ちび凛。
1.始まりは突然に
「よしっ、出来た……!」
開放感に満ち溢れた声が、薄暗い地下室に反響した。
――そこは屋敷の地下室だった。
暗く、大して広くもない部屋の中には、本や何に使うのかわからないような道具が当たり構わず散乱している。部屋の床には、大きな魔方陣が一つ描かれていた。そして――その手前には、四つんばいになっている遠坂凛の姿があった。
「――うん、こんなものかな」
額に付いた汗を拭いながら、凛は身を起こし、とんとんと腰を叩きながら何度も魔方陣を念入りに見直した。
やがて彼女は小さく頷くと、両手を『ぱんっ』と合わせた。
「さて、と。準備は万全。問題なんかどこにもないわよ……ね?」
言いながら、入り口を横目でちらりと見る。
そこには誰の姿もない。
「……よしっ」
もう一度頷くと、凛は息を吐いてすとんと肩を下ろした。首を戻し、表情を引き締める。足をやや広げ、顎を引いた。右手をそっと前へと差し出し、そして告げる。
「じゃあ――始めるわよ」
その言葉に呼応するかのように、床の魔方陣が淡い光を放ち始めて――
鍋からすくい上げたオタマの中身を傍にあった小皿に移し、口へと運ぶ。
ふむ、と呟いて考えること数秒。舌で口の端に付いた水滴を舐め取り、そしてさらに親指で軽く擦ってから、アーチャーは呟いた。
彼は、普段着ている赤を基調とした服に加え、白のフリルエプロンとバンダナを付けていた。
「……少し塩味が足りないか」
言って手早く塩の入ったケースを取り出し、一つまみ。鍋の中に円を描くようにしてばら撒き、ゆっくりとオタマで中身をかき混ぜる――
鍋の中身はホワイト・シチューだった。
アーチャーは一旦手を止めると火力を調節し、そして再び鍋をかき混ぜ始めた。
と――
どおおおおおぉんっ!
突然爆発したような音が響き、屋敷が揺れた。アーチャーは反射的に鍋を押さえて、周囲を見渡した。
「な、なんだ……?」
慌てて火を止め、オタマを持ったまま廊下に飛び出す。
「音がしたのは――」
そこまで呟いて、はっと顔をこわばらせる。
「地下室、か? 凛、一体何を――」
言いながら、アーチャーの顔は見る見るうちに青ざめていく。
「まさか……?!」
唐突に硬直状態から脱すると、彼はバンダナを頭からむしりとり、慌てて地下室へと走り出した。
「凛!」
叫ぶ。階段を一気に駆け下り、そして階下の状況を目の当たりにし、アーチャーはさらに顔をひきつらせた。
爆発は殺傷力を伴うものではなかったのか、周囲の壁には亀裂やひびは入っていない。ただ、地下室の入り口からはもうもうと煙があがっていて、中がどうなっているのかはわからなかった。
「くそ!」
アーチャーは階段の途中から一気に下まで跳躍すると、迷うことなく地下室の中へと飛び込んだ。数歩踏み込んだところで、顔を腕で庇いながら声を張り上げる。
「凛! 凛、いるのか?!」
だが、返事はなかった。彼は舌打ちをすると無造作に手を大きく振り払った。それだけで、煙のほとんどが霧散する――
――薄れていく白煙の中に、赤い色がちらりと映った。
アーチャーは瞬時にその元に駆け寄り、それを掴んだ。ぱっと表情を明るくさせ、
「り――――」
そこまで叫んで、硬直する。
アーチャーが掴んでいたものは、間違いなく凛の上着だった。
ただし――その服には中身がなかった。
上着も、スカートも、ニーソックスも下着も。服は全て揃っているが、肝心の凛の姿はどこにもなかった。
ぎゅっ……
表情を凍らせたままのアーチャーの手に、わずかに力がこもる。
「…………っ」
彼は無言のまま、口を噛み締めていた。
と――
……もぞっ。
突然スカートの裾がごそごそと動いたかと思うと、むくりと一箇所が不自然に持ち上がった。
「……え、あれ?」
同時に、くぐもった声がそこから響いてくる。
拳ほどの大きさの膨らみは、しばらくの間同じ場所でもぞもぞと蠢いていたが、やがてゆっくりと移動し始めた。
そして――
「ふう……。ああもう、なんなのよ一体……」
膨らみがスカートの端に到着すると同時に、同じ場所から裸の人形のようなものが四つんばいになってよろよろと出てきた。長い黒髪に整った容姿の――アーチャーのよく見知った人物にそっくりな人形だった。
「凛!?」
アーチャーは驚愕したように顔を引きつらせた。
