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月の光が薄く落ちる。音のない夜。草も揺らぐことがない静かな昏闇が広がっていた。
静寂に満ちていた。辺りに人影はない。乱雑な道の上には取り残されたように、一枚の落ち葉。
なでるような一陣の風が唐突に吹き、かさりという音を残して葉を夜の空へと舞い上げた。そのまま消えるかのように夜の闇へと吸い込まれ、そしてあっさりと落下。落ちた場所は廃墟だった。
中途半端な形のビルの4階には人影が二つ。
一つは真っ直ぐに立ち、もう一つは椅子に腰掛けて足を組み、そして二人は向かい合っている。
影と暗闇の境目は、ほとんどない。だと言うのに、二つの影は明らかに背景から浮き上がっていた。
「成る程。まあそちらの事情はわかった」
鷹揚に響く声は女のものだった。両手を広げ、迎え入れるような仕草をしている。それは幾分か芝居がかった仕草だが、嫌味になるほどではない。
「……はい」
やや硬さを帯びて頷く声もまた女のものだった。僅かに首を振り、そして躊躇しているのか、すぐさま元へと戻る。
しゅぼっ――!
沈黙を打ち消すように圧倒的な闇の中に一つ、小さな光が瞬いた。
光の正体はライターの炎。2秒か、あるいは3秒。赤い灯りは僅かに二人の間を照らし出していたが、それもすぐさま消え、代わりに煙草の先から煙がたなびき始める。
ぎしり、と軋む音。椅子に座った影が煙と同時に言葉を吐いた。
「うん、まあね。ちょうどいいって言えばいいんだよ。――いやね、依頼されるってのはどうも性にあわなくてね。だから今、下の部屋に、完成してる奴がある。それをあげよう」
「そうですか。ありがとうございます」
間を挟むことなく、腹に手を添え立っている影が頭を下げる。
椅子に座った影は制するように片手を突き出した――煙草を持っていない方の手を。見えるはずのない苦笑がはっきりと見て取れる。
「ああ、貴女。少しいいかな」
そして影はやや前かがみになり、低く囁いた。
「その前に、少し、ね。聞きたいことがあるのだけれど――」
宵闇の廃墟。風が少しざわめき、そして消えた。
1.
切れた。
前置きなしに途切れた電話に顔をしかめ、口を曲げて受話器をしげしげと見やる。
嘆息の代わりに黙考してから、遠坂凛はもう一度同じ番号に電話をかけ始めた。面倒くさそうに、口を曲げて。
「――そっか。あれからもう結構経つんだよね……」
独り言を言う癖は、もう直ったつもりでいたが。
干渉に浸るのに理由はいらないのではないか。確信じみた妄想を抱きとめながら、凛はぼんやりと窓の外に向かって嘆息した。のろのろと移動するバスを目で追いながら、なんとはなしにとんとんと机を指で叩いている。
苛立っている訳ではない、と言い聞かせるように頭を振る。
黒髪をツインテールにした、二十歳前後の美女である。すらりとした体躯はしなやかですらある。切れ長の瞳は鋭い色を放っている。幾分かの疲労は隠せないが。
ロンドン。市街と郊外の境目ほどに位置する、古びたアパートメントの一室が彼女の借りている部屋だった。
とある事情があるため、格安で借りることが出来たのだが、お世辞にも交通事情はあまりいいものとは言えない。
部屋の内装もあまり凝っているわけではなかった。最小限のものが最大の効果を持つように配置されてはいるが、それだけ。たいしたものがあるわけでもない、広くも狭くもない平凡な部屋。違いがあるとすれば、簡易的な結界が敷かれていることくらいか。
最も床の上は物で溢れ、歩きづらいことになっているが──本人に言わせれば、これは不可抗力だった。
ぱちぱちと暖炉の中の薪が爆ぜる音を聞きながら、受話器に耳を当てる。一回、二回、三回……
単調なその電子音を聞きながら、机の上に置いてあったコーヒーカップを手に取り、窓の外を見つめる。
そこから広がるのは、白く染まったロンドンの冬の景色。一昨日の雪はまだ溶け切らないらしい。
