ぷにゆみ

 

 

 




プロローグ

 



“士郎、ごめんね……大好き、だよ”

 

──白い世界で聞こえたのは、その言葉。

白。

しろ。

シロ──

世界には何もない。

たったひとり、わたしだけ

違う……

遠くに、もうひとり

見慣れた背中が、ある

「────っ」

名前を呼んだつもりだった

けど、声が出なかった

体が動かない

──いかないで──

そう叫んだつもりだった

そうだ。叫ぼうとしたんだ、わたし

なんで──?

だって、わたしは、アイツとは別に──

「─────っ!」

 思わず、駈け出していた

 息があがる

 けど、いくら走っても、あいつの背中は遠いまま

 走っても、走っても、追いつかない

 ──振り向いてくれない

「──っ」

 足を止めて、叫んだ。

 それでも、あいつは振り向かない

「────っ!」

 さらに、大きく

 喉が痛くなるほどに強く、叫ぶ

「……………」

 あいつは、ようやく振り向いた

 ……どこか弱々しい、疲れた表情

 そして、あいつは。

「……ごめんな、凛」

 そう言って、再び、背中を向けてしまう──

「っ士郎────!」

 叫んで、思わず手を伸ばす──

 刹那。

「──っ、避けなさい、ミス遠坂──!」

 妙に切迫した誰かの声。

 思わず振りかえると──そこには、白いヒカリが溢れかえっていて──

 

 

 

1.  ひとまずお約束

 

「う……」

  唇から微かな吐息が漏れ、黒く艶やかな髪が頬にかかる。カーテンの隙間から零れ落ちる光に眉をしかめ、少女は唸り声を上げて寝返りをうった。

 人のあまり寄り付くことのない、洋館の二階──その一室。時刻はすでに8時を回っている。

「ん……」

 寝苦しいのか、わずらわしそうに手を振り、彼女は顔をしかめて再度寝返りをうった。無造作にシーツが払いのけられる。中から現れたのは、スレンダーな少女の肢体。黄色のネコがプリントされたパジャマに身を包んだ、黒髪の少女──

 遠坂凛である。

 「……う……?」

 ゆっくりと──非常にゆっくりとした動作で、重たそうに瞼を持ち上げる。

「……む〜」

 その視線だけで虫くらいなら殺せるのではないかと言うくらいに据わった眼差し。枕に顔を半分埋めたまま、(あかいあくま)は虚空を睨んでいる──。

「…………………。」

 そのままの体勢で固まること5秒、10秒、20秒……

「……………………………駄目。無理」

 力なく呟き、凛はかくりと枕の中に顔をうずめた。

 ちっ、ちっ、ちっ、かちっ──

 時計の音が静かな部屋に響き、そして。

「…………………………………………………っ!?」

 さらに十数秒後。ようやく我に返ったのか──彼女はがばりと身を起こした。青ざめ、引きつった顔のまま、慌てて自分の体を見回す。ぺたぺたと全身を触り、顔に触れ、最後に髪を掴み、鏡に向かって『ばっ!』と必死の形相で振り返り──

