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6章 / skyblue,skyever

 

 

 

 

 

 

T

 

 

 

「あの剣は……」

閃光に包まれる世界の中──バゼットは、それでも眼を見張っていた。

剣が……ゆっくりと宙を降りていく。

その下にいるのは、衛宮士郎。

血にまみれて、傷だらけになって、しかしなお瞳の輝きは失っていない男の手の中に──剣が、静かに収まっていく……

その指が、剣の柄をしっかりと握りしめる。

 

しん……………

 

音が消えた、と思った。

静寂に包まれた世界の中、鏡剣を手に取り、男は静かに目を閉じる。

 

 どくん──

 

 低く重い音が──響く。

「なん……だ?」

 慌てて周囲を見渡す。

 地震──とも違う。まるでこの世界そのものが震えているような……

 

 どくん……………

 

 それは……鼓動だった。

 止まっていた世界が、再び動き出した証だった。

 

 どくん────────────

 

 音が次第に、強くなっていく。

 世界が、鼓動に打ち震える。

 何度も何度も、繰り返して。

 まるで何かを──待ち望むかのように。

 そして、その中で。

 

 すっ……………

 

 衛宮士郎は──ゆっくりと、眼を開いた。

 瞬間。

 

 ─────────────────────────────っ!

 

 音にならない音が、世界を包み込んだ。

ともすれば音ですらなかったかもしれないそれは、言わば指揮者の振るう指揮棒のようなもの。

それが始まりの合図となり、世界は姿を変えていく──。

 

 ごごぉぉ…………………………ん

 

 歯車がゆっくりと重々しく動きだし、

 

 ざざざざざぁ────────────っ

 

 黒い大地は一瞬にして草原へと変わっていて、

 

ぎんぎんぎんぎんぎんぎぎぎぎっぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ────────っ!

 

黒塵を振り払い、剣が次々と虚空から出現していく──

錆びてもいない。

折れてもいない。

あるべき姿となった剣──

一本、

また一本。

輝きを取り戻した剣が、爆発的な速度で世界へと生まれ落ちていく──

 

そして、最後に。

 

 がしゃああああああああああぁぁ────────────んっ!

 

空が──、割れた。

血まみれのソラが砕け散り、

青い、

澄み渡った晴天が広がる──。

「これは……」

思わず……バゼットは、青空を見上げていた。

蒼い──どこまでも青い空。

一点の曇もない純粋な青がそこにある。

衛宮士郎に関して事前に渡された資料には、こんなモノはなかった。

彼の固有結界は、夕焼けの空だったはずだ。 

だとすれば、これは何だと言うのだ。

単純に、元の衛宮士郎に戻っただけではないと言うのか──?

「士郎、君……?」

 恐る恐る、バゼットは足を踏み出し……一歩士郎へと近づいた。

「…………」

 士郎は無言のまま。その背中は、もう傷がない箇所はどこにもないほどにぼろぼろになっている。

「士郎君──」

 ふいに何か、衝動的に焦燥感に駆られて、もう一度呼びかけた。

「……バゼット」

 そうして、男はゆっくりと振り返る。

 光を背に、傷だらけの男は、ほんの少し──眉根を寄せていた。申し訳なさそうな、気恥ずかしそうな、そんな表情。

「……色々、迷惑かけたよな」

 言って瞳を陰らせる。

「本当、ごめんな。それから──」

 苦笑のような、自嘲のようなその笑みは。

 

「────ただいま」

 

 それでも、清々しいものだった。

 

 

 

 

 

 

U

 

 

「何、和んでやがる……」

 うめくような声で、我に返る。

「まだ……終わっちゃ、いねえ……っ!」

 暗殺者は必死に身を起こそうと体を持ち上げる。

 士郎は男へと向きなおり──ゆっくり静かに、告げる。

「……もう、やめよう。もう……夢は覚めるべきだ」

 

 ずっ………ずずずっ──

 

 バゼットは、その光景をただ見続けていた。

青い空の下、全ての剣が浮き上がり、

 その刃を暗殺者へと向け、囲っている──

 赤い光が、舞い散っている。

 かつて空だったものが砕け散り、粉と化して。

 ひらひらと、それは舞い落ちる。

それは、まるで、雪のように。

 静寂──

 二人の男は、見合ったまま。

「………………ふん」

 暗殺者は──ようやく口を開いた。

「糞が──サイアクじゃねえか。なんだよ、これよぉ。もうどこにも、俺の存在する余地なんざ、ありゃしねえ……」

 男はそう言い捨てて、剣を無造作に放り捨てた。降参だとばかりに、肩を竦めて一言、

「──────やれよ」

 その言葉に──しかし士郎は反応しない。

 剣たちも、動かない。

 止まった世界の中、暗殺者はじれたように叫んだ。

「やれっつってんだ! さっさと殺せよセイギノミカタさんよお!」

嫌だ(・・)

 ──その答えは、即答だった。

 あまりにも迷いがなく呟かれたため、バゼットは一瞬それがどういう意味なのか、本気でわからなかった。

「………………………………………………は?」

 ぽかんと口を開けて、暗殺者は硬直した。

 士郎は剣を降ろすと暗殺者に向けて尋ねた。

「なあ、お前。願いの上書きって言うのは、出来ないのか?」

「……なんでそんなコトを聞く?」

 質問の真意が理解できないのか、暗殺者は慎重にそろそろと尋ねた。簡単なことだ、と士郎は前置きしてから、

「アンタが俺を殺そうとするのは、例え間違いだとしても、俺がそう願ってしまったからなんだろ。だったらアンタだって被害者みたいなもんじゃないか。それに、その願いを消せば、アンタが俺を殺す必要はなくなる──そうすれば、俺だってアンタを倒す必要はなくなるだろ?」

