肩をすくめてイリヤがその場から離れようとすると、
「あれ、もう終わったの?」
手にタオルを持った大河が廊下から歩いてきて、不思議そうにイリヤと電話に視線を送った。
「うん、結構前にね。なんか勝手に切れちゃった」
「ふーん」
まあいいわ、とイリヤは髪をかきあげ、部屋に戻り出す。
「それよりタイガ、早く支度していきましょ?」
「え、もう?」
ぎょっとして大河が聞いてくるが、イリヤはしれっと言い切った。
「だってわたし、もう目覚めちゃったもの」
すたすたと歩き、大河を追い越して数歩進んだところでイリヤは振り返った。びしりと指を突きつけ、
「と・いうわけで準備は30分以内。それを過ぎたら容赦なく置いてってご飯なんか全部食べつくしてあげるんだから」
「な、何でええっ?!」
慌ててばたばたと足音を立てて大河が洗面所へと引っ込む――
イリヤはその様子を見てから、もう一度だけ電話に視線を移した。
やはり電話は沈黙を保ったままだった。
「……何だったのよ、もう」
吐き捨てるように呟いてから、イリヤは歩き始めた。
2.
「――ちょっとイリヤ、本気なの?」
……その声は、不安と、猜疑と、心配と、動揺と。
色々な感情が絡まりあっているもので。
「ええ、そうよ。本気だわ」
わたしは出来るだけ平静を装ってあっさりと頷くと、紅茶を口に含む。出来たてのはずの紅茶は少しぬるくて、ひどくまずい。一体どんな淹れ方をしたのだか。
「治療はもういらないって……」
呆然と呟くリンを尻目に、また一口。
……うーん、やっぱりシロウの淹れたやつじゃないとだめだ。
シロウの家の、離れ。ここはわたしとリンの特別室。とはいっても、実は特別な秘密があるわけでもなんでもない。ただ単に、ここで治療をしているから、シロウは入っちゃ駄目だよってだけだった。
――治療。そう、治療だ。
目の前に座ったリンは、納得がいかないのか、なおも渋ったように腕を組んで唸っている。
――聖杯戦争が終わってからも、わたしは故郷には戻らず、この地にとどまっていた。シロウやリンに興味があったし、正直ここでの生活も悪くはないと感じていたからだ。
――まあ、一番の理由は──、いえ、やめておこう。
「でも、何があるかわからないんだから。定期的にチェックするのは必要でしょ?」
「そうね。確かにそうかもしれない。けど──だからってリン、貴女が時間を犠牲にしてまでやることではないでしょう?」
……わたしの事を語るには、根源まで遡る必要がある。
そもそもわたしは人間ではない。
人間とホムンクルスの間に生まれたモノ。それがわたし──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。
まあ、見ただけではそんなコトはわからないしどうでもいい。
ただ、問題が一つあった。
機能を聖杯戦争のために調整されたこの体は、目的を失った状態である。それが追う言うことなのか──あまり考えたくはないことだけれど。
だから、ある程度覚悟をしていたこちらとしては、だから実はすごく拍子抜けしてしまう。
―─まあ、今回の聖杯戦争自体が普通ではなかったし、それならこういうこともあるのかもしれない――それが、わたしとリンが下した結論だった。ただのイレギュラーか、それとも何か意味があるのか。そんなことは、それこそ神のみが知るという所だろう。でも多分、この奇跡はそんなに長く続かない。そのうちきっと、あらかじめ定められた運命の通りになるだろう。それは予想でもなんでもなく、ただの確信だった。
一年か、それとも一日か。一体どのくらいまで生きれるのかがわからないと言うのは、なんだか……逆に怖い。
……最も、これが普通の人間の在り方なのだ。それを思うと、つくづくわたしという存在は違うのだと言うことを思い知らされる。
結果の見えない中、それでもなんとか解析しようと、リンはよくやってくれていた。本当に彼女には頭が上がらない。うん、今日のおかずは彼女に少しおまけしてあげなくちゃ。
――でも……
「でもね、リン。本当にもういいから」
かちゃっ。
カップを置き、わたしは眼を閉じ、静かにそっと告げた。自分の胸に手を当てる。
「……まさか貴女。死ぬなんて言うつもりじゃないでしょうね……」
こわばった表情で――リン。
「まさか。そこまで愚かじゃないわ、わたし」
わたしは苦笑した。
「――うん、そうよね」
ほっとしたように、リンが肩を下ろす。そこにすかさず口を挟みこむ。
「でも、やっぱり治療はもういいから」
その言葉に、再びリンが体を硬直させて、わたしを睨みつける――
「イリヤ。……確かにわたしじゃ力不足かもしれないけど」
リンはなおも食い下がったが、わたしは首を横に振ってみせる。
「そうじゃない。そうじゃないのよ、リン」
そして、そっと視線を手にしたカップに落とす。わずかに揺れ、波紋を浮かび上がらせている赤い液体。それをじっと見ながら、続ける。
「なにかあるかもしれない──なんて理由でこれ以上あなた留めておきたくないの。 うん、きっとなるようになる。だって──これは、もうどうしようもないことだから」
だから、しょうがないんだよ――と。
そう、繰り返した。
リンはそれでも口を開こうとしていたけれど、それを防ぐようにさらに続けた。
「もう、わたしのためにリンが我慢することなんてないのよ」
リンは素早くそれを否定してくる。
「違う。わたしがしたいからしてるのよ」
「リン」
「その体が駄目なら駄目で、まだ方法がないわけじゃ――」
「……リン」
静かな、それでいて一切を拒絶する冷徹な声。
……それでリンは言葉を失ったようだった。
頭のいい彼女のことだ。わたしの覚悟に気づいてくれたんだろう。
――うん、それでいい。
「それにね、リン」
そうして、わたしはあっけらかんと笑った。
「――わたし、別に消えることなんて、怖くないんだから」