「……うん、うん。大丈夫。平気」

 胸をなでおろし、自分に言い聞かせるように何度もこくこくと頷きながら──凛は心底安堵したように呟いた。

「生きてる……わよね?」

 『はあ……』と安堵した表情を浮かべ、凛のろのろとベッドから這い出した。カーテンを開け、手を額へとかざし、眩しい朝の日差しに眉を細めながら、

「ったく、それにしても何なのよ、さっきの夢……」

 言って、深く嘆息する。それでも納得できないのか、なおもぶつぶつと呟きいている。

「訳わかんないじゃない。なんでわたしがあいつなんか──ん? そう言えば、なんか違和感が、あった、ような……?」

 んー? と首をかしげる。

 と──

 ぱたぱたぱたぱた……

 という廊下を走る足音が聞こえてきたかと思うと、

「さあ凛朝だ起きたまえ! ちなみに起きないのなら起きるまで添い寝だ! と言うわけでどうせ起きてるはずもないのだからさあいざゆかん理想郷の彼方へ──!」

 『どばんっ!』と扉が勢いよく開き、そこからアーチャーが甲高い声と共に入ってくる。

……凛は半眼のまま振り返った。

  アーチャー。いや、かつてアーチャーだった者だ──と凛は嘆息した。確かに身に着けている服もアクセサリーも肌の色もほぼ同じ。ただ、決定的に違う点が一つある。

「………むう、起きていたとはな。どうした凛、君らしくもない」

 明らかな失望と困惑の表情を浮かべて近づいてくるのは。

 ──どこからどう見ても、14(・・)5歳の女の子(・・・・・・)である──。

「……じゃ……い……」

 俯いたまま、低く凛は呟いた。

 アーチャーは微かに眉をしかめ、聞き返す。

「……? すまないが何か言ったかね、凛。よく聞こえな──」

 そして凛は『がばっ!』と顔を上げると、いつの間にか手にしていた金属バットを振りかぶり、フルスイングで叩きつける──

「夢だったらよかったのになって思っただけよこんちくしょー!」

 刹那、『がしゃーん!』と言う音と共に、遠坂邸の二階の窓が割れ、

「なぜええええええええっ!?」

 と叫びながら、血まみれになったアーチャーが、落下していった──










 

.“アーチャー”

 

「いきなりなにをするのだね凛! 痛いではないか!」

 頭から盛大にだくだくと血を流しつつ抗議しているのは、窓にへばりついている小柄な少女──アーチャーである。どうやら一旦庭に放り出されてから、ここまで這い上がってきたらしい。

「その割には元気そうねアンタ」

 半眼で呻き、凛は目の前の元サーヴァント(・・・・・・・)に目を通す──

──“アーチャー”。

 身長は150センチよりわずかに高いくらいであり、つまり凛よりも背は低い。細身の体は、以前の筋骨隆々とした面影は皆無である。一応髪の色こそ以前のままだが、はっきりと言ってしまえば凛よりも華奢な感がある。胸もお世辞にもあるとは言えない──むしろない。凛ほどにない。本人は喜んでいたようではあるが。

 やや幼さの残った顔は、黙ってさえいれば十分に美少女で通用するだろう。ボーイッシュ、と言うよりも中世的な顔立ちには、年相応の幼さと、言いようの無い妖しさが同居している。凛が寝起きでなく、アーチャーが血まみれでなければ相当に見栄えのする絵になったに違いない。

 服装は基本的には以前のものと同じではあるが、細部は異なるようだった。まず黒の軽革鎧は胸鎧のみになっており、腹部には衣類はなく肌が丸出しとなっている。赤い外套は以前に比べかなりその面積を減らしているようだ。その代わりと言うわけではないだろうが、チェーンなどの装飾品が増えている。パンツは以前の通り黒。さすがにスカートははかないらしい。靴もサイズが変わっただけで形そのものは変わっていない。

そして最後に──彼女の胸元には、二つの赤いペンダントが提がっていた。

 半眼で呻く凛に、アーチャーは爽やかに笑いつつ、

「そうでもないぞ。血が止まらなくて少々困っているところだ」

「あーもー……にしても……はぁ」

 凛はうんざりしたように顔をしかめると、嘆息した。

「……ったく、なんでこうなるんだか」

 はあ──と盛大な嘆息を撒き散らしつつ、凛は頬杖を付く。

「だめ。やっぱりまだ見慣れないわ。全く、調子出ないじゃない」

 どうしてくれんのよ、とばかりに睨みつける凛に、アーチャーは未だだくだくと血が流れ続けている自分の顔を指差してみせる。床に広がる赤の量は控えめに見ても致命的なようではあるが。