「……てめえ、まさか」

 頬を引き攣らせて、暗殺者が呻くが──それは自分も同じだった。

「まさか、士郎君──」

 この男。

 衛宮士郎と言う男は。

「……俺は(・・)アンタも(・・・・)助けたい(・・・・)

 迷いなく、言い切った。

「……………………………はっ」

 息が漏れたのは──暗殺者の口からだった。

 かぶりを振り、頭に手を当て、そして笑う。

「はは──ははははははははははっ! 傑作だなあ、おい! 叶え手を助けたい? 助けたいっつたのか、えぇ!?  ──なんだそりゃあよお、ふざけてんのか!?」

 噛みつかんばかりの勢いだが、士郎は平然としたまま、

「なんでさ。そうだ──だってそうだろ。誰かを助けたいって思うのは、そんなに変なことなのか?」

「てめえ性格と一緒に記憶まで吹っ飛んだんじゃねえのか!? ついさっきまで俺たちは殺し合っていたんだぞ!?」

「そうだな」

 士郎はあっさりと頷いた。

 そして。

「でも、だから何だって言うんだ」

「………………………」

 最早呆れを通り越して、暗殺者は絶句したようだった。

 ありえねえ、と言う呟きが聞こえてくる。

「どうなんだ──出来るのか?」

 士郎の再度の質問に、ようやく暗殺者はのろのろと口を開いた。

「……ふん、まあ確かに可能だがな。願いの更新は、鏡に姿を映して剣に血を垂らした後に口に出して願いを言う──要するに一回目の時と同じことをすりゃあいい。年月が経って心変わりすることなんざ珍しいことじゃねえからな。ちなみにその場合は本体に保存されている願いは一旦消える。こいつは年月が経っていた場合は容姿が変化していることが予想されるために、その矛盾を解消するためだ」

 そして、挑戦的に士郎を睨みつける。

「あとついでに言えば、俺達は願いを叶えた瞬間に消える。わかるか? つまり俺がエミヤシロウの死を願われて生まれた以上、願いを更新すれば俺っつー人格は消えるし、願いを叶えた瞬間に俺は消えてそん時はアンタも死んでる。俺を生かしきりたいってんなら、アンタが生き続けて俺がアンタを狙うって言うこの構図をずっと維持しなくちゃなんねえ──」

 嘲笑うかのような口調に、士郎は真剣な眼差しのまま頷いた。

「そうか。──うん、じゃあ、それでいこう」

 その言葉もまた、あっさりと紡がれた。

 ひくり──と暗殺者の頬が再度引き攣る。

「……えらく簡単に言ってくれるがなあ。俺たちにとって願いを叶えるように行動するってのは生命活動を行うくらい当然のことなんだよ。喉が乾いたとか眠りたいとかいう思いと同列に俺はお前を殺したがっているんだ。今こうしている間だってだ!」

「なら、それでもいいさ」

 平然と士郎は頷き、暗殺者は眼を?く。

「な──にぃ……?」

 士郎は暗殺者を見据えて、宣言する。

「それでも──俺は、お前を、殺さない。それから、当たり前だけど殺されるつもりもない」

 もう、頭を抱えるしかない。

 信じられねえ、と暗殺者はそれでもなんとか呻いた。

「はは……っ。本当──コイツ、馬っ鹿じゃねえの? そんな我儘だらけのもんが通るとでも思ってるのかよ……?」

「願いの叶え手なんだろ。そのくらいどうにかしろ」

「はあ……なんだよ、これ……もう訳わかんねえ……」

「まあ、それが──」

 言いつつ、士郎と暗殺者を交互に見据え、そしてバゼットは嘆息した。目で士郎へと問いかけながら、

「それが、この男だってことなんでしょう。ねえ、士郎君?」

「バゼット……色々……迷惑、かけたな」

 眼を伏せ、ぽつりと、申し訳なさそうに呟かれた一言だった。

「全くです。帰ったら説教はたっぷりさせてもらいますからね?」

「……ああ、覚悟しておく」

 そして、お互い苦笑する。

「……あーあ。なんつーか本気でサイアクだな。やる気完っ璧になくなりました。もう勝手にしてくれって感じだ」

 ぽつんと置いてけぼりにされた暗殺者が、所在なさそうに零している。

「……ああ、そうだ──どうせもう勝てねえだろうしいいコト教えてやる」

 と。何の気なしに暗殺者は呟いた。

「そっちの奴はとっくに気づいてるんだろうけどよ」

 と、こちらに視線を振ってくる。

「?」

 視線だけで問いかけると、暗殺者は引きつった笑いを浮かべて見せた。

「俺たちは所詮幻影だ──ホンモノじゃねえ。だがな、この部屋だけは別だぜ? その傷も、その腕もだ! 全部現実として反映される! どうせ夢だなんて思ってるんじゃねえぞ! その痛みは全部本物だ!」

「──当たり前だ」

 士郎は、寸断挟まず告げた。

「……………あぁ?」

 暗殺者は眉をしかめる。──とは言え、薄々予感はしていた。わざわざこの空間に呼び出したのだ、当然何らかの罠はあるのだろうとは思っていたが──そういうことか。

夢の一言で(・・・・・)この出来事を片づけてなんかたまるか(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。俺は──そうでなくちゃ、困るんだ」

 士郎は、重々しく告げる。

 ──強い。この士郎は、強い。何がふっきれたのかはわからないが──どこかで自分の死を望んでいた今までの衛宮士郎などではない。あったこと全てを事実として捉え。それでもなお前へと進もうとする──言葉で言うのは簡単だが、そうそう出来ることではないはずだ……

