Wish / a piece of memories

















prologue



目の前ではじける赤。じくじくと侵食するように視界を染め、脳髄をしびれさせていく。ひどくゆっくりと、しかしどうしようもない程に強く強く瞳に焼き付いていくソレは、一言で言えば冗談のような光景だった。

 初めの一瞬、何が起こったのかが理解出来なかった。次の一瞬、脳のどこかが勝手に状況を分析し、事態を把握。そしてさらに次の一瞬で、

「────嘘だ」

 そう呟いたつもりだった。だが声は出ていなかった。乾ききった口の中がひどく熱い。擦れた声は喉の奥に張り付いたまま零れ出ようともしない。瞼を閉じることも、眼球を移動させることも出来ない──もどかしい。動くことの適わない中、目から入る情報が淡々と意識へと送られてきている。

 赤。赤。赤──視界いっぱいに広がったその光景は、少なくとも美しくはあった。飛沫が宙を舞い、踊るように広がる。

そして拡散した塊は急速にその力を失い、地面へと吸い困れるように落ちていき──

 

 ──────ばしゃんっ……

 

液体にしてはやけに鈍重な響きで、ようやく我に返った。

 ──彼は絶叫した。












第1章 bloody howling










振り続ける雨は一向に止む気配はなく、苛立たせるような鋭い風もまた。一時間程前から降り始めた雨は今や土砂降りになっていた。これほどのスコールは珍しい──大粒の雨が窓ガラスを叩くのを眺めながら、彼女は嘆息混じりにこつんと手にしたペンを額に押しあてた。

「……なるほど、ではつまり、こちらにも顔は出していないと」

 ぼんやりとそう呟き視線を正面へと戻せば、そこには豪奢な調度品に囲まれ、一人の女性がソファーへと腰掛けたおやかにカップを傾けている。

 柔らかそうな手入れの行き届いた金髪に、青を基調としたシンプルなドレス。自分が着ているものもそれ相応の値がするが、それでもあの服には十積み上げても届かないのだろう。

物腰の端々から感じられる気品は、恐らく幼少の頃から積み上げてきたものの表れ。裏付けされた自信が滲みだしているのには苦笑せざるを得ないが。年は恐らく自分よりも数歳下。まあしかし女性の年齢ほどに宛てにならないものはないとつい先日改めて実感してきたのではあるが──。

ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。時計塔に所属する魔術師。そして、遠坂凛の知り合い──友人ではないらしい──であり、衛宮士郎の友人兼主人。主人と言うのがよく意味がわからなかったのだが。

「ええ、そうですわね。全く、今頃何をしているのやら……」

 館の持ち主はそう零して瞼を落とし首を振った。声には僅か、寂しさのようなものがこもっているように聞こえた。

「貴女の──」

 ボールペン──日本にいた時に買ったどこにでも売っている安物だが、彼女はこれをひどく気にいっていた──を持ち直し、さっと手を振りながら訊ねた。

「──いえ、これは仕事とはあまり関係ないのですが。その──貴女の目から見た二人と言うのは一体どのような……?」

 その言葉で、ルヴィアゼリッタはぴたりと動きを止めた。カップをやや乱雑にティーソースへと置き、半眼で唸る。

「……いい度胸ですわね。それを(ワタクシ)に聞くのですか……?」

「──?」

 言っている意味がわからず、きょとんとして首をかしげた。その様子を眺めて、ルヴィアゼリッタはひどく疲れたような嘆息をついた。

「はぁ……。いえ、こちらの話です」

「は、はあ」

 よく意味がわからない。曖昧に頷いておく。

こちらの動揺を余所に、そうですわね──とルヴィアゼリッタはしばらく思案してから、ふうと鼻から息を吐いて告げた。

「……お似合いの、二人。何と言うか……ええ、そうですわね。それしか思い浮かばないですわ」

 やれやれ、と肩を竦めている。

「……成程」

 とん──とペンの頭を叩き、メモ帳のページをめくる。さてどう書いたものか──少しばかり思案してから、ページを再び数枚戻す。指で文字を辿り、ルヴィアゼリッタという名前で動きを止めた。

関係の欄。『あまり仲は良くなかった?』と言う箇所を二重線で消そうとして──踏みとどまる。結局消すことはせずに、その上に小さく『しかし良き理解者』と付け加えるにとどめた。