モノトーンの町並には、始めこそ戸惑ったものの、今となれば見慣れた光景だった。ともあれ、やっぱり寂しいことには変わりない。
……六回、七回……
「……遅い」
思ったことをそのまま口に出すのに、特に必要性は感じられなかったが。
カップに口をつけ、息を吐き出す。白い息が広がるように薄れて消えた。先ほど帰ってきたために、部屋はまだ暖まりきっていない。
──どうかしたのだろうか。
少し心配になり始めたとき、唐突に扉が音を立てて開いた。間を置かずに見覚えのある顔が何の遠慮もなしに入ってくる。ノックはなかったな、と胸に書きとめながら、ぼんやりとそちらを見やる。
ルヴィアゼリッタだった。長い金髪を、何の冗談か縦ロールにした女なのだが、確かに似合ってはいる。それがいいのかどうかはわからなかったが。相変わらずの豪奢なドレス(ただし取り外し可能)に身を包み、ぶしつけな眼差しで部屋の中を見渡している。
声をかけようとしたところで、十回目のコールが途中で切れて、慌てたような声が飛び込んできた。
『あ、すいません。ちょっとたてこんでいてっ』
「ああ、うん。大丈夫? かけ直そうか?」
何しにきたのよ──と遠慮なしに背後を睨みつけながら、何とはなしに電話のコードに指を絡ませる。
ルヴィアゼリッタは腰に手を当て、ぐるりとおもむろに部屋を見渡した。一周したところで、眉をひそめ、盛大に嘆息し、ベッドの上に散らかっていた本を隅へと始めた。
『……ええと、どこまで話しましたっけ。──ああ、そうそう。それで、挨拶に来たんですよ』
「ふうん。まあ後釜が顔出しに来るなんて珍しくもないじゃない。むしろ今まで何で来なかったのって話でしょ、そんなの」
『そうなんですか? あまりそう言うことはわからないんですけど』
「そ・う・な・の。──桜アンタ、もうちょっとしっかりしなさい。わたしはこっちだし士郎なんか頼りにならないしイリヤだってああなんだから、そうなると貴女しかいないんだからね?」
びん、とコードを弾いて背後を見ると、ルヴィアはベッドに座って半眼でこちらを睨んでいた。
どうやら座るスペースを確保したかっただけらしい。
『あ、はい。……わかっては、いるんですけど……』
「そ? ならいいけど」
『でも、本当に今日取れそうなんですか?』
「んん? ああ、ツテはあるから平気平気。丁度今いるし。それに、こう言うのって思い立った時にずばっといかないと大体後悔するじゃない」
肩をすくめて、ふ、と息を吐く。
『いえ、あの、そっちの授業とかは……』
「ああ、それも大丈夫。なんとかなるし。それより問題はあっちよね──」
『そうですね』
がん、と大きな音がした。
見ると、ルヴィアゼリッタが床に張り付いていた。
トイレへ行こうとしたところで荷物につまづいたらしい。ぷっ、と反射的に笑うと、ぎろりと恨みがましい目つきで睨みつけてくるが、そのまま無視して会話に集中する。
「まあ、悩んでても仕方ないってことよね。出来ることからやりましょう。まだ選択肢があるだけましなのよね、うん」
『そうですね。うん、本当にそうですよ。手遅れになったら、どうしようもないですし』
「そうそう、そう言うこと。──あ、何かお土産とかいる?」
『え、そんな、いいですよ別に』
電話の向こうでは恐らく桜が慌てて手を振っているに違いない。そう思って苦笑しつつ、僅かにトーンを上げた。
「そんなに高いものは余裕ないから無理だけど。でも何か面白いものとか──いやまあ一番おもしろいのはあるんだけど、これは桜用じゃないし……ああ、うん、あれにするかな」
『え、なんです?』
「秘密。──まあ期待しないで待ってなさい」
『はいっ。楽しみにしてますね?』
ルヴィアゼリッタが部屋に戻ってきた。全く、狭いですわねとぶつぶつ言っているが、無視しておく。
「はいはい。──ん、じゃあそろそろ」
『あ。はい。それじゃあええと……朝の7時に駅前でいいんですね?』
「うん、お願い」
頷く。