 どうやら決定的な事実を告げたつもりが、逆に仇となったらしい。暗殺者は顔をしかめ──そして続ける言葉を持たないことに気づいたのか、押し黙った。

「……………」

 剣すら音をたてない。

 世界は静まり返っている。

 バゼットもまた動けない── 

「……ああ、そうだ」

 沈黙を打ち破ったのは──他ならぬ暗殺者だった。

「さっきも言ったが、俺たちは願いを叶えたら消えちまう。逆に言えば、願いを叶えきるまでは消えねえんだ。けど──例外もある。願われた内容が本人に実現不可能と判断された場合は、叶え手は自身の手でそれを終了させることが可能でね。まあ、それも本体に他の願いがストックされている場合に限るんだが。基本的には諦めないのを前提に行動してるんだが──けどまあ、無理なもんはどう足掻いたって無理だろう? だからまあ、効率よくやっていきましょうぜってことらしいんだが──」

 言いつつ、男はその手に剣を生み出した。

 その口元には、苦笑。

 あきれ果てたような、しかしどこか清々しさもある、笑み。

「どうも、どうやったところで、もう俺にはアンタを殺せないみたいだ」

「な──待て──!」

 暗殺者のやろうとしていることに気づいたのか、慌てて士郎が踏み出す──

 だが。

「──やだね。アンタに少しでも後悔させてやんねえと、俺の気が済まねえ。だから、もうここで、終わりなんだよ」

 嘲るように口を歪め、男は言い捨て、

「──あばよ、エミヤシロウ──せいぜい生きて苦しみやがれ」

 手にした剣を、自分の喉元へと突き立てた──

 

 

 

 

 

 

V

 

 

 

 固有結界が消滅した時にはもう、暗殺者の姿はどこにも残っていなかった。後には士郎とバゼットの二人の姿のみ。

洞窟内はぼろぼろになっていた──張り巡らされていた鏡はそのほとんどが粉々に砕かれ、床に散らばっている。再奥に置かれていた鏡も同様だった。ひび割れ、鏡面はその半分ほどが失われている。

 さぁぁぁ……

 遠くから、雨の音が聞こえてくる。

 まるでそれまでの時間を押し流すかのような、冷たい雨の音。

 静寂──

「終わったんです、ね……」

 確かめるように慎重に──呟く。

「………………」

 士郎は返事をしない、悔やむように、壁の一点を見続けている。

 そこは、つい先ほどまで暗殺者が立っていた場所だった。誰もいない──何も、ない。溢れたはずの血すら残さず、あの暗殺者は消えていた。

(……成程。確かに士郎君に悔恨を残すことには成功した、と言うことですか……しかし、それでも、終わったんだ。これで、全部……)

 多少後味の悪いものになってしまったことは否めないが、もうこれ以上は何もないのだから。だから、これで、終わり。

 ならば、自分が告げるべき言葉は。

「帰りましょう、士郎君」

 そっと、触れるか触れないかと言うところまで手を伸ばし、止める。

「……士郎君」 

 再度促すと、士郎はようやく頷いた。

「……そうだな」

 じゃり、と鏡の破片が靴によって踏み潰される。

 出口へと向かってのろのろと歩きだした士郎の背中を見送りつつ、バゼットはこっそりと嘆息した。

心ここにあらず、と言った感じの士郎の背中は、ひどく頼りない。

「──あの!」

 気づけば、バゼットはもう一度士郎を呼びとめていた。

「……?」

 不審げな眼差しを向けてくる士郎へと向かい、おずおずと、尋ねる。

「本当に……士郎君、なんですよね? 元に……戻ったんですよね……?」

「……大丈夫だよ、バゼット」

 士郎は、ゆっくりと笑う。しっかりと、そして少しばかり寂しげに。

「俺は、幻じゃないからさ」

 それは、以前のような皮肉めいたものではなく。

 衛宮士郎としての、笑顔だった。

「あ……はいっ!」

 弾かれたように、バゼットもまた笑う。

 再び背中を向けた士郎を追いかけようと、足を踏み出し──

 

 ──ふっ……

 

 その目の前を、小さな光が一粒、通り過ぎた。

「……え?」

 その光は、ひどく頼りない輝きを纏っていた。動きもぎこちなく、明滅していて今にも消え去りそう。

背後から漂ってきたと言う事は、そちらに何かあるのだろうか。バゼットは首をかしげて振り返り──

 そこで、硬直した。

 目の前の光景が、網膜に焼きつく。

「士郎、君……」

 あえぐように息を吸い込んでようやく吐き出した一言は──我ながら、随分と間の抜けたものだった。

 

 

 

「願われた内容が本人に実現不可能と判断された場合は、叶え手は自身の手でそれを終了させることが可能でね。まあ、それも本体に他の願いがストックされている場合に限るんだが。基本的には諦めないのを前提に行動してるんだが──けどまあ、無理なもんはどう足掻いたって無理だろう? だからまあ、効率よくやっていきましょうぜってことらしいんだが──」

 

 

 

あの、暗殺者の言葉。

それは、つまり。

鏡の本体には、他の願いがストックされていると言うことで──

 

 

 

「……痛い、な──当たり前、か。早く出よう。バゼットも治療しないと──」

 先程の呼びかけは、どうやら届いていなかったらしい──士郎はこちらの振り向くことなく唸るように呻いて、足を引きずり洞窟を進んでいく……

 

 

 

他の願い──

そうだ、そう言えば、願いは別々だった。

 

 

 

「……士郎君、光が」

光が、鏡へと吸い込まれ。

同時に、それよりもさらに大きな光が、鏡からあふれ出す……

白い、光が。

「しろう、くん……っ 光が──!」

「なんだ……?」

呼びかけに気づき、ようやく士郎君が振り返り、

その瞳が──ゆっくりと、見開かれる。

 

 

 

彼と彼女の願いは、それぞれ別のものだった。

そう言えば、あの願いは叶ったのだろうか?

