大切なもの。
夏と秋の狭間の時期。衛宮士郎の屋敷の居間――
「セイバー、醤油取ってくれ」
脂ののった秋刀魚を前に、衛宮士郎は向かいに座った金髪の少女に呼びかけた。
「はい、シロウ」
頷き、一旦箸を置いてから――セイバーは傍にあった醤油を手に取り、士郎へと渡す。
「……それよ」
そして。異様な迫力をかもし出しながら間に入ってきたのは――、遠坂凛。
――夕暮れ。とは言え時刻はとうに六時を回っている。もうすぐ秋にさしかかろうという時期であるが、まだ日は長い。
桜は部活の用事、大河は仕事があるとのことで、本日の衛宮邸の食卓は三人のみである。
「……遠坂、差し箸は行儀が悪いぞ」
漬物をつまみながら冷静に指摘したのは士郎だった。
「う。そ、そうね」
大人しくその言葉に従い、凛は突き出していた手を下ろす。
「凛も醤油ですか?」
「違うっ」
首を傾けて尋ねるセイバーに、凛はきっぱりと否定した。ずいっ、と上半身だけで士郎に詰め寄りつつ、彼女はがあーと一気に言い募る。
「その呼び方よ。セイバーはもうセイバーじゃないんだからセイバーって呼ぶのはなんか変なのよっ!」
『…………』
勢いに圧倒されたのか、きょとんとしたまま二人は沈黙する――
「……ええと──」
しばらくしてから、やや遠慮がちに士郎が口を開いた。
「何かのなぞなぞか? 遠坂