「……これでかね……?」

 それに対し凛はそうよ、ときっぱりと頷き、そしてがあーと叫んだ。

「大体っ! 何なのよその格好! なによ女の子になっちゃいました──ってのは!」

 するとアーチャーはぱちくりと目をしばたいた。自分の姿を見下ろし、血を撒き散らしつつ朗らかに笑って、

「……萌えるだろう?」

「やかましいわああああああああっ!」

 叫ぶと同時、再びバットを引っ掴み──

「だから、なぜだああああああああああああっ!?」

 『がちゃーん!』と言う音と共に、本日二枚目の窓ガラスが砕け散った──






 

3.そもそもの目的

 

「だから痛いではないか!」

 全身にガラスを刺し、だくだくと流血しながら抗議するアーチャーに、凛はきっぱりと、

「知るか!」

「言い切るのかねっ!?」

 たまらず叫ぶアーチャーを睨みつけ、息を吸い込んで何かを言いかけてから──凛はがくりと肩を落とした。ぶつぶつと唸りながら口の中の言葉を噛み殺す。

 かぶりを振り、気持ちを落ち着けるために外を見やる。

──日曜の朝だからなのだろうか、町は未だ寝静まっているようだ。時計を確認し、うげ、と呻く──普段ならばまだまだ寝ている時間だった。僅かに肌寒いのもそのためなのか──、とぼんやりと納得し、とりあえず肩を抱く。

 ぼすん、とベッドに腰掛け、深く嘆息。

「ああ、もう……朝っぱらから……」

言いつつ、ちらりとアーチャーの顔を見やる。

「……ん?」

少女は未だ鮮血まみれのまま、きょとんと見つめ返している──

「……う」

 ひくっ。

 僅かに頬を引きつらせながら、それでも凛はさっと目を逸らした。

(か、可愛いってことは──まあ、認めなくちゃいけないかもしれない、けど……)

 その頬が、わずかに赤らんでいるのに気付いていないのは本人だけだろう。

(でもやっぱり中身はアイツで──で、でもアイツもなんだかその、この前から、ええと……うううう)

 ぐるぐると思考の迷路にはまったように、凛は頭を抱えて唸っている。

「ええと、凛? どうしたのかね?」

 困ったように、ややおずおずと笑う少女。『はっ』と我に返ったのか、凛はきっとアーチャーを睨みつけると、口早に問い詰める。

「……だ、大体アーチャー貴女、前回からずっとそのままじゃない。いつまでその格好でいるのよっ」

 すると彼女は困ったように眉根を下げて、

「……しかしそんなことを言われてもな。元に戻る方法もわからないのだし、正直どうしようもないだろう。むしろこうなってしまったらこうなってしまったで、開き直っていくスタンスこそが大事なのであって!」

 ぐぐっと拳を握って力説するアーチャー。力が入ったためか、頭からぴゅーと血が再び噴き出し始めているのだが。

 凛はその様子をぼんやりと眺めていたが、やがて嘆息すると、

「常に前向きじゃないアンタ。駄目な方向に」

「はっはっは。言っている意味がよくわからんな」

 アーチャーは朗らかに笑うと、

「……前回と言えば、凛」

と、唐突に真剣な表情を浮かべ、じっと凛を見据えた。

「な、なによ……?」

 反射的に後ずさりをしながら、慎重に聞き返す。

「いや、何──」

 曖昧に手を振って見せながら、アーチャーはふむ、と呟き、さらにじろじろと凛を見つめる──。

「だ、だから何だって……」

 たじろぐ凛に、アーチャーは手を口元に当て、内緒話をするようにしてこっそりと尋ねてくる──

「胸は……おっきくなったのかね?」

「なってないわよこんちくしょー!」

 言うなり、何やら色々な感情が織り交ぜられた渾身の一撃がアーチャーの頭蓋を捕らえ──

「三回目──!?」

 と言う絶叫ごと、赤い弓兵の姿が大空に舞い上がった。






4.温度差

 