彼女の願いは、確か──

 

 

 

白が、舞いあがる。

洞窟の中を純白に染め上げるかのような、つよい光。

「……そんな」

茫然と呟く士郎。

半分ほど砕け散った、鏡。

機能を停止したと思い込んでいた鏡。

だが、それは、まだ、動いている。

残った鏡の中から、ゆっくりとひとつの願いが、形を現す……

それは、とてもとても小さな

 

 

 

“ずっと……”

 

 

 

でも、たったひとつの──

 

 

 

“ずっと……一緒にいられたら、よかったのにな──”

 

 

 

ささやかな、願い。

「あ……」

光の中から、声が響く。

もう、すっかり耳に馴染んだ声。

「そんな……」

 気づけば、声が零れ落ちていた。

 そこにいるのは──リンだった。

 消えたはずの少女。

 流れる黒髪も、

 切れ長の瞳も、

 全てが思い出の通り。

 消える前の姿のままのリンが、そこにいる──

 名前を──呼ぼうと口を開いた。

 でも、それは叶わない。

 溢れる涙が邪魔をして、それすら出来ない。

視界が涙で歪んで、その姿を隠してしまう──

 

 とん──

 

 足音が──、響いた。

 振り返るまでもない。そこには、一人しかいないのだから。

 ああ、そうだ。

 その役目は、自分のものじゃない。

 誰よりもまずそれをしなくてはならないのは──

「リン────なの、か……?」

 士郎は、ふらつく足取りで、それでも一歩一歩、リンへと歩み寄っていく。

 ゆっくりと、手を伸ばして、進んでいく。

 足音が次第に早くなる。

 少女はゆっくりと目を開き、

「……しおー」

 たどたどしい、ぎこちない言葉。

 だが、それでも少女は彼の名前を呼ぶ。

 瞬間──弾けるように士郎は駆け出していた。

 もがくように──、手を伸ばして、

 もつれる足も、気にせずに。

「リン……」

 名前を──呼び掛ける。

「しおーっ」

 リンもまた──両手を広げ、伸ばす。

 その手に、

 傷と血にまみれた、士郎の手が絡みつき、重なり合う──

「しおー……っ!」

少女は、笑う。

 その目に涙を浮かべて、幸せそうに。

「リン…………っ!」

 男もまた、笑う。

 涙と血にまみれてぐちゃぐちゃになった、その笑顔で。

 光の中、二つの影が重なりあう──

「…………そうか」

 呟くバゼットの口元には、いつの間にか、小さな笑み。

 抱きしめ合う二人を見つめながら、知らず彼女は呟いていた。

「……見てますか、凛さん」

 どこへ呟くともなく、囁く。

「貴女の願いが──士郎君を、生かしました」

 零れ落ちる涙をそっと拭いつつ、バゼットは二人を見つめる。

「生かしたんです……」

白い光が舞い上がる。

踊るように。

歌うように。

──再び会うことの出来た二人を、祝福するように。

 

 

 

 

 

 

W

 

 

 

「リン……」

 その黒髪を愛おしそうにそっと撫でつつ、士郎は囁いた。

「……しおー」

 傷だらけの胸に体を預け、少女は心配そうに士郎を見上げる。

「……大丈夫、すぐ治るよ」

 その答えに安心したのか、リンは微笑んだ。

 慈しむようにその様子を眺めながら、士郎はふっと表情を緩める。

「……リン」

 何回も、頭をなでる。その感触を確かめるように。

「また……会えた……」

「ん……」

 くすぐったように目を細めるリン──

 だが、その姿は、もうすでに薄れてきている……。

「……また、消えてしまうんだな」

「うん……」

 申し訳なさそうに、少女は身を縮こませる。

(そうだ……鏡は、もう……)

 先ほどの戦闘の余波で、鏡はすでに半分が割れてしまっている。

 あれだけの戦闘で全壊しなかったことにも驚きだが、この状態でまともに機能している方が奇跡に近いのかもしれない──

(なんで……)

 だがそれでも──納得は、出来ない。

 なんで、また消えなくてはならないのか。

 折角再開出来た二人が、また引き裂かれなければならないのか。そんなの、あんまりではないか──。

(貴方だってそうでしょう、士郎君──)

 かぶりを振り、バゼットは士郎を見やる。

 だが。

「ごめんな、って──そう言いたかった」

 士郎は……笑っていた。

 申し訳なさそうに、眉根を下げて。

 包み込むように柔らかに──微笑んでいた。

「守れなくて、ごめん」

 消えゆく少女に、その瞳を向けて。

「傍にいられなくて、ごめん」

 頭を撫でていた手を、そっとその頬に寄せて。

「心配かけて──、ごめん」

 目に溜まった、その涙を優しく拭って。

「でも、もう、大丈夫だから」

 その輪郭を確かめるように、指を這わせて──。

「だい、じょう、ぶ?」

 リンは、きょとんとして見返す。

 士郎は──破顔した。

「うん、大丈夫だ」

 そっと、その頬に手を寄せて。

「それを──自分の口で、言いたかった」

 消えゆく少女は、きょとんと士郎を見つめていた。

 が……その表情が、ゆっくりと微笑んでいく。

 柔らかく、

 儚い、

 澄んだ、微笑み──

「……うん……」

 たどたどしい、言葉。

 だが──それで十分なのだと、理解してしまう。

 それだけで……士郎は、大丈夫。

 前に、進める。

「──(リン)……ありがとう…………」

 囁いて。

 男はそっと、少女の唇に、自分の唇を合わせる──

「……ん」

 目を閉じ、彼女はそれを受け入れる。

 そして、

 光が、輝いて。

 ──少女は、消えた。

 

 

 

 

 

 

X

 

 

 

目を開いてまず見えたのは、見覚えのある天井だった。

(ここは……)

 目だけを動かして、周囲を見渡す。見慣れた風景──見慣れた物たち。どうやら、自室らしい。暗いのは、カーテンを閉め切っているくせに、電気を点けていないせいか。

(あれから……どうなったんだ……?)