 顔を上げると、ルヴィアゼリッタの視線はこちらではなくそのさらに奥をぼんやりと見つめているようだった。

ふと振り返って見れば、そこにあるのは窓ガラス。奥では水が大きく跳ね、揺れている地面。視界の効かない道の奥。薄く白くたゆたう景色。

 何の変哲もない、ごく風景──のはずなのだが。

「……? どうか、しましたか?」

問いかけに、ルヴィアゼリッタはびくりと体を揺らした。咳ばらいとともに、さりげなく視線をこちらへと向ける。

「いえ、失礼。ただ──そう言えば、もうそんな年が過ぎたのかと思って……少し驚いてしまって。……ええ、そう。懐かしいだなんて──」

 物憂げな眼差しが、また自分をすり抜けた。そのことに気づきはしたが態度には現さず、ただ肩を竦めて見せる。

「光陰矢のごとし、ですよ」

 その言葉にルヴィアゼリッタは僅かに眉を潜めてソファーへと身を沈めた。皮肉げに口元を歪める。

「ふん──貴女も随分日本かぶれになったものですのね?」

「いえいえ。日本のものとわかる貴女も相当のものかと」

「──っ」

 即座に言い返されたためか、苦々しげに唇を噛みしめている。

 さっと手を振り、彼女は話題を切り換えにきた。

「それで。そちらはどの程度まで掴んでいるんですの?」

 ふむ、と顎に手を当てて少し考え込む。頭の中で情報を整理し──、目を開き、そして肩を竦める。

「正直さっぱりですね。ただ、それらしい目撃例は数件ほど耳にはさんでいますので、ひとまずはそれを便りにしらみつぶし──と言ったところですか。まあ効率はかなり悪いとは思いますがね、しかしまあそれしか方法がないのも確かなので──」

「──……そうですか」

 視線を下へと落としたルヴィアゼリッタに、尋ねる。

「? どうしました?」

「いえ、別に。──ああ、そうですわね、少々お待ちになって下さい?」

 一方的にそう言い切り、彼女はさっと席を立ち部屋から出て行った。その一連の様子をぼんやりと眺め、やれやれと何度目かもわからない嘆息をつく。

「正直、順調とは言い難い、か……」

 振り返り、窓の外を眺める。

 雨は降り続いている。

 そっとガラスに右手で触れる。なんとはなしにそのまま下へとずらしていく。薄く白く曇っていた景色に一本、透明の線が入る。

「雨、か……」

「──あら、どうかしたのですか?」

 背後からの声で振り返ると、ルヴィアゼリッタが戻ってきていた。手には何か、紙のようなものを持っているようだが──。

「──こちらを」

 言いつつ彼女は右手を差し出してきた。紙は小切手のようだった。眉を潜めつつも目を通していく──

「小切手、ですか? しかしこの額はまた……」

 どう反応したものかわからない。ただぽかんと口を開けていると、ルヴィアゼリッタは髪をかきあげ、凄味のある笑みを浮かべて見せた。

(ワタクシ)からも依頼させていただきますわ。必ず二人を見つけてきてくださいな。手段は問いません──それこそ首に縄をかけてでも連れて来てくださるかしら?」

 その言葉に、思わず口がほころぶ──。

「ああ、そうか──」

「……? どうしました?」

 思わず口から出ていた独り言は思っていたよりも大きなものだったらしい。見れば前方から不審な眼差しが飛んできている。慌てて手を振り、説明する。

「ああいえ、実はもう一人の依頼主からも同じようなことを言われていましてね。いや、全くあの二人は人気者と言うか何というか……」

 今度はルヴィアゼリッタが曖昧な笑みを浮かべる番だった。

「……そう、ですわね」

 二人して、眉根を下げる。

 頃合いだろう──素早く判断して、彼女は足を持ち上げた。半身だけ残したまま、告げる。

「……では私はそろそろ行きます。ご協力感謝します、ミス・エーデルフェルト」

「随分と慌ただしいのですね。一泊していけばいいでしょうに。部屋くらいなら用意しますわよ? 雨があがるまででも待っていけば──」

 腰に手を添え呆れたように呻くルヴィアゼリッタに手を振って、

「いえ。大丈夫です。それにこれ以上ここにいても情報はないでしょうし、時間がもったいない。何しろ、非効率的な手段を取らざるをえないのですから。時間はいくらあっても足りませんのでね」

 言って、扉に手をかける。

背後で肩を竦める気配がした。

「全く、変に頑固ですこと。──まあいいです。止めはしませんわ」

「ええ。それではまた。ミス・エーデルフェルト」 

 頷き、ドアノブに手をかける。

 そこに、先ほどよりも低い声色で、呼び止められた。

「──それと。言うまでもないと思いますけれど、その中には保険と言う意味合いも含まれています。貴女の腕を信用しないわけではないですが───いえ、見くびってるわけではないんですのよ? ただ、あの二人──特に彼の力は……」

「御心配なく」

 言いつつ、振り返ることなく、左手をかざしてみせる。

 ──黒の皮手袋に覆われた、義手。

「腕には多少、自信がありますので」

 そう言って──バゼット・フラガ・マクレミッツは静かにドアノブを押した。












 

 

 

 

──2か月後。中東南部の辺境地帯──

 

 

 

空港からバスで4時間。そこから車で丸2日ほど走ったところに小さな村がある。平原の端、森に程近い場所。どう考えても暮らすのに適しない位置にあるため、周囲には他の村や集落は存在しない。紛争から逃れた者たちが集まり、それが自然と村のような形になっていたらしい。歴史などないに等しく、名前すら存在しない、小さな村──