『はい。ではおやすみなさい、えっと、……姉さん』
「ええ。おやすみ、桜」
完全に苦笑してから──凛は受話器を静かに置いた。
「ふう」
疲れたように、嘆息。
「――随分早い就寝ですのね? ミストオサカ?」
と、背後に忍び寄ってきていたルヴィアゼリッタが、耳元で囁いた。慌てることなく振り返り、肩を竦めてやる。
「まあ、時差とか色々ね」
「あら。外国の方ですの?」
きょとんと小首をかしげて聞き返してくる。
苦笑した。自分からしてみればあちらが本国なのだが。
「そうよ。地元の知り合い──じゃない、妹とね」
言いながら、はいはいどいてどいてと押しのけて、座るスペースを確保する。椅子の上に乗っていた本を無造作にどかし、どかっと座る。机に頬杖をつき、はあと深く嘆息してから──凛はじろりと半眼でルヴィアゼリッタを睨みあげた。
「で」
とんとん、と机を叩きながら、呟く。
「アンタ何しに来たのよ」
「まあ、何しにとは随分なご挨拶だこと」
ぴくりと眉を跳ね上げ、ルヴィアゼリッタ。
「ノックなかったんだけど」
「そう思うならインターホンなりノッカーなりつけるべきでしょう。全く、安普請にもほどがあるというものです」
さらりと告げるルヴィア。凛の頬がひくりと引き攣る。
「……アンタ喧嘩売りに来たの? どこの誰のせいで寮に住めなくなったんでしたっけ? ミスエーデルフェルト?」
売るなら買うわよ、とごきごきと肩を鳴らす。
「ええ、それは勿論私の目の前にいる人なのでしょうけれど。──ところでミストオサカ、自業自得という言葉を知っていまして?」
こちらもドレスの肩の部分に手を沿え、ルヴィアゼリッタ。
「あっはっはっは。なんでアンタが日本のコトワザなんか知ってるのよ。嫌いなんじゃなかったの?」
半眼で笑うと、彼女は余裕たっぷりの笑みでふふんと鼻を鳴らした。
「嫌いだからこそ相手を知る必要もあるということですわ。まあ浅学な者にはわからないかもしれませんが」
「あのねえ……」
いい加減うんざりしたように顔をしかめ、凛はがくりと首を下げた。ばさりと髪が動く。
「──あー、もうやめやめ。それどころじゃないんだから、こっちは……」
投げやりに手を振り、呻く。
「……ああ、そうだ。ルヴィア、前言撤回。アンタちょうどいいとこに来たわー」
にっこりと笑みを貼り付け、足元に置いてあった鞄を拾い上げた。中を開けて、ファイルを漁る。その中からレポートを取り出し、完璧な笑顔ではいこれ、と手渡した。
「? 何です、これは」
訝しげに眉を潜めるルヴィアに、人差し指を振って見せながら、
「何ってレポートよ。宝石学の。提出期限明日じゃない。一緒に教授に出しておいて下さらないかしら? ミスエーデルフェルト?」
しれっと言い切る。ひくり、とルヴィアゼリッタの口が引きつった。
それでも彼女はなんとか笑顔を作り上げると、髪をかき上げながら、
「……あ、あらミストオサカ。明日はどうしても外せない用事でもあるのですか?」
「ええ、ちょっと日本へ」
これ以上ないくらいのタイミングで、さらりと告げる。
「……は?」
ぽかんと聞き返してくる。
だからね、と繰り返した。鞄を閉じ、扉に向かいながら続ける。
「日本に帰るのよ。だから、本当に無理なの。──ルヴィア、悪いけどお願いできるかしら?」
「……あら、長期休暇でもないのに帰郷ですか? 随分余裕がおありですのね、ミストオサカ」
皮肉たっぷりに言ってくる。
その言葉にくるりと振り返り、じっとルヴィアゼリッタの目を見つめた。慎重に口を開き、低く呟く。
「……前にあんたに頼んだアレ、あったでしょ。なんだか調子が悪そうだ──って言われたら、行くしかないじゃない」
ぴくり、と彼女の眉が跳ね上がった。そうですか、とぶつぶつ呟いてから、彼女は顔をあげる。
「――わかりました。そういう事情でしたら、これは私が責任もって提出しておきましょう」
言って、レポートを振ってみせる。
「うん、ありがとうねルヴィア。助かるわ」