 思い出そうと、思考を巡らせる。確か──そうだ。バゼットと二人で、洞窟から脱出して、歩いて……そうだ、なんとかそれでも、家まで辿り着いたんだ。それから──

(……それから、記憶がないな。倒れたのか……まあ、あの怪我なら無理もないな……)

 身を起こす。

 まず確認したのは、自分の左腕だった。

(……ない、か。まあそうだよな……)

 本来腕がある場所には、何もない。切り落としたのは手首だけのはずだったのに、今はもう肘すらない。そう言えば、腕から無数の剣が生えた時、剣が腕そのものを侵食するかのように腕を登ってきていたような気がする──はっきりとは覚えてはいないが。

 今はもう剣も生えていないが、一体いつ無くなったのだろう。よくはわからないが──どの道あんなものを生やしたまま街中など歩けないから、よかったと言えばよかったのかもしれない。

 生活は不便になるだろう──格段に。でも、悔やんでも仕方のないことではある。無くなったものは、もうどうしようもない。当面はいい義手を探すことから始まるだろう。

その他にも、全身に違和感がある。よくよく見れば、全身が包帯まみれだった。服は着ていない──いや、流石にパンツは穿いているらしい。やたら不格好にぐるぐる巻きにされているのが妙に気になったが。

「本当──ぼろぼろだな……」

 苦笑する。よくもまあここまでこっぴどくやられたものだ。

「でも……うん」

 右の掌を、じっと見つめる。

 傷だらけの、手のひら。

 でも──それだけじゃあ、ない。

投影(トレース)──」

紡ぐのは、いつもの呪文。

「──開始(オン)

 自分が自分であるための、言葉。

 

 っきぃん────!

 

 光が収まった後、手の中にはひと振りの剣が在った。

 柄も、刀身も、全てが鏡のような剣。装飾品としての価値はありそうだが、大凡武器としての殺傷能力はあるとは思えない──

「……出来た」

 確か──今までは、出来なかったはずだ。

 いや、そうじゃあない。

 見ようともしていなかっただけだ。

 目を逸らして──剣を、認めていなかった。

 現実から、逃げていた。

 だから、出来なかった。

要はそれだけだったんだ──。

「なんだ、そう言うことだったんだ」

 もう一度、苦笑する。

「…………」

 しばらくの間、剣を手の中で弄ぶ。

 ──思うことは、それこそ山のようにあった。

 今までの、一ヶ月間。

 自分を見失っていた、一ヶ月間……

「本当──、駄目だな、俺はさ……」

 かぶりを振る。

 迷惑ならそれこそ皆に山のようにかけた。

 償いきれないものもある。沢山、ある……

「……ごめんな……」

 気づけば──肩が震えていた。泣いてはいないものの。

 と。

「はあ……」

 そんな嘆息と共に、扉が開かれた。

「え」

 思わず、ぽかんと見返す──そこに立っていたのは、同じく目を丸くしたバゼットだった。まさか自分が起き上がっているなどと思っていなかったのか、呆然とこちらを見つめてきている。

 彼女もやはり全身に包帯やらガーゼやらをあてがわれているようだった。それでも、自分よりはましなようだ。いや、それにしても確か背中と腹部を斬られていたはずだ。そんな状態の人間がふらふらと歩きまわっていいのだろうか。ふと心配になって声をかけようとして、

「っ士郎君──!」

 がばっ……!

 そんな叫び声とともに、バゼットが抱きついてきた。

「うわ!?」

「よかった……よかった……っ」

 声が、うわずんでいる。ひょっとしたら涙ぐんでいるのかもしれない、と思いつき、顔を覗き込もうとするのは自制する。いや、それはいいとして、問題は──

「ってアンタ服着ろ服―!」

 バゼットもまた素肌に包帯だけという格好──下はきちんと穿いているようだが──だった。そんな状態で抱きつかれたりしたら、たまったもんじゃない。彼女の髪がことらの頬を撫でているし、背中が丸見えだし、何より胸に押しつけられている柔らかい感触が──

「え……? あ、ああ──すいません。その──つい取り乱してしまいました……」

 そそくさと大人しく離れていく──申し訳なさそうにこそしているが、大して恥ずかしそうな素振りもない。あまりそう言うことに頓着しない性格なのかもしれない。さりげなく視線を彼女から外しつつ、ぼそりと呟く。

「……とりあえず何か着てくれないか。その……目のやり場に困る」

「あ……はい」

 頷いてバゼットは立ち上がり、部屋から出て行った。一分もしないうちに、再び戻ってくる。その時は彼女は包帯の上にいつものスーツを羽織っていた。その格好もどうなんだ、と内心思うが、あえて口には出さないでおく。