そこに、バゼットはやってきていた。

「ふむ──」

 エンジンを切り、ジープの運転席に座ったまま、手元の資料を確認するために彼女は車の室内灯を点灯させた。

「……もうこんな時間か」

車に設置されているデジタル式の時計を見る。22時15分。

村から少し離れた森の影にジープは停まっていた。木々の隙間から観察する限り、すでに村は寝静まっているようで、しんとしている。

「……困ったな。車で寝てもいいのだけれど……ホテルなんか、なさそうな……」

 明かりが灯っているところもあるが、村の大部分は黒く染まっているようだ。

先日立ち寄った街で衛宮士郎に関する噂を聞き、それを追ってここまでやってきたわけだが──

「しかし、本当にこんな所に……?」

  紙をめくる。目撃証言は複数あるから、全くのでまかせと言う訳でもないのだろうが──

「……まあ、実際行ってみたほうが早いか」

 あきらめにも似た呟き。

彼女は髪をくしゃりとかきまぜてから顔を上げた。低い天井がすぐ目の前にある。息苦しさを覚えてドアを開けた。 瞬間、外気が流れ込んでくる──やけに湿気ていて、蒸し暑い。

「……雨、降りそうですね」

 車から降り、顔をしかめつつ空を見上げるが、そこにあるのは黒々とした夜空が広がるのみ。

 この辺りは星が綺麗と聞いていたのだが、そう言えば今日は一日中曇り空だった。少しばかり心残りを抱え、ドアを後ろ手に閉めて嘆息と共に歩きだす。

正直、そこまで期待してこの村にやってきたわけではなかった──当たりを引けば儲け、その程度の間隔。

期待は持たない。外れを引くのには慣れていた──ここ二か月、全て空振り。さすがにそろそろくじけそうにもなってきてしまう。

 世界中から、噂だけを頼りに人を一人探し出す。

 ばかげた話だ──おおよそ現実的とは言えない。

 彼女たちから依頼をされた時、少なくとも大変な旅になるのだろうとは覚悟していたが、まさかここまでとは。

 救いようがまだあるのは、彼の行くであろう国があらかじめ絞れていたことだった。話を聞く限りでの彼の性格を考慮にいれ、その上でイギリスからのルートを推測する。大雑把ではあるが、それで少なくとも方向性はわかった。

 さらに言えば、彼の名前はある程度の知名度を持っていた。バゼットが目星をつけた国の町の適当な酒場にでも顔を出して尋ねれば大体答えは返ってきた──『エミヤ? ああ、あの赤い剣使いか?』

 ──わかったこと。衛宮士郎は確かに正義の味方だった。いい意味でも、悪い意味でも。

実際、彼の名は広く知れ渡っている。エミヤ。舞者(ソード・ダンサー)。やさしいひと。正義の味方。制裁者。時には皮肉を込めて“足掻く者”と呼ばれる事もある。

 凛の名前は驚くほどに出てこなかった──そう言えば連れがいたな、その程度の認識である。時計塔での彼女の成績や成果を考えれば、恐らくはあえて彼女は裏方に徹していたのだろう。

 ともあれ評判は悪くはない──手放しで称賛されていると言う訳でもないが。ある程度の力をもった魔術士が二人いるのならば、まあこんなもの(・・・・・)だろう──それが彼女の下した評価である。

「まあしかし──実際に目で見ないことにはなんとも言えない、か。それにしても、そろそろ当たりを引いてもよさそうな──」

 ぶつぶつと呟き、顎に手を当てながら村の入り口──と言っても明確な境界線など何もないのだが──へと踏み込んだ。と。

「……ん?」

 見れば、村から少し離れたところに車がもう一台とまっている。飾り気の何もない古びたジープだ。 この暗さの中で、しかも目立たない場所にひっそりと停めてあるためにさっきは気づかなかったようだ。

「車か。一応他の地域と交流くらいはあるのでしょうか……」

呟きつつ、ざっと見渡してみる──灯りが少ないためにはっきりとはわからないが。

何の変哲のない、小さな村のようだ。世帯数は100くらいだろうか? ろくな建築士も大工もいないのだろう、建造物はどこかしら歪だった。当然道も舗装されていない。

 視線を感じて振り返れば、道行くひとが一人、二人。物珍しそうな視線を送ってきている。

 行きかう人の数がかなり少ないようだが、まあ辺境の村である。そもそも夜に出歩く習慣はあまりないのかもしれない。

(だとすれば……てっとり早く聞くのが一番ですね)

 少しいいですか、と村人に笑顔を浮かべながら近寄っていく。外から人が来るのに慣れていないのか、まだ十歳くらいの少女はびくりと身を震わせた。

「な、なに……?」

 身をかがめ、少女の目線に合わせてから、優しく訪ねる。

「すいません。私、村の外から来たのですが、この村にホテルはありますか?」

「ホテル……?」

 ぼんやりと、聞き返してくる。

「え、ええ。泊まる所を探しているのです。どこか知りませんか?」

「……知らない」

 返答はそっけなかった。

「う……」

 少しばかりくじけそうになる──が、バゼットはさらに問いかけた。

「で、ではもう一ついいですか? 実は私、人を探しているのです。すいませんが、シロウ・エミヤと言う人物を知りませんか?」

「エミヤ……?」

 少女はその単語を呟くと、びくりと身を震わせた。

(この反応──知っている……!?)