そしてそれと同時、瞬間移動とも言っていいくらいの速さで人形の姿がスカートの中に引っ込んだ。
「……凛?」
戸惑ったようにアーチャーは声をかける。
やがてしばらくすると、服の隙間からひょっこりと顔だけが出てきた。様子を伺うようにこそこそとしながら、恐る恐る上を見上げてくる。
「あ……アーチャー? って、なんでっ!?」
顔を引きつらせながら人形――もとい、凛が呻いた。
アーチャーは腕組みをして、半眼で凛を見据えた。
「……ああ、まあなんとなくわかっては来ているのだが――」
と、そこまで言ってから、大げさに嘆息してみせる。がくりと首をうな垂れさせながら、低い声で彼は尋ねた。
「……今度は何をやったんだね、君は」
「え? えーと……」
凛は呻き声を上げた。目をせわしなく動かし、顔を青ざめさせ、びっしりと汗をかいて。
――凛の体は、サイズが縮んでいた。
元の体格はそのままに、全体の縮尺だけがミニマムになっていた。
完璧に、どこをどう見ても、言い訳のしようがないほどに、縮んでいた。
全長――約10センチ。
凛はごまかし笑いを浮かべながら、ぽつりと呟いた。
「ち……ちっちゃくなっちゃったみたい……」
2.普通
地下室の中では沈黙が続いていた。
重苦しい空気が、雰囲気をなお一層悪いものへと変化させている。
二人ともお互いを見つめたまま、何も言おうとしていなかった。
『………』
静寂がひたすらに続く。
両者ともに微動だにしていなかった。
場の空気だけがただひたすら、どんどん気まずいものになっていく。
「あ、あのねアーチャー……」
やがて、意を決して凛は口を開いた。
「………何かね」
腕を組みながらぶっきらぼうにアーチャーは聞き返した。
「う……」
凛は威圧されたように口ごもると、さっと視線を逸らした。
「ええと……」
視線をせわしなく動かしてから、彼女は明るい声で提案してみせた。
「と、とりあえずリビングにいきましょう?」
「凛。それで私が納得すると思うのかね」
ため息と共に、アーチャーは真面目な表情を崩しもせずに低く唸った。う、と凛は一瞬口ごもるが、がっくりと頭を垂れると共に、
「……思わない」
反論はあきらめたのか、彼女は低くそう呟くと恨めしげにアーチャーを見上げる。その視線を真っ向から受け止めながら、平然とアーチャーは静かに凛を見据えていた。組んでいた腕をほどき、顔を近づけ、尋ねる。
「そうか。ではどういうことか、説明してもらおうか。一体何があったのかね」
「どういうことって言われても……」
言いながら視線を泳がせている凛。
「……私には、君が小さくなったように見えるのだが」
目を細めて、アーチャーは嘆息を交えながら唸った。
「でしょうね……」
力なく凛は同意し、それきり押し黙った。
ふむ、と小さく呟いて、アーチャーは。
「とりあえず、凛」
彼はどこか気の毒なものを見るような目でこっそりとたずねた。
「……そこまでして小さくなりたかった理由はなんなのだね?」
「って、なりたくてなったんじゃないわよー!」
叫ぶ凛。顔をしかめるアーチャー。一瞬の奇妙な沈黙の後、
「……違うのかね」
むう、とアーチャーは聞き返した。
「当たり前でしょ。好きでこうなったんじゃないわよ」
目を剥いて凛は叫ぶ。
「……ということは」
アーチャーは『はっ』と表情を引きつらせた。
「う……」
たじろぐ凛に、アーチャーは何かに気づいたように目を見開いた。慌てふためいたように叫ぶ。
「私のためかねっ!?」
「もっと違うっ!」
絶叫が、地下室に木霊する。
「大体なんでわたしがあんたのためにそこまでしなきゃならないのよ、ってあんた喜ぶの?!」
言ってから気づいたのか、凛が驚いたように顔をあげる。
「……喜ぶだろう?」
「いや、そんな普通だろう、みたく言われても……」
平然と言い返してくるアーチャーに、凛は汗を一筋垂らした。
3.アーチャーの第一印象
「ふむ、つまり魔術で失敗したと。そう言うことかね」
凛の目の前に座り、アーチャーは頷いた。凛は相変わらずスカートの中にもぐったままの体勢で半眼で呻いた。アーチャーに、と言うよりは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと。
「そう。あくまで失敗よ、失敗。ちょっとちっちゃくなっただけなんだから」
「……ちょっとと言うレベルではないように思うんだが……」