「……それにしても、よかった本当に……ずっと目を覚まさないから、もうこのままなのかと心配して……」

「……俺、そんなに眠っていたのか?」

「ええ。あの日から……今日で4日目です」

「そうか……」

 バゼットの言葉に、ぼんやりとカレンダーを見やる。

「もう、そんなに経ってたんだな……」

「それで──その。腕のことなんですが。すいません、私の腕では……何より時間がたちすぎていて……」

 心底申し訳なさそうに告げてくるバゼットに、士郎はゆっくりと首を横へ振った。

「いいさ。どの道……自分でやったことだ。バゼットが気にすることなんかじゃ、ないぞ」

「そう、言ってくれるのはありがたいのですが。いや、でもそもそも今回の事件は──」

「──バゼット」

 彼女が言おうとしていることが、何となく予想出来て。

士郎は、言葉をかぶせた。

「──色々……迷惑かけて、ごめんな」

「……………」

 バゼットは答えない。

 必死に表情を変化させまいとしているのが見て取れる──が、あえて気づかないようにしておく。こっそりと嘆息しつつ、話題を変えてみる。とりあえず初めに目についたのは、やたらぐるぐる巻きにされている包帯だった。

「それにしても、この包帯ってバゼットがやってくれたのか?」

「え? あ、はい……見様見真似なんですけれど。治療しようにも、この村にまともな医者もいないですし……本当にどうしたものかと……そうだ、とりあえず意識も戻ったことですし、一回ちゃんとした病院で診てもらわないと──」

「……ああ、だからこんななのか」

「こんなとか言わないでくれませんかっ」

 バゼットは心外だと言うようにずいっと身を乗り出してきた。いいですか? と指を振りながら、

「これでも頑張った方なんですっ。第一、私だって怪我をしていて……」

「……だよ、なあ。結構重症だったと思うんだけど……」

「……ふん、鍛え方が違うんですよ」

 全くこれだから──と嘆息している。

「いや、鍛え方とかそう言う次元の話じゃないような……」

「? 何か?」

「いや、なんでも」

きょとんとしているバゼット。こっそりと嘆息する士郎。

そこで、ぶつんと会話が途切れた。

「……窓、開けるか」

 空気を変えようと思い、腕を伸ばそうとして──その先がないことに気づく。苦笑しつつ、反対の右手を伸ばそうとしたところで、背後からもう一本の腕が伸びてきてカーテンを掴んだ。

「私が開けますよ」

 その言葉に従い、大人しく体を戻す。

 

しゃっ────

 

 青が──広がった。

 目に飛び込んできたのは、どこまでも続く青空。

 雨はもう、降っていない。

「それで士郎君──これから、どうするんですか?」

 振り返りつつ、バゼットが言葉を挟んでくる。

「どうするって言うと……?」

 曖昧すぎる。何を聞きたいのかわからずに聞き返すと、

「今後、どう言う道を進んでいくのかと言うことを聞いているんです。──この村に、残り続ける気ですか……?」

「…………」

 ぼんやりと、壁を見つめる。

 それで答えが出るわけではないとはわかっていたが。

「……村は、出るよ」

 ぽつりと零れ落ちた言葉。

 そうだ、村は出よう。この村に居続ける意味は、もう、ない。

「そう、ですか」

 安堵したように頬を緩ませるバゼット。今気づいたが、彼女は何と言うか──結構わかりやすいタイプなのかもしれない。そう思いつつ、こっそりと苦笑する。

「士郎君、日本に帰りませんか?」

「…………日本、か」

 ぼんやりと、繰り返す。

 そう言えば、もう何年も帰っていない。

 桜──元気でやっているんだろうか。きっと綺麗になっているんだろうな。藤ねえ……は、相変わらずだろうな、うん。イリヤは変わっていないような気がする。そうだ、他の皆の顔を見に帰るのも悪くない──

 ──でも。

「……悪いバゼット。俺、まだやらなくちゃいけないことがあるからさ──」

 青空を眺めながら、呟く。

 そうだ、帰るのはまだ先でもいい。

 今やらなければならないことが、ある。

(……凛)

 青空は──どこまでも続いている。

 ずっと、彼方まで。

(見ていてくれよな……俺さ、もう少し──もう少しだけ、頑張ってみるよ。でも──うん、無理はしない。自分の命は──粗末にはしないから。それに、そうだ、待っていてくれる人たちがいるからさ……)

 そうだ。

 自分を心配してくれている人たちのためにも──そして、(リン)たちのためにも。

「……そう、ですか。まあ、そんな予感は、していましたが……全く、貴方と言う人は、本当に……」

 バゼットがこちらを少し寂しげに眺めてきている。

「……ごめんな」

 呟くと、彼女はゆっくりと首を横へ振った。

「いえ、謝ることではありませんよ。貴方が自分で決めた道です。それならば、胸を張って進べきだ。そうでしょう?」

「──そうだな。本当、その通りだ。うん、さっきのは撤回するぞ」

 真っ直ぐにバゼットを見つめて、笑う。

 バゼットは拍子抜けしたように一瞬ぽかんとしていたが──やがて、苦笑へとその表情が変化する。

「ええ、それでこそ士郎君だ」

「何でさ」

「何でもですよ。それに──おや……」

 と、彼女の視線が自分の手元へと落ちた。

「……?」

 そちらへ視線を移すと、そこにはベッドの上に置きっぱなしになっていた鏡剣があった。そう言えば投影してからそこに置いたままだった。

「士郎君、その剣は?」

「ああ。投影、出来たんだ」

 どれ、と顔を近づけてくる。その刀身には、自分とバゼット、二人の顔が映っている──。

「綺麗ですね……」

「そうだな……」

 呟く。

 心地よい風が髪をなでていくのを感じながら、目を細める。

「名前──」

 ぽつりと、バゼットが呟いている。

 彼女はこちらを覗き込んで、尋ねてきた。

「なんて言う名前なんですか?」

「……ああ」

 ふ、と息を吐く。

 剣を手に取りつつ──それを上へと持ち上げ、空へとかざす。

 その刃に、青空が映り込んでいる。

 空と、剣と。

 その二つを見上げながら、そっと囁く──

「──寄り添いし永久なる願いの叶え手(エターナル・ウィッシュ)、だってさ」

 