「──その代わり」
ぎらり、と鋭く瞳を輝かせてルヴィアゼリッタは凄みを帯びた表情を浮かべた。とん、と胸元に指を突きつけ、囁く。
「失敗は──、許しませんわ」
「冗談。わたしを誰だと思っているのよ?」
腰に手をあて、髪をかきあげて不敵に笑うと、一瞬呆気に取られたように見つめてから──、ルヴィアゼリッタもまた、同じような笑みを浮かべた。息を吐き、唇に手を当てる。
「……ミストオサカ、私、貴女のその自信だけは評価してあげてもよろしくってよ」
「ありがと。褒め言葉だと思っておく」
小さく笑い、両手をぱんと打ちつけ──、部屋の隅に立てかけてあった写真立てに視線を移した。少しばかり古びた、一枚の写真。
そこには、見慣れた屋敷を背景に、数人が写っている。
──日本を発つ直前に、士郎の家で撮ったものだった。
「……今、行くからね」
ぽつりと呟いてから──彼女はもう一度両手を打ち付けると、声を張り上げた。
「さて、と言うわけで荷造りするからあんたも手伝いなさい!」
「は!?」
さすがに声を荒らげ聞き返す──が、かけらも気にすることなく、
「ほらほら、ぼーっとしてないで動く動く! じゃあとりあえず服と日用品を──」
「あああ、貴女と言う人は────」
2.
ざくり──
雪の降り積もった地面が赤のブーツで踏みしめられる。
ずしゃっ……
それよりやや遅れて、トランクケースが雪道に止まる。
旅行用のトランクケースだが、それにしても大きい。一見すれば古ぼけたどこにでもある市販品に見えるのだが、それは表面だけのことだった。魔術による特殊な処理が施されたこのトランクケースは、一種の結界のような存在でもある。最も、その分かなり値は張るのだが。
冬木の駅から降り立ち、髪を押さえながら空を見上げて息を吐いた。大気が数秒白く染まり、薄れて消える。
天気はあまりいいとは言えない──どんよりと曇っている。空港で見た天気予報では、今夜辺り降るかもしれないと言っていた。雨か、雪か。どの道面倒なことには変わりはないが。
早朝。始発から数えたほうが早いという時間帯と言うこともあり、周囲に気配はない。曇り空に覆われた街はしんと静まり返っている。
右の肩に下げたボストンバッグの位置をズラして、軽く首を回した。
「ふうっ――」
息を押し出すように吐いて、周囲を見渡す――よりも早く。
「遠……ね、姉さん」
聞き覚えのある声に、思わず顔がはっと上がる。
そこにいたのは、控えめな笑顔を浮かべた間桐桜の姿だった。
道の途中で足を止め、小さなポーチと二本の傘を持ち、胸の前で手を組んでいる。少しサイズが大きいダッフルコートの裾からは黒のロングスカートが覗いている。
はにかむようにして、やや遠慮がちに立っている。
「桜」
呟いて、そちらへと足を進める。
数歩の距離を残して立ち止まり、顔を綻ばせた。何を言おうか──少しだけ考えてから、結局何も思いつかず、
「……久しぶり」
とだけ告げた。
照れていたのがわかったのかもしれない。桜はくすりと微笑すると、僅かに首を傾け、ぱんと手を打った。
「はいっ。お帰りなさいっ」
「あーあー、そんな感動の再開なんて柄じゃないんだから。……こんなところ士郎たちに見られたら何て言われるんだか」
頬が熱くなっているのを自覚しながら、ふいと目を逸らす。ぱたぱたと手を振ってみせた。
「そんなことないですよ」
髪を手で押さえながら笑う桜。
「……ん」
微苦笑を浮かべ、一歩足を前へと出した。桜も慌ててそれに続く。
「どう、こっちの様子は。そんなに変わってないようだけど」
前を見据えたまま、尋ねた。
「そうですね、取り立てて大きな変化は。──ああでも、やっぱり少しずつ変わってきてるんですよ──」
懐かしむように目を細め、桜は独りごちた。
つられて、周囲を見渡す。特に大きな変化はないようにも見える──が、それは単に記憶が曖昧になっているせいなのかもしれないな、と思い直す。