「と、とりあえず凛、そろそろバットは勘弁して欲しいのだが……」

 ふらふらと頭を揺らしながら、アーチャーがのろくさと部屋の扉を開けて入ってきた。全身血まみれの少女と言うのもそうはいないだろうが。

「なんか自分で言うのもアレだけどなんで生きてんのよあんた」

 じとっと半眼で呻いて腕を組む凛に、はっはっはとアーチャーは朗らかに笑ってみせて、

「うむ、自分でもさっぱりだ」

「…………あっそ。」

 半眼で唸り、嘆息。

 とん──と足で床を叩いてから、彼女は押し殺したため息をついた。

「……どうすればいいのかしら。ねえアーチャー、貴女はどう思う?」

 アーチャーはうむ、と大きく頷くと、

「そうだな。前向きに生きればいいと思うぞ?」

「……アンタのそのどうしようもないほどに捻じくれ曲がったアタマの中身の話じゃなくってね? どうすれば元に戻れるのかを考えなさいって言ってるのよ?」

 笑顔のまま、ぐりぐりとアーチャーの足を踏みつけながら、凛は爽やかに告げた。

「し、しかしだな──」

 鈍痛に顔を歪めながらも、それでもアーチャーは足をそのままにして続けた。

「か、考えろと言われても、原因がそもそもイレギュラーなのだからして……何がなんだかさっぱりなのだが……」

「む、まあそうかもしれないけど。……でも、うーん…………」

 眉を寄せつつ、ぶつぶつと呟きながら凛は部屋を回り始めた。

 アーチャーはその様子をしばらく眺めていたが、やがて『はっ』と顔をあげると、『ばっ!』と壁の時計を凝視した。踏まれた体勢はそのままに、そっと手を挙げる。

「え、ええとだな凛。ちょっといいか?」

「…………何よ。何か思いついたの?」

 ぶんぶんとバットを振り回しつつ、凛は慎重に尋ねる。

 そうではなくて──とアーチャーは、ぴっと指を立てて、とびっきりの笑顔を見せた。

「考えるのも大事だが、何、まだ朝だ。頭もろくに回転しないだろう。だからひとまず──下に行って朝ごはんでも食べるというのはどうかな?」

「………………アンタ……戻る気ないでしょ……」

 そう言って、凛はしくしくと涙したのだった。






5.性別:女

 

「じゃあ、ほら。着替えてから行くから」

 言ってしっしっ、と手を振る凛。

 しかしアーチャーは満面の笑みを浮かべたまま、

「何、女同士だし問題ないだろう?」

 そう──さらりと言い切った。

「…………………。」

 凛は半眼で、ただ黙ったままアーチャーの顔を凝視している。が。

「……アーチャー。着替えるから、出て行きなさい?」

「何、女同士だし問題ないだろう?」

 アーチャーは繰り返した。

 ……ひくり。

凛のこめかみが引きつった。それでもぐっと堪え、エガオを浮かべて彼女は繰り返す。

「……アーチャー? 最後よ。出て行きなさい。さもないと──わかるわよね?」

「大丈夫だ、凛」

 ぽん、と。朗らかに笑いつつ彼女は凛の肩に手を置いた。

「……? 何がよ」

 眉をひそめる凛に、アーチャーはいやなに、と呟きながら、

「メイド服だったり裸だったりと君の体は先日の件ですでにインプット済みだ。だから何、今更恥ずかしがる必要などないわけで──」

 ご・ぎんっ!

 朗らかに笑う表情そのまま、アーチャーの首が一瞬で折れ曲がった。冗談のようにかっきり90度横に倒れているその頭の先には──、刹那の速度で振り抜かれた金属バットが朝日を浴びて鈍く光っている──。

「ああ、そう、なんだ──?」

 ぎしり。金属バットを握り締め。顔と耳を真っ赤に染めつつ哄笑(わら)うのは、あかいあくま──。

その背後には何やらドス黒いオーラのようなものが立ち上り。その瞳は怒りのためか、それとも他の何かなのか、爛々と輝いている──

「なら、もう! インプットしちゃった脳ごと壊すしかないわよね────!?」

 言って、怒れる断罪者は何のためらいもなく全力でバットを振りかぶり──

「あああああああああああああああっ!?」

 アーチャーの甲高い声と、やたら鈍い破壊音が屋敷に響き渡った──






6.彼女の想い

 