 内心で、歓声をあげる──ここが当たりなのだろうか。

「エミヤは……」

「──アリエス!」

 ふいに背後から声がかかった。振り返れば、30歳程の中肉中背の男が近寄ってきているところだった。この少女の父親だろう。

「全くこんな夜中に──おいアンタ、何なんだ? うちの娘に何か用か!?」

「ああ、失礼。お子様ですか? 私は怪しいものではなくてですね……そうそう、すいませんがこの村にホテルはありませんか? 泊まる所を探しているのですが……」

 なんだ、と男はこわばっていた表情を緩めた。面倒くさそうに、道を奥を指し示す。

「……この道を真っすぐ行ったところに食堂がある。そこで宿の真似事をやっている。看板が出てるからすぐにわかるだろうさ」

「そうですか。ありがとうございます。助かりました」

 真似事と言うのがひっかるが、ひとまず頭を下げ──そうだ、とさらに訪ねる。

「質問ついでにもう一ついいですか? 実は私、人を探しているのですが……」

「人だぁ?」

 不審の眼差しを向けてくる男。

 少女は素早く父親の元に駆け寄ると、くいくいとズボンの裾を引っ張って、

「パパ、この人、エミヤを知らないかって」

「エミヤ……? アンタ、エミヤの知り合いなのか」

 眉をしかめ、疑惑の表情を隠しもせずに訪ねてくる。

 バゼットは首を横に振った。

「厳密には知り合いではありません。依頼されて彼を探しているのです──面識はほとんどありません」

「ふん、どうだかな……」

 今度は舌打ち。

「それより、本当にここに衛宮士郎はいるのですか──?」

 勢い込んで尋ねると、男は苦々しく頷いた。

「……アイツなら村の端の赤い屋根の家に住んでいる。まあ……最も、ふらふらうろついてるから、いない方が多いみたいだがな」

「……よしっ!」

 ぐっ、と拳を握り締める。

(やっと見つけた……当たりだ、間違いない……!)

 こちらをやけに冷めた視線で眺めながら、男はふいに口を開いた。

「なんだ。アンタもあいつに依頼しにきたのか? だとしたら無駄足だぜ──あいつはもう、人助けはやってねえ」

「な……!? そんな莫迦な──彼は正義の味方でしょう!?」

 思わず一歩踏み出して問い詰める──その勢いに押されたのか、男は体を引いた。皮肉げな苦笑とともに、肩を竦めてはっと息を吐く。

「正義の味方だぁ?……そうだな。昔はそれっぽいこともやっていたが……最近はアイツ、なんて呼ばれてるか知ってるか?」

「さ、さあ……」

 戸惑うこちらを嘲笑うように男は口を歪めると、

血まみれの復讐者(ブラッディ・アベンジャー)、だ」






 

 

 

 

「おかしい……どうも、事前に聞いてきている情報と食い違う点が多すぎる気がするのですが……」

 腕組みをしながら、バゼットは夜道を歩き続ける。

 宿へ向かう前に、ひとまず男の言っていた衛宮士郎の屋敷へと向かおうとしているのだが──

「赤い屋根……ああ、あれですか」

 視界の端に、色褪せた赤の屋根の家が飛び込んできた。思わず駆け寄り、観察する──この家に限らず、村にある屋敷の全ては一階建てだった。家は他のものと大した違いはない──屋根の色くらいだ。大した大きさもない木造の家は、明かりも灯っておらず静まり返っているように見える──人気はない。

無造作に近寄る。扉に手を伸ばす。

その横の地面から木の棒が生えていた。

「……? 何でしょう、これは」

 途中から折れでもしたのだろうか。棒の先端はささくれだっていた。

 ノッカーがなかったので、数回扉を直接叩いた。

 返答はない。

「衛宮。ミスタ・衛宮?」

 さらに強めに扉を叩く──が、やはり応答はない。

「……留守でしょうか」

 ドアノブに手をかけるが、鍵がかかっていた。

 バゼットはそのまま壁に沿って歩きだした。

窓があるが、カーテンが閉まっている。当然鍵もかかっている。明かりもついていない。──人がいる気配がしない。

「どうやら本当に留守のようですね……」

 ふむ、と顎に手を当てる。

「な、なあ、あんた──」

 と。背後から声がふいにかかった。

「────っ!?」

 慌てて背後を振り返り、わたわたと手を振り弁明する。

「ちっ、違うのです! これはその、誰かいないのかと調べていただけであって、泥棒とかそう言う者では──」

「あ、ああ。そうなのか……」

 一応声の主は信じてくれたらしい。

 改めて声をかけてきた男を観察する──年の頃は40台半ばと言ったところだろうか。古ぼけたジーンズに、白のシャツと至ってシンプルな格好である。大柄な体躯に不精髭が生えているが、似合ってもいる。男は少しばかり困ったように眉根を下げて、