帰る帰ると言いつつも、結局これが初めての帰郷となってしまった。長年住んでいた町なんか忘れようにも忘れないだろう──そうたかをくくっていたはずなのに。細かい箇所は随分と曖昧になっているようだ。
そっか、と小さく零し、ちらりと横目で桜を見る。
桜は気づいた様子もなく、
「あ、でもイリヤちゃんは相変わらずですけど──」
「ん……」
曖昧な返答。桜は気づいた様子もなく、はしゃいでいるようだ──
微笑を向け、両手を組んで前へと伸ばす。息と共に声を吐き出す。
「……ただでさえ色々あるんだから。元気よすぎるくらいがちょうどいいのよ、うん」
「え? あはは……」
困ったように笑う桜を確認してから、ボストンバッグを上げなおす。
人差し指を立ててから提案してみた。
「さて、というわけで早速元気分をチャージしたいところよね。……桜、アンタおいしい紅茶出してくれる店知ってる? あんまり遠くないのがいいんだけれど」
「紅茶、ですか?」
首をかしげて聞いてくる桜に頷いてみせて、雪道を進み始める。
「そう。まあ思いつきだけどね。でもまあ、冷えた体にはやっぱり暖かいものでしょ」
「あ、はい」
慌てて頷いてくる桜をちらりと見てから、斜め右に建っている小奇麗なカフェを指差した。
「で、差し当たってはあの店。わたしがいた頃にはなかったから、入ってみたいんだけど?」
「あ、花田舎ですか」
ああ、と頷く桜。
「はないなか?」
眉を潜めて聞くと、桜はくすっと笑って髪をかきあげた。
「名前がフラワー・アンド・カントリーだから、花田舎なんです。確かにあそこもおいしいんですけど……あ、でもまだ開いてないですよ」
「そっか。まだこんな時間だもんね」
頷き、時計を確認して──凛は眉を潜めた。うわ、と小さく呟いてから、
「桜、今何時? 時計アッチのに合わせたままだったわ」
「あ、はい。ええと……はいっ」
言って、自分の腕時計を凛の前に突き出す。
それを細目で見てから、凛は腕時計の時間を修正し始めた。
その様子を眺めながら、桜は控えめに提案した。
「ええと遠さ──姉さん、ちょっと遠いけど、もう開いている店があるんです。そこに行きませんか?」
「ん? ああ、いんじゃない? わたしは構わないけど」
「はいっ。じゃあ決まりです……っ!」
ぱん、と両手を合わせて桜は嬉しそうに頷いた。いそいそと先に進みながらくるりと振り返る。
「こっちです。あ、荷物持ちましょうか?」
「パス。このくらいなんてことないわ」
軽量化かけてるしね、とあっさりと言ったが、しかし桜は納得しなかったようだった。にこにこと笑いながら、妙に押しの強さを発揮して手を伸ばしてくる。
「遠慮しなくてもいいんですよ。姉さん長旅で疲れているでしょうし。そっちのトランクケースを──」
「ああ、駄目よ。これは本当に駄目。持つならこっちにしてくれる?」
はい、とボストンバックを顎で指し示す。桜は頷き、それを受け取った。よいしょ、っと小さく呟きながら──くすりと笑う。
「……な、なによ」
わずかに体を引く。眩しそうにこちらを見つめ、桜は笑った。
「いえ。なんだか遠坂先輩、大人っぽくなりましたね」
──そのせりふは完全に予想外。思わず足を止めて目をしばたいた。
慌ててそっぽを向くと、早足で歩き出す。
「あ、当たり前でしょそんなの。ちゃんとわたしだって成長してるんだから。それに――桜だって、その、綺麗になったみたいだし」
最後の方は、ぼそぼそとした声。
「はいっ、ありがとうございます」
眼を大きく輝かせて桜が詰め寄る。その胸元にぴっと指を突きつけて、投げやりに呻く。
「……また胸も大きくなったみたいだし? アンタ今バスト何センチあるのよ、ったく」
「え、えっと……」
困ったように笑って、まあいいじゃないですか、と進み始める桜。
それ以上追求するのはやめて、小さく笑ってからそれに続く。
――久しぶりの日本。出て行った時と同じような晴天とはいかなかったけれど。でも、出だしはそこまで悪いものではなさそうだった。