「ったく、何でこうなるんだか──!」

 ぼすんっ。

 勢いよくベットに身を投げ出し、凛は吐き捨てた。

俯いた体勢から、半回転して仰向けになる。ちらりと一瞬扉の方へと視線を送る──が、その先には誰の姿もない。アーチャーは先ほど廊下へと放り捨てたために、今この部屋にいるのは彼女だけだ。

嘆息。思い切り両腕を伸ばし──それから大きく振って、その勢いで上半身を起こす。

「ふう──」

 息を吐き、のろのろと服のボタンを外し始めた。

「そりゃあ、まあ、元に戻れたことは嬉しいけど……」

 黄色のネコがプリントされたパジャマが、無造作に脱ぎ捨てられる。

「んしょっ」

 頭から赤の上着をかぶりつつ、凛は嘆息する。

「女の子、かあ……──そうよね、見た目だけなら、ううん、生物学的に言ったってどこからどう見たって……うん、それに、可愛いし」

 最後のほうは、僅かにその頬を染めて。

「……でも。何だかんだ言ってもわたしのせいでああなっちゃったんだし……」

 うなじに手を当て、服の中からさっと髪を引き出しながら──唐突に半眼になり、呻く。

「…………なんか全っ然悩んでなさそうなのが思いっきり引っかかるけど……ああ、本当、どうしたもんだかなあ……もう結構経つのよねえ、そう言えば……」

 ばさ──もう一枚、パジャマがベットの上に広がる。

黒髪を翻し、彼女はスカートにさっと足を通した。ジッパーを上げ、鏡の前で見出しなみをチェック。髪はまだ何も手をつけていないが、とりあえず服装に関しては問題はない──いつも通りの格好だ。

「……んー……まあ、後でいっかな……」

 くるりと指に黒髪を絡ませつつ、そんなことを呻いている、

「ふぁ……喉乾いたわね……」

 あふ、と口の端から欠伸を漏らしつつ、彼女はすたすたと歩き──そして扉のノブを回した。






7.Answer

 

 カチャッ──

 部屋の扉が開き、廊下へと出てきたのは凛だった。いつもの私服に身を包んでいるが、髪は下ろしたままである。彼女は艶やかな黒髪をさっとかきあげながら、ちらりと視線を上げて──

「………………アー、チャー?」

「……あ。」

 そして。何故か壁にべったりと耳を当てて張り付いているアーチャーと目が合った。

「…………………。」

「…………………。」

 沈黙。重苦しい静寂が廊下を包み込む──

「アーチャー? 一応聞いてもいいかしら」

 ぽんっ、と。すでにぐねぐねに折れ曲がり、血まみれになったバットを手の中で弄びつつ、凛は尋ねた。先ほど作った笑顔を残したままで。

「な、なにかな?」

 顔を引きつらせつつ、アーチャーは聞き返した。

「なに、やってたの?」

 赤い少女は、『てへっ』という感じに肩を竦めると──またこれが妙に似合っているのがさらに勘に触るのだが──、

「うむ。着替えの音を聞いて悶えていたわけだが。」

 返答は、ひどく素直で真っ直ぐだった。そして。

「前よりひどくなって来てるじゃないのこの変態────っ!」

 彼女の顔の真ん中に、バットがめり込んだ。

 

 

 

8.同レベル

 