「アンタ、エミヤの知り合いかい……?」

「……貴方は?」

 その質問には答えずに、バゼットは慎重に訪ねた。

 ん? と男は瞬きすると、ああ、と頷いた。斜め前の家を指差して、

「俺はその──あれだ。ザットって言ってな。そこで雑貨屋やってるんだけどよ。その──」

 妙に歯切れの悪い口調で、尋ねてくる。

「エミヤの昔の……友達かなんかか?」

「トモダチ? いえ──違いますが? 私は単に彼の捜索に当たっているものです。バゼットと言います」

 言いつつ、右手を差し出す。男──ザットはそれを握り返しながら、ほっとしたような表情を浮かべた。

「そうかい……」

「ところでザットさん。シロウ・エミヤは──? 見た所留守のようですが……」

 ちらり、と静まり返った家へと視線を送る。

 ぎゅっ──

 右手に、力がこもった。

 思わず顔を戻すと、ザットは俯いたまま、

「……お願いだ」 

呟きつつ、顔をあげる。

悲愴。憐憫。後悔。

複雑な色を湛えた表情で、ザットはバゼットの目をしっかりと見つめ、告げる──

「エミヤを……元に、戻してやってくれ」

「……え?」

 それはどう言う意味なのか──

 それを問いただそうとした刹那、

「きゃああああああああっ!?」

 ──悲鳴が、響き渡った。






 

 

 

 

「こっちか──!?」

 悲鳴が聞こえた方へと、慌てて向かう──

 ふと振り返れば、ザットは先ほどの所に立ちつくしたままだった。力なくかぶりを振っている。

「……?」

 疑問に思うが、ひとまずこちらの方が優先度が高いだろう。村の作りなど全くもって把握していないので、ただあてずっぽうに走っているだけだが、そうも広くないところだ。大した時間を食うわけでもなく、彼女はあっさりと現場と思われる場所に到着した。

 ──そこには、暗闇の中、一人の男が右肩を押さえて転がっていた。服が赤く染まっている──出血しているようだ。舌打ちしつつも身を起こそうとしていることから、重症というわけではなさそうだ。

 騒ぎを聞きつけたのか、周辺の家には明かりがつき始めている。人も集まって来ていた。

「これは……?」

 状況がつかめない。バゼットはさらに周囲を見渡し──そして、ぴたりと動きを止めた。

 ──それは、奇妙な一振りの剣だった。

 黒と白で構成された短めの刃が、血を滴らせながら曇り空の闇の中鈍く輝いている。

 握っているのは、男だった。

 長身。自分も女にしてみれば背丈はあるほうだが、それよりも恐らく高いだろう。

 暗闇の中、赤い奇妙な外套が嫌にでも目にとまる。おおよそ実用的とは言い難い形状のそれは、濁った血と同じ色。

 首からは、こちらもやはり赤のペンダントを提げている。

 年はよくわからない──20台後半か、30台くらいだろうか。

焼けた肌に、短く白い髪。

 村人の質素な格好の中で、男の姿は明らかに浮いていた。

 何より印象的なのは、その目──

 どこかぼんやりと、しかし鋭く低く──濁っている。

「不法侵入が罪になることは知っているな……?」 

 低い声だった。感情が剝がれている、と言うのが第一印象だった。

「う、うるせえ! なんなんだてめえ、いきなり切りつけやがって──」

 切りつけられた男は、負傷した肩を押さえつつも、じりじりと後ずさり始めた。

 明らかな暴行現場だと言うのに、村人は誰一人として止めようとはしていない。今の言葉が正しいとするのならば、切りつけられた男は不法侵入者なのだろうか? だとすれば、剣を手にした男には非はなく、むしろ治安を維持する立場にあることになる──が、それにしては村人たちの纏う雰囲気は微妙にぎこちない。どこか一歩引いているような──そんな感覚。