掌サイズになっている凛を眺めながら、アーチャーはげんなりと呻いた。その様子を見て凛は顔をしかめ、しっしっ、と手で追い払う仕草をしてみせる。
「ああもう、うるさいわね。いいからどこか行きなさい」
「そう言うわけにもいかないだろうに……」
困ったようにアーチャーは呻き――そして、感心したように肩を落とした。
「しかし、ふむ」
彼は改めてしげしげと凛を見つめると、何度か頷いて見せた。
「な、なによ」
視線に嫌なものを感じたとでも言うように凛は聞く。
「いや、君のその姿は――」
そこまで言い、アーチャーはさらに顔を近づけた。凛はそれを見てぎょっとしたように顔を引きつらせると、半ば叫ぶようになりながらも、両手を前に突き出して必死にけん制してみせた。
「だ、だからなんなのっ?!」
出た声は上ずったものだった。そのことにさらに動揺したのか、凛の顔が真っ赤に染まった。だがそのことを気にした様子も――と言うよりも気づいた様子もない――、アーチャーは冷静に口を開いた。その瞳に静かな光を点らせて。
「凛」
「な、なに……?」
恐る恐る聞き返す凛は聞き返した。アーチャーはその様子をじっと見ながら――
「萌え、という言葉を知っているかね?」
――あくまでも真面目な表情を保ったままで、そう尋ねた。
「…………………………え?」
……凛は半眼で呻いた。
4.しまった。
呆然とする凛の前で、アーチャーは腕を組み直して、したり顔で勝手に解説を始めていた。どこか得意げな表情を浮かべながら右手の指をぴっと立て、それを左右に振りながら、
「まあ簡単に説明するとだ。例えば可愛いもの、愛でるようなものがあるとしよう。まあそれは人によってそれぞれだろうが。そして、そういうものに出会ったとき、人はこう思うのだよ」
そこまで言ってから、アーチャーは途端に顔を緩ませた。へにょりと指を曲げて、頬をほんのりと染める。どこか遠くを見るような、それでいて何も見ていないような眼差しで。
「……萌えー、と」
「うるっさい!」
思わず凛は叫んで、ああもう、と呻き、顔をしかめた。ひどく疲れたように口をへの字に歪め、そして額に手を当てた。何かに耐えるように俯き、小さくぶつぶつと呟いている。数秒たってようやく立ち直ったのか、凛は唐突に顔を上げて、
「ったく、なんなのよあんた!」
少しばかりやけくそな口調になりながらも叫んだ。が、アーチャーはめげた様子もなく再度指を立てなおも口を開いた。
「い、いやだからこれは」
その言葉を抗議のものととったのか、凛は煩わしそうに顔を歪めると両手で耳をふさいで見せた。アーチャーに背を見せながら、鬱陶しそうに言い捨てる。
「ああもういいわよ、言い訳なんか聞きたくない。ったく、どこでそういう知識ばっかり拾ってくるんだか──!」
「はっはっは。常識だろうに」
朗らかに笑うアーチャーに、
「ああ、そう……」
凛はただそうとだけ呟き、がっくりと肩を落とした。
5.とどめの一撃
「ま、まああれだ。そんな些細なことはともかくとして」
気圧されたように声を小さく吐き出しながら、それでも凛は言い返した。
「何よ。言っておくけどしょうもないこと言ったら張り倒すわよ?」
心外だ、と言うように口を尖らせ、アーチャーは。
「――君のその体のことの方が大事だと思うんだがな。違うかね、凛」
「う……ま、まあそれはそうだけど……」
至極もっともな言い分に、しぶしぶながらも凛は頷いた。アーチャーはふうと息を吐き出しながら、口調を軽いものにした。軽く肩を竦めてみせながら、
「いやまあしかし、私はこのままでも一向に構わないわけだが」
「あんたねー……」
ひくり、とこめかみを引きつらせながら凛は口を尖らせ――そして言うべき言葉を失ったのか、がっくりと首をうな垂れた。
「……はぁ……」
心底疲れたような嘆息を一つついてから、のろのろと顔をあげる。
アーチャーはそんな凛を静かに見下ろしていた。
「…………」
「…………」
両者ともに、何もしゃべらない。
ふむ、とアーチャーが小さく呟いたのはそれからさらに数秒たってからのことだった。
「――凛」
「な、何……?」
反射的に身構えながらも、凛は聞き返した。
アーチャーは真面目な表情のまま、口だけを動かして、
「萌エー」
「………………もうやだ……」