 

 

 

 

 

Y

 

 

 

「──それで、そのまま帰ってきた、と言うことですか? ……ねえミスバゼット。(ワタクシ)、抵抗するようだったら殴り倒してでも連れて帰ってくるよう言いませんでしたかしら」

 とん、とん──と。

 苛立たしげに机を指で叩きつつ、彼女は満面の笑み(・・・・・)を浮かべて静かにそう告げてくる──。

ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。今回の事件の依頼人の一人。恐ろしいまでの美女なのだが──どうやら今は壮絶なまでに激怒しているらしい。頬を引き攣らせつつ、それでも笑顔は崩さないのが淑女の嗜みとばかりになんとか保ってはいるが、果たして後何分持つことやら。

 昼過ぎのロンドンは少しばかり肌寒いものの、晴天だった。天気予報によればしばらく雨は降らないだろうと言うことらしいが。

エーデルフェルト家の屋敷の応接間の一つ。どうやら初めて通された時と部屋は違うらしく、見慣れない豪奢な調度品が嫌見にならない程度に置かれている。だとすると多少は評価が上がったということなのだろうか──いや、それも今回の報告で地に落ちたか。

机の上には数枚の写真と、分厚いレポート用紙、そして湯気を立てた二つのティーカップが置かれている。

「そうですね。そう言えばそんなことを聞いた気もします」

 軽く言ってのけるバゼットに、ルヴィアゼリッタは最早怒鳴る気力すらないのか、力なく目頭を押さえてかぶりを振った。

「貴女ねえ……ああ、もう……」

「──しかし、ミス・エーデルフェルト」

 居住まいを正し、バゼットはゆっくりと告げた。胸に手を当て、眼を閉じて。

「確かに力づくですれば、彼をここまで連れてくることは出来たのだと思います。ですが、それでは意味がない──彼が自分の意思でやってきてこそ意味があるのだと思いませんか?」

「綺麗事ですわね。少なくとも(ワタクシ)はシェロがこの部屋に戻ってくると言うことに意味があると思っていましたけれど?」

 すかさず切って捨てられるが、気にせず続ける。

「……彼は、自分の意思でもう一度歩き出した。それを止めるなど──そう、野暮と言うものでは?」

「ですからそう言う感情論ではなく、(ワタクシ)が言っているのは──」

 歯噛みするようなルヴィアゼリッタの声にしかし、バゼットはしごく落ち着いて答えた。

「──大丈夫ですよ」

 窓の外へと目を映す──澄んだ空が広がっている。

「あの目が出来るようなら──きっと士郎君は、その道は選びません。必ず彼は帰ってきますよ」

「……根拠は?」

 疑わしそうに唸る声に、バゼットは今度こそ苦笑してみせた。簡単なことです、と前置きしてから、

「そう約束しました。自分の限界を感じたら、そのときは無茶なことをしないで大人しく帰りを待っている人の元へ戻ってくること。それが、貴方の正義の味方としての最後の仕事です、と」

 言いつつ、ここですね、と手紙の一部分を指し示す。士郎の直筆の手紙──たどたどしい英語で書かれたものだ──を疑わしげな視線で読み進めていき──あら、と感嘆の声を漏らした。

「……ふうん。本当ですわ、だから心配なんてする必要ないからな、なんて、ふふ──……シェロったら、相変わらずと言うか何と言うか……」

 ようやく怒りは収まりつつあるのか、諦め半分、懐かしさ半分と言ったような表情で、ルヴィアゼリッタはやれやれと嘆息する。

 しばかり頃合いを見計らってから、バゼットはそっと告げる。

「……待ちましょう」

 ゆっくりと静かなその口調には、凛とした響きが。

「彼は道を見つけた。一方通行ではない、きちんと帰るべき場所がある道です。ですから、後の私たちに出来ることは──彼の帰りを待つことだと思います」

「……そう、ですわね。その通りかもしれませんわ……」

 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ルヴィアゼリッタはゆっくりと頷いた。

「わかりました。ありがとう──本当に」

 いえ、とバゼットは軽くかぶりを振ってみせる。さて、と席を立ちあがり、

「──ええ、ではこれで失礼しますね。次は日本の桜さんにも報告しないといけませんので……」

「ええ……」

 ぼんやりとしたその声を背中越しに聞きつつ、扉へと向かう。

「ああ、ところでミスバゼット?」

「? まだ何か?」

 首だけで振り返り、尋ねる。

「ちなみに聞きますが──シェロがどこへ行くかは把握していますの?」

「あ……、はい。一応連絡先も聞いてあります。ええと、資料の一番最後のページにですね──」

 言われるままに、ルヴィアゼリッタは資料をめくる。そこにはこれから向かう予定の国と、携帯電話とアドレスが明記されていた。ただし、通じるかどうかは保障できないと注釈が付いているが。