「……すいません、あの男は?」

 村人の一人に近寄り、尋ねた。

「……いや、見ねえ顔だな。村のもんじゃねえ」

 その男に続いて、中年の女性が非難めいた声を張り上げる。

「泥棒よ! あいつ、クレッグさんちに入ろうとしていたんだから──!」

「……なるほど。つまり外部の者の犯行というわけですか」

 だとすると、先ほど村の傍にあったジープは彼らのものだったのだろうか。こんな辺鄙な村にまで来てわざわざ窃盗も何もないだろうから、恐らくは人買いか何かだろう。

 治安も何もないような地域では人身売買は秘密裏ではあるが公然と行われている。使用用途は様々で、それこそ奴隷のような扱いをする者もいれば戦力として購入する者もいる。

そう言ったことを専門とする集団が存在するとは聞いていたが、まさかこんな所で出くわすとは思っていなかった。

 呟きつつ、視線を戻す。

「罪を犯すのなら、」

 ざっ──

 赤い外套の男は、ゆっくりと歩きだした。

「悪だ」

 赤い男は剣を無造作に振り上げた。

 ひいい、と男が悲鳴をあげて両手で身を庇おうとしている。

「死ね」

 その単語が、あまりにもあっさりと唇から零れ落ちている──

 迷うことなく男はその手を振りおろす。

 鈍い音が、やけに大きく周囲に響き渡った。

「な──あ……っ!?」

 驚愕に目を見開いたまま、男が硬直する。

 その腹部には、先ほどの剣が深々と突き刺さっていた。

 続いて、血がぼたぼたと零れ落ちる──

 どう見ても致命傷だった。

 村人の間から悲鳴が一斉にあがる。

 赤い男は気にした様子もなく、剣から手を離し、頬に飛び散っていた返り血を拭った。

「ひ──ひいいいいいっ!?」

 悲鳴は別の所からあがった。

 村人の輪から少し離れたところにいる男が、慌てて逃げ出そうとしている──

「仲間か」

 ぽつりと呟いて赤い男は目をそちらへとちらりと向ける。

「──、──」

 男の唇が小さく動いた、そう思った次の瞬間、彼の目の前には再び剣が出現していた。

 突如として忽然と中空に出現した剣は、それが当然だと言うかのように浮遊したまま、しかしその先端をゆっくりと逃げ出す男の背中へと向ける。

 そして、唐突に、爆ぜる。

 消えた、と錯覚しそうになるほどの速度で剣が突き進む。そのまま一直線に逃げ出した男の背中へと伸びていき──

 ざぐっ……

 今度は悲鳴すらなく、男は剣を背中に突き刺したまま地面に倒れ伏した。それでもなんとか身を起こそうと力を振り絞り──そして、それも適わず力尽きる……。

 剣が何の前触れもなく掻き消えるように消滅した。同時、どろりとその周辺の地面が赤く染まりだす……

 騒然とする村人に構わず、男は死体に背を向けると歩きだした。

「すまないが」

 近くにいた村人に話しかけている。

「片付けを頼む」

「は、はい!」

 話しかけられた少年は、直立不動のまま大きく頷いた。

 男は小さく頷くと、そのままどこかへ歩き出そうとする──

「ま──」

 慌てて、声を張り上げ、走りだす。

 村人の視線が一斉に集まるが、気にしている余裕はなかった。

「待って──待って下さい! 貴方は……」

 傍に近寄り、バゼットはごくりと喉を鳴らした。

 ──外見、口調、行動パターン、それらは全く資料と一致しない。

 ──だが、あの力。

 ──あの魔術は……

 そしてバゼットは、赤い男を見上げ、恐る恐る尋ねる──。

「貴方……衛宮士郎、です、か……?」

 呟いてから、我ながら随分自信のない口調だ──と自嘲する。ついでに言えば否定してほしいとも思っている。

 違う(・・)。この男は──少なくとも、桜たちの話に出てくる優しい青年などではない。ただの■■■だ。

「だとしたら」

 低く、男が呟く。

 その瞳が自分を吟味するかのように貫く──。

「どうするのかね」

 視線が自分の体を貫くと同時、ぞくり、と肩が震えた。それを押し殺しつつ、彼女は真っすぐに男の目を見つめ返した。

「──ちょっと、いいですか」

 言いつつバゼットは男の手を掴んだ。

 が、男はふんと鼻を鳴らすと、その手を振りほどこうとする。

「よくはないさ。私は──」

「──いいから!」

 がっ──

 そして。

 逃げようとする男の腕を無理やりつかみ取り、バゼットは声を押し殺して、

「いいから……ちょっと付き合って下さい」






 

 

 

「……この辺りなら、いいでしょう」

 呟いて、バゼットはぴたりと足を止めた。

 握りしめていた手を緩めると、すかさず腕が跳ねのけられた。

 村外れの路地裏──気づけば衛宮士郎の家に程近い所だった。狭く歪な路地はおおよそ人が一人通れるくらいの広さしかない。周囲にスペースなどいくらでもあるのだから何もこんな密接させなくてもいだろうに──とは思うが、考えをすぐに改めなおす。右隣の家は塀と家の壁の隙間がほとんどない。恐らく建てる際に計算間違いでもしたのだろう。つくづくいい加減な所だ──。

「全く、一体何だと……」

 うんざりとした底冷えのする声で我に返る。見ると、掴まれていた腕をさすり、男はひどく冷めた眼でこちらを見つめてきていた。

 バゼットは全く気にかけた様子もなく、鋭い視線を男にぶつけた。

 ……依頼を受ける際に渡された、衛宮士郎の顔写真を思い浮かべる。印象は確かに全く異なる──が、そう言えば造りは似ている箇所もある。髪の色などどうとでもなることだし、肌もそうだ。体格も年月さえあれば変えることは可能だろう。身長もデータに比べて高いようだが、まだあの時から伸びたということならば可能性はある──