地面にがっくりと両手をついて、凛はしくしくと泣きながら呟いた。
6.拗ねた。
「むう」
アーチャーはうめき声を上げて顎に手を当てた。
目の前には、小さく盛り上がったスカートが一枚、床に広がっている。
スカートの中からはなにやらぶつぶつと呟くような声が聞こえてきていた。
……声は凛のものだった。
「凛、拗ねたのかね」
アーチャーは呼びかけた――が、返事はない。
「凛」
再度、繰り返す。
やはり凛は反応しなかった。
アーチャーはしばらくの間ぼんやりとスカートを眺めていたが、やがてそっと手を伸ばすと、スカートに触れ、ぼそりと呟いた。
「……めくってみてもいいかね?」
そこまで言ってようやく、スカートがぴくりと震えた。
数秒の間をおいてからようやく――僅かにスカートが持ち上がり、そこからそろそろと凛が顔を出した。
彼女は何も言わず、淀んだ目でアーチャーを見上げた。何か言いたげな表情のまま、沈黙を貫き通して。
凛はしばらくの間そうしていたが、やがて、はあ――とひとつ大きな嘆息を残して、再びのろのろとスカートの中に身を隠していく……
「……凛?」
今日何度目かの呼びかけに、彼女は鬱陶しそうに顔をしかめた。
「…………………うるさい。」
不安げに呟くアーチャーに、にべもなくそう告げ、頭からすっぽりとスカートの生地をかぶる凛。
アーチャーは右手を顎に添えると、大して動じた様子もなくふむ、と呟いて身をかがめた。顔を凛のいる辺りに近づけ、そっと囁く。
「……やはり拗ねたのかね、凛」
ぴくり、とスカートが動いた。
「凛」
もう一度、繰り返す。
「り――」
「あー、もうっ!」
がばっ――
叫び声が聞こえると同時、唐突にスカートの中から凛の顔が飛び出したかと思うと、彼女は顔を真っ赤にして一気にまくしたてた。
「うるさいってのよ! いいからあんた、黙ってなさい!」
そして、言いたいことを全て終えるとさっさと頭を引っ込める。
「む……」
いい加減困ったように顔を曇らせ、アーチャーは呻く――
……事態は硬直状態に陥ったようだった。
7.心配
「はあ――」
「凛、そろそろ出てこないか」
ため息を遮るようなアーチャーの声。
が、スカートは一瞬ぴくりと動いただけでそれ以降反応らしい反応はしなかった。
「凛」
しびれを切らしたように声を苛立たせながら、
「凛」
……それでも辛抱強くアーチャーは呼びかけた。
「り――」
「……しつこい」
低く唸るような声は、くぐもってはいるが、まるで警告するように苛立ちが強くこめられていた。
アーチャーはこっそりと嘆息しながら口を開く。
「しかしだね」
「しかしも何もないって言ってるでしょ。……もう、ほっといて……」
「む……」
きっぱりと言い切られ、アーチャーは顔を曇らせた。
それでもくじけず、彼は数秒の間を置いてから話しかける。
「凛、いいかね」
「だから、よくないって――」
「――凛」
と、そこで。
アーチャーは声色を変えた。低く、囁くように。そして、ほんの少しばかりの悲しみを込めて。
「……少しは私の話を聞いてくれてもいいだろう?」
「ちょ、ちょっと、そんなに近づかないでってば――」
スカートの隙間から覗いている凛の顔が途端に引きつった。だがアーチャーはさらにゆっくりと顔を近づけていく。
「聞いているのかね、凛。いいかね、今回ばかりは私は本気で君のことを――」
アーチャーはさらに身をかがめ、ずいっと顔を近づけてそう進言した。
「あ、あああアーチャー!?」
慌ててスカートの中に再度潜り、凛は顔を赤らめながら声を上ずらせる。
どうしたのかね、とアーチャーは首をかしげつつ、続けた。
「――君のことを、心配しているのだよ。そこをわかって欲しい」
「わ、わかった、わかったからっ!」
しっしっと手を振りながら、凛が声をあげた。アーチャは多少不満そうな表情をしつつも大人しくそれに従った。
「……そうかね?」
そう言葉を残してアーチャーの顔が離れるのを確認してから――
凛はスカートの影に隠れながら、こっそりと安堵のため息をついた。
8.今、必要なもの
凛はスカートの隙間から顔だけを覗かせ、喚くように叫んだ。
「と、とにかくアーチャー、このままじゃ埒があかないから、何か着るものを――」
「……そうか。そう言えば何も着ていないのだったな」
アーチャーはそこまで呟いてから――首をひねった。