「おおおおおおお……」

 ぼたぼたと鼻血を垂らしつつ、アーチャーが悶絶する。

 凛はその横をすたすたと通り過ぎつつ、

「ったく。本当バカなんだから……」

 ぶつぶつと文句を零し、廊下を進もうとする。

「ま、待ちたまえ、凛……」

「ん? なによ」

 よろよろと身を起こしつつ、アーチャーは立ち上がった。ぼたぼたと顔の下半分が血にまみれているが。ともあれ彼女はびっと指を突きつけると、

「大体あれだ、中身はこの際置いておいて、今の私は女の子なのだぞっ!?」

「……そ、そうね」

 勢いに押されつつ、頷く凛。

 アーチャーはぶんぶかと拳を振り回しながら、

「こんなか弱い体を痛めつけることに罪悪感はないのかねっ?!」

「だって中身アンタじゃない」

 凛は即答した。

「だからそれは置いておくとしてだ!」

「…………んー、でも」

 んー、と顎に手を当てながら、凛は。

「悶える女の子って、素敵よね?」

 頬に手を当て、うっとりと目を潤ませながら──言い切る。

「君も君で、色々とだめだな……………」

 がっくりと肩を落とし──、アーチャーはそう呻いた。






 

9.デメリット

 

「にしても……」

 とん──と床を爪先で叩き、凛はふむと呟いた。上から下までじろじろと無遠慮にアーチャーを見回していく。

 ──現在のアーチャーの容姿は、黙っていれば誰がどう見ても少女のそれである。

(そうよね、どっからどう見たって……ううん、実際女の子になってるわけだし。服装は相変わらずアレだけど……)

「り、凛……?」

 じろじろと見られ、居心地悪そうにしながら呻き声をあげるアーチャー。

(もったいないわよね。折角可愛くなってるんだからもっと着飾れば──)