 そうですわね──、と頷く。

 その唇が、薄く笑みの形に引き延ばされる。彼女はさらに続けて、

「上出来ですわ──それと貴女、これからどうなさいますの?」

「いえ、ですから桜さんたちにも報告を」

「ですから、その後です。報告が終わったら、それでこの仕事は終わりでしょう? その後他の仕事は入っていますの?」

「………………………………いえ、別に」

 返事は、やや沈黙を含んでいるように思えた。我ながら。

「そう」

 くすり、と笑みがますます深まる。髪に手を絡ませつつ、ルヴィアゼリッタは更に尋ねた。

「ちなみに、急ぎの用事は?」

「………………………………いえ、特に」

 答えるバゼットの背中は妙に煤けている。上出来ですわ、と何故か呟きつつ、ルヴィアゼリッタは極上の笑みを浮かべてみせた。

「ふうん──要するに、暇なんですわね?」

「暇……そ、そうですね。まあ暇と言えば暇と言うことになるのかもしれませんが。しかし私は現状に甘んじるつもりは毛頭ない──」

 わたわたと手を振り回して我ながら言い訳のようなことを口走っているが、ルヴィアゼリッタは気にも止めずに続けた。

「確認ですが、今回の仕事に関しての成功報酬は出ませんわ。事実としてシェロはここにはいませんもの。ですから、事前に渡しましたあの支度金のみが今回の報酬です。ですが──そうですわね、シェロの生存を確認し、なおかつ連絡先もしっかりと抑えてきているみたいですし。──ねえミスバゼット? (ワタクシ)今いい仕事を一つ知っているのですが、こちらを引きうけて下さるというのなら、その仕事の報酬とは別に今回の成功報酬についても検討してもいいと言ったらどうします──?」

「やりましょう。是非とも」

 寸断挟まずきっぱりと頷いた。恐らくそんな説明はなくても引き受けたのだろうが。

 宜しい、と深く頷き、ルヴィアゼリッタは立ち上がる。ゆっくりと歩を進めながら、詠うように続けていく。

「──依頼内容は、警護──それと監視、ああ、後はそれと教育もですわね。対象者が死なないよう、身を呈して守り抜くこと。そして同時に鍛え上げても下さい。期間は無期限──いえ、彼が戻ってくるまでですわね。定期報告は必ずすること。これは依頼遂行の義務とします。それから後は……ああ、報酬は成功報酬で構いませんわよね? どうせ帰ってくるまで一緒にいるのですし、貴女が死んだら払う必要もありませんし──」

「ちょ、ちょっと待ってください!? なんですその滅茶苦茶な内容は! 聞いている限りだととてもではないがまともな内容には思えない──」

 声を荒らげるバゼットにしかしルヴィアゼリッタは平然としつつ微笑を浮かべる。

「いいじゃありませんか。どうせやることもないのでしょう?」

 反撃の糸口すら掴めず、むう、とバゼットは唸る。

「……ひょっとしてそれは、対象者は、とある正義の味方ですか?」

 くすり、とルヴィアゼリッタは小さく笑う。

「そうかもしれませんわね?」

「──だとするとすいませんが、その話は受けられない」

 はあ、と言う嘆息と共に静かに首を横へと振る。

「あら。どうして?」

 きょとんとしているルヴィアゼリッタに向かい、バゼットは挑戦的に笑ってみせた。

「その依頼内容では、報酬はもらえませんから。私も個人的に彼に興味がある。実に面白い素材です──彼を鍛え上げたらどこまで行くのか、見てみたくなってきました。要はそう言うことですよ」

「──そう」

 はあ、と呆れたように嘆息し、肩をすくめる。

「では、依頼は取り消しますわね? ですから……そうですわね、これから言うことは、シェロの友人からのお願いとして受け取ってくださるかしら」

「ええ」

 頷いたバゼットの目の前に立ち、ルヴィアゼリッタは真っ直ぐに向かい合った。そして──すっ、とその右手を差し出す。

「──どうか、シェロをお願いしますわ」

「勿論」

 その手を握り返し、しっかりと頷いて見せる。

「──ああ、それと」

 みしっ。

 妙に凄味のあるその声と共に、握る手に力がこもる。

「手を出したら──わかっていますよね?」

「……も、勿論」

 頬を引きつらせながらもバゼットはなんとか笑みを浮かべて見せた。その答えに満足したのか、ルヴィアゼリッタはそっと手を離すと、物憂げな瞳を窓の外へと向けた。

「……(ワタクシ)には、彼の傍にいることは出来ない。色々……抱えているものが、あるのです。だから、こうしてお願いするしかありませんわ……」

「そんな──」

「……本当は、そうするのが一番なんでしょうね──シェロが大事なら、何もかも捨てて彼についていけばよかったんですわ……そうすれば、リンだってこんなことには──」

「──それは違う」

 と。

 自嘲するかのようなその言葉に、バゼットは声を被せた。え? と思わず顔をあげるルヴィアゼリッタを尻目に、彼女は一人続ける。

「何かを切り捨てて得られるものは……それだけだ。それだけしか、残らないんです。何も切り捨てないことだって立派な勇気だ。そして貴女はそれを選択したんでしょう? ならばそれを誇りに思うべきだ──」

「……ありがとう」

 頷くその声は、僅かに震えており。

 そしてバゼットはそのことには気づかないように振る舞いつつ、素早く背中を向けた。

「いえ。──では、今度こそ本当に、行くとします。合流するのなら早いに越したことはありませんし」

「ええ……宜しく、お願いしますわね?」

 背中ごしに届く儚げな声に頷きつつ──歩きだす。後ろは振り向かなくてもいいはずだった。 

 扉を開けて、そのまま廊下を歩く。玄関口までやってくると、そこにずっと待機していたのだろうか──執事が素早く扉に手をかけた。ゆっくりと重い扉が開き、そこから奥の空間が広がっていく。きちんと整備された美しい庭園──そして、青空が。

 かつんっ──

 屋敷の中から一歩、外へと踏み出して。

 バゼットはゆっくりと上空を見上げた。少しばかり肌寒いが、それが心地よくもある。僅かな風が髪を撫でるのを感じつつ、手を顔の上へとかざして。

「──さて、次は桜さんか──」

 囁くように呟いた声は風に乗り、空へと吸い込まれる──

「……待っていてくださいね、士郎君──」

 そうして──、彼女は歩きだした。

 彼と同じ空の下

 どこまでも続く、青空の下を──。




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