「……別にそれでも構わないんじゃないのかね」
「あんた、ほんっとーに殴られたいの……?」
ジト目で呻く凛に、アーチャーは両手を軽くあげて降参のポーズを取った。
「いや、失敬。冗談だ」
こほん、と堰をして間を取ってから、
「しかし、そのサイズだといつも君が来ている服を着るというわけにもいかないだろうに」
「……そうよね。そっか、そうだった。じゃあ、うーん、どうしたもんかなあ」
「――凛」
顔を曇らせて悩み始めた凛に、アーチャーはずいっと詰め寄った。真剣な表情で、静かに告げる。
「実は偶然にも、今の君にぴったりそうなサイズの服を持っているのだが」
「へ?」
凛はぽかんと聞き返した。
「どうするかね。ひとまずそれを着ておくかね?」
「そ……そうね。今あるんならそれでいいし……」
こくりと頷く凛を尻目に、アーチャーは実に満足そうに頷くと、おもむろにポケットに手を突っ込んだ。
「では、凛」
言いながら、そろそろと手をポケットから出していく。そしてアーチャーは凛に向かって右手を差し出し、きっぱりはっきり言い切った。
「早速――この服に着替えたまえ」
そう言って取り出したのは――
やたら小さな、メイド服だった。
9.一般常識
「…………」
しばらく、うろんな瞳でそれを眺めてから――
「ねえ、アーチャー?」
凛は静かに、にっこりと微笑んでみせた。満面の笑みで、こめかみを引きつらせながら。
「……なにかしら? これ」
アーチャーは真っ直ぐ凛の目を見つめながら、何を言っているんだね、と眉をひそめた。
「服に決まっているだろう? 君がそう命令したのではないか」
「そ・う・じゃ・な・く・てっ!」
唸るように叫んでから、凛は『ばんっ!』と床を叩いて見せた。
「なんなのよ! このいかにも怪しげなのは!」
アーチャーは再び眉を潜めた。
「どこも怪しくないなどないさ。ごく普通のメイド服ではないか」
「メイド服って時点で全然普通じゃないっ! ……大体あんた何でこんなの持ってるのよ」
至極真っ当なその反論に、だがアーチャーはさらに怪訝な顔をした。
「……普通持っているものだろう……?」
「ああもう訳わかんないこいつー!」
とうとう凛は頭を抱えて絶叫した。
10.○アーチャー vs 凛×
「さあ、凛」
ずいっ――
小さなメイド服を片手に、妙なオーラすら撒き散らしつつ迫るアーチャ−。
凛は顔を引きつらせながら、必死に頭を回転させる。
(って、ちょっと待ちなさいよ! なんでこんなことになってるのよ!? 大体メイド服って何? わたしが着るの、あれ? って、そもそもなんでこいつそんなもの持って――って、ああもう、こいつの眼絶対本気だし――)
延々と思考のループに入りかける寸前で立ち直り、凛ははっと声を張り上げた。
「とっ、とりあえず!」
額に汗を浮かべながら、目まぐるしく視線を動かしてから――指をぴっと立て、笑顔のようなものを作りあげ、凛は提案した。
「とりあえず――そう。いつまでもここにいるのもなんだから、リビングにいきましょう?」
一気に言い切ってから、願うようにアーチャーを見つめる。
「……ふむ」
その言葉にアーチャーは顎に手を当て、考えるような仕草をしてみせた。
(脈あり――!)
そう判断してからの行動は素早かった。凛は手近な布を体に巻きつけると、スカートの外に這い出た。それからアーチャーの傍まで歩いていくと、くいくいと服の裾を引っ張って、
「ね? ほらアーチャー、急いで」
「……まあ、それは構わないが」
そこまで呟いてから、アーチャーはちらりと凛に視線を送った。思わせげな笑みを口元にうかべながら、ちらりと凛の格好を見やる。
「……服はあっちに着いたら着るということでいいのかね?」
「う……」
凛はその言葉に口ごもった。
アーチャーは黙したまま彼女の答えを待っている。
(ああもう、こいつは〜!)
「…………………着る、わよ」
ぼそり、と。
誤魔化しきれないと悟ったのか――やがて凛は苦虫を噛み潰したような表情で、しぶしぶと頷いた。
「着ればいいんでしょう?! あーもう、こんなのいくらでも着てやるわよこんちくしょー!」
やけくそになったのか、言いながらだんだんと床を踏みつけている。
「そうかね」
凛の絶叫を軽く流しながら、アーチャーは鷹揚に頷いた。
組んだ腕の中では、こっそりピースサインが光っていた。