「って、あ、そっか」

 唐突に声をあげ、ぽんと手を打つ凛。

「な、なにかね。と言うかあれか、これが世に言う視姦プレ──」

 さくっ──。

「アーチャー、貴女着替えなさい」

 どこからともなく取り出したカッターを無造作にアーチャーの眉間にきっぱりと突き刺し、しかし声色はかけらも変えないまま凛は告げた。

「は?」

 そしてまたアーチャも、顔の真ん中に刃物をぶら下げたままごく普通に聞き返した。

 凛はくるくると指を回しながら、

「だから、服よ。その格好じゃ目立つでしょ。ただでさえ霊体化出来なくなってるんだし、もっと普通の格好でいたほうがいいわ」

 そのほうが街も歩きやすいしね、と凛は笑う。

「い、いやしかしだね──」

 言いながら、顔を引きつらさせてアーチャーは一歩背後へと後ずさる──が、すぐに凛は詰め寄り、ぴっと指を立てた。

「いいからいいから。せっかく女になったんだから、着替えなきゃ損でしょ」

「い、いや私はこれで十分だから──」

「あら、逆らったって無駄だってこと、もうわかってるんでしょう──?」

 言い切り、凛が妖艶な笑みを浮かべながら一歩近寄る。うふふふ──と楽しんですらいるような含み笑い。アーチャーは本能的に顔を引きつらせて後ずさり。

「そうね。貴女の言ってたことも一理あるわ──折角女の子になったんですものね、楽しまなきゃ損ってもんだわ」

が──、その眼前に掌が突き出された。

「ま、まった凛、待ちたまえ」

 渋面を作り、アーチャーは息を吐き出しながらそう告げた。こめかみを押さえつつ、続ける。

「……わかった、私の服装についてはまた後で考えるとしてだ──、今はもっと先にやるべきことがあるだろう?」

「なにが?」

 わからない、と言うように首をかしげる凛に、アーチャーはそっと近寄り耳打ちした。

「……何がではないだろうに……。ほら、凛」

 言いつつ、そっと彼女の髪を持ち上げ、さらさらと下へと流す──

「全く……ツインテールにするのを忘れているぞ」

「ソッチのほうが重要度高いのかあんたは──!?」

 横にあったアーチャーの頭にどこからともなく取り出したハリセンを『すぱーん!』と叩き込み、凛はふんと鼻を鳴らした。

「ったく、本当にお気楽よね!」

「何を言うか!」

 唐突にがばりと身を起こし、アーチャーはばっと手を振って抗議した。

「これでも私なりに悲しんだり見つめたり触ったり喜んだり揉んだり萌えたりはっちゃけたりと大忙しなのだぞっ!?」

「なんか大部分いいことずくめじゃない!」

「そんなことは……ないさ」

 叫ぶ凛。アーチャーは自嘲するように目を伏せる。(うれ)うかのような口調で一人ごちる──。

「この体では──色々と不便なのでな……」

「……例えば?」

 とんとんとハリセンで肩を叩いて半眼で尋ねる凛に、アーチャーは『ぽっ』と頬を染めつつ、

「風呂に入ろうにも溢れる鼻血でどうにもならんこととか。」

「あー、もー」

 唸りつつ、凛はハリセンを握りなおし、

「聞いたわたしが莫迦だったわよー!」

 アッパースイング気味の一閃が、アーチャーの顎を打ち上げた──。






 

10.ゆるやかな時間

 

 場所は再び凛の部屋へと戻る──。

「……まあ、可愛いのは認めるわよ」

 ぼんやりと椅子に座りながら、目の前に置いてある鏡ごしにアーチャーをみやる。

「そ、そうかね」

 一方アーチャーは微妙な表情で、凛の髪に櫛を入れていた。

「……でもね? 一応元男として、その全く悩んでいない態度はどうかと思うのよっ」

 拗ねたように口を尖らす凛に、アーチャーは優しく言い含める。

「何を言うか。さっきも言っただろう、悩ましげな毎日でほとほと困り果ててているところさ」

「……絶対意味合いが違うと思うわ……」

 ──とりあえずアンタそこまで言うならわたしの髪セットしなさい、と凛が言ったのが五分前。予想通りアーチャーは目を輝かせ、懇切丁寧に髪に櫛をいれているのだが──

(……そう言えば、こんなコトさせるの、始めてよね……)

──髪に触らせるなんて。自分でも驚くほどの心境の変化。いや、変化と言うよりは、むしろ──。

(ったく、何がそんなに楽しいんだか──……)

にこにこと楽しそうに手入れしているアーチャーの姿を、ぼんやりと眺める。

(まあ、でも──悪い気分じゃない、か……)

 ──目を閉じる。口元にはいつの間にか自然な笑み。

(こんな時間を過ごすのも──悪く……は……)

「……よし、出来たぞ凛。完璧だ」

 その言葉に、すっと瞼を持ち上げる。鏡の中には、一部も隙のないツインテールとなった自分の顔。

(……何よ。わたしがやるより上手じゃない……)

 妙に複雑な思いを抱きつつ、鏡越しに視線をあげる──そこには、満足げににこにこと笑うアーチャー。

(ああもう、こいつは……)

 苦笑だった。

 苦笑──するしかない。

「……ん、ありがと」

 短くそう言い、立ち上がる。

「はっはっは。何、このくらいのことだったら毎日でもやらさせてもらうぞ?」

「ふうん? じゃあ本当に頼むことになるかもしれないわね──」

 くすり──と小さく笑いながら、凛はアーチャーの肩に手をかけた。ん? と彼女が見返すよりも早く、無造作にその背中を押し、椅子に腰掛けさせる。

「り、凛?」

 不思議そうに見上げてくるアーチャーに、凛はああもう、と苦笑する。

「……アンタも今は女の子なんだから、ちょっとは手入れしなさい。何よそのぼさぼさ頭」

 むう、と唸るアーチャーの頭を掴み、正面に向かせる。

「ほおら、動くんじゃないっ」

「あ、ああ……」

 鏡の中には、戸惑ったような表情の少女。

「さてと。どんな風にしたい?」

「……よくわからないからな。凛に任せるよ」

 尋ねると、アーチャーは困ったように凛を見上げた。

「そ? オーケイ、じゃあとびっきり可愛くセットしてあげるんだから──」

 言って櫛を手に取り、凛は笑う。

 ──朝の一時。穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく──。







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