 口を開くのに、少しばかり、迷ってから。

「もう一度聞きます……貴方は、衛宮士郎ですか?」

「…………ああ、そうだ」

 男──士郎は今度はあっさりと首を縦に振った。

「……本当に?」

 一転して半眼で疑惑の眼差しを向ける。男はやれやれと肩を竦め、苦笑した。

「嘘をついて……どうにかなるものでもないだろう?」

 その返事に、ぐらり──とバゼットの体が揺れる。

 数歩後ずさった後、彼女は俯き、ぶつぶつと呟き始めた。

「いえ、しかし──まさか本当に……。いえ、確証はなかったのですが、それにしても──」

 ぐっ、と声色を押さえ、慎重に尋ねる。

「……ミスタ・衛宮。先ほどの件についてお聞きしたいのですが」

「先程?」

 何の気なしに聞いてくる。

 それが、勘に触った。

 バゼットは拳を握り締めると、怒鳴り付けた。

「──っ、貴方が、たった今男を二人殺した件だ! 一体どう言うつもりですか!? 貴方にとって人の命とは重いものではなかったのですか!」

「重いから……殺したんだ」

 男の瞳は揺らぎもせずに夜の闇を映し出している。

 戸惑いつつも、バゼットは聞き返した。

「……? 一体何を……? すみません、貴方の言っている意味がわからない……」

「犠牲は少ないほうがいい。あいつらは人買いだ」

 ぼそりと、それだけを告げてくる。

「っだからと言って……! 犯罪者だからと言って簡単に殺していいわけがない!」

「放っておけば犠牲者は増える。あいつらを消すことで何人救われるかを考えてみるんだな」

 淀みなく言い切られ、一瞬言葉に詰まる。だがそれでも首を横に振ってから、はすっと息を吸い込んで言い返した。

「……詭弁でしょう。確かに彼らはそうなのかもしれない。だが──だからと言って殺す理由もなかったはずだ!」

「殺さない理由もないな──」

 すかさず、告げてくる。

「殺人は! そんな簡単に行っていいものでは──」

 バゼットの言葉を男はぱたぱたと手を振って遮った。

「……もう、いい。よく考えたら君に付き合う必要などなかった。君の考えと私のそれとは違う。それで終わりだ」

 そう、あっさりと言い捨てられる。

 バゼットはその言葉に茫然と立ち尽くしていた──が、やがて歯を噛みしめると、首を横に大きく振った。

「違う……違う! 貴方は──衛宮士郎なんかでは、ない!」

「ほう? なら、私は誰だと言うのだね」

 腕を組み、口を歪めてからかうような視線。明らかに面白がっている。

「……、それは」

 わかっている──自分の言っていることは支離滅裂だ。

 つい先ほどこの男に間違いないと考えたのは自分。

 現実を目の当たりにして絶望したのも──自分。

 落ち着くべきだ、と軽く首を振り、深呼吸。嘆息にほど近いものになってしまっていることは自覚していたが。

 バゼットは目頭を押さえつつ、押し殺した声で呟いた。

「……わかりました。これ以上この件で貴方と言い争っていても無駄なようですね。言いたいことは山ほどありますが──。……しかし、本当に貴方は衛宮士郎なのですか? これでは、あまりにも資料と違いすぎる……」

「……資料?」

 ぴくりと士郎は眉を跳ね上げた。

 こほん──と咳ばらい。

 バゼットは背筋を伸ばすと、

「ああ、そうでした──申し遅れました。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。元……いえ」

 何かを振り払うような仕草をして、再び咳ばらい。期待するように彼女は士郎の顔を見上げ、

「現在はフリーの魔術士をやっています。それより、一応私と貴方は面識があるのですが。覚えて……いませんか?」

「いないな」

 即答だった。

「……そうですか」

 ひくり、と頬を引きつらせつつも、なんとか踏みとどまる。

「それより──資料とは何だね」

 一転、その視線が鋭さを帯びる──バゼットは両手を広げ、説明する。

「ああ、いえ。ええと……そうですね、どこから説明したものだか。まず簡単に言えば士郎君──ああすいません、士郎君と言う呼び方でいいですか?」

「……好きにしたまえ」

 嘆息する士郎にくすりと笑いかけてからバゼットは頷き、両手を広げた。

「ではそのように。……士郎君。間桐桜、そしてイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという人物に心当たりは?」

「……なん、だと?」

 はっと息を飲む士郎を横眼で見ながら、歩みを進め、道の脇に立っていた木にとんと背中を押し付ける。

「簡単に言えば、私はお二人から貴方たちの消息の確認、そして場合によっては日本へ連れ戻すように、と依頼を受けているわけです。──それからルヴィアゼリッタさんからも」

「……待て。前の二人と後ろの関係が分らないんだが」

 途端、半眼で頭を押さえる士郎に、簡単なことです、と続ける。

「貴方たちの最後の消息が確認できたのがロンドンでしたので、まず初めにそこへ向かいました。彼女とはそこで知り合いまして」

「……成程。まあ、何と言うか──やれやれ……」

 苦笑。もう何度目だろうか──と思いつつ、自分もまた苦笑していることに気づく。

 バゼットは木の幹から体を浮き上がらせると、

「士郎君、日本へ戻る気はありませんか?」

「ないな」

 返事はこれ以上ないほどに素早かった。

「………………また、即答ですね」

 頬に一筋の汗を浮かべて空笑いをするバゼットに、士郎は無碍もなく言い捨てる。

「ないものはないんだ。どんな言い方をしてもこの答えは変わらない」

「……桜さんたちは貴方たちの帰りを待っていますよ。勿論ルヴィアゼリッタさんも」

「関係、ないさ」

「何故です?」

 すがりつくようにして、バゼットは尋ねた。

「…………。」

 俯き、沈黙する士郎を見据え、腰に手を当て彼女はにこやかに告げる。

「言えませんか。それなら理由はないとして連行しますが」

 ふう、と息が彼の口から洩れた。

 俯いたまま、やけに平べったい声色で士郎は呟いた。

「……帰りたまえ。私は日本に戻る気はない──」

「──帰れない、の間違いでは?」

 すかさず、告げてみる。

 それはバゼットにしてみればただの当てずっぽうでしかなかった。根拠はない。ただ、この一時間にも満たない間、衛宮士郎という男を観察してもしかして、と思い浮かんだものだった。……この男に、居場所などない。居場所など求めていない。ひどく鋭敏な、そして細すぎるナイフ。それが第一印象。ああ、つまりこの男は──

「……」

 士郎は再び沈黙した。おや、と顎に手を当てバゼットはにやりと笑う。

「……なるほど。かまをかけただけだったのですが、当たりのようですね」

 一歩士郎へと近寄り、バゼットは下から彼の顔をのぞきこんだ。

「衛宮士郎──いえ、士郎君」

 出来るだけ優しい声で、そっと囁く。

「帰りたくない理由はなんなのですか? もし何かやり残した事があると言うのならば、私がその手伝いを──」

「────っ!」

 ぎしり、と歯ぎしりが聞こえた、その認識した瞬間、首に違和感がはしった。避ける暇もなくそれが猛烈な圧力となって押し寄せる──抵抗ことすら忘れて、彼女はぼんやりと目の前の光景に見入っていた。

(士郎、君────?)

 どんっ!

 背中に衝撃がはしった。

 木の幹に叩きつけられた、と気づいたのは数瞬遅れてからだった。

「は──あ……っ」

 息が零れ落ちる。

 目の前には、息を荒らげてこちらを凝視している士郎の顔。

 憎悪に満ちた、険しい顔──

「な……んで……」

 なんとかそれだけを、呟く。

(まずい──このままだと、本当に────っ)

 じわじわと黒く染まりつつある意識の中、なんとか士郎の腕を掴み、ねじり上げる──予想以上の抵抗力がかかったが、それでも結果として首を絞める力は弱まった。

「げほっ──うぁ、はあっ……!」

 あえぐようにして、空気を肺に送り込む。膝をつきつつ、それでも霞む目を見開いて前を見上げる。

 士郎は腕を振り払われた姿勢のまま、茫然と突っ立っていた。

「あ……あの──、士郎、君……?」

 まだふらふらとする頭を振りつつ、それでも立ち上がる。

 士郎は目を伏せたまま、噛みしめるように呟いた。

「あ──すま、ない。……すまない、本当に。つい……かっとしてしまって……」

 その言葉に、ははは、と我ながら力のない笑みを浮かべてみせながら、バゼットは両手を広げて見せる。

「……大丈夫です。このくらいでやられるようなやわな鍛え方はしていませんから」

「……すまない」

 頭を下げる士郎に、バゼットはそっと近寄った。

「……士郎君」

 静かに、囁くように尋ねる。

「何が……あったんですか?」

 その問いかけは、驚くほどに恐る恐る呟かれていた。

 士郎は俯いたまま、動こうとしない。バゼットもまた身じろぎすることなくただ黙って彼の答えを待つ。

10秒──。

20秒──。

30秒──。

40秒──。

50秒──……

恐ろしいほどに静まり返った時間が流れていく。

無理か──あきらめてバゼットが息を吐こうとした、その時だった。

「…………たんだ……」

 掠れた声が、闇の中、響いた。

「え?」

 声量が小さすぎて聞き取れなかった。彼女は聞き返した。

 ざりっ……
 音は、士郎が地面を搔き毟ったものだった。

「──────消えたんだ」

 その呟きは、とても小さく囁かれていて。

「……え?」

 思わず、聞きかえす──今、この男は何と言った?

 士郎はあくまでも視線を下に落としたまま繰り返した。

「凛が……、消えたんだ。──これで十分だろう」

 彼はそう言い捨てると、くるりと背を向けた。

 赤い背中が、夜の闇へと消えていく……

「……士郎、君……」

 呟きが漏れる。

 生ぬるい空気が漂う夜の中、バゼットはしばらくの間そうして立ち尽くしていた。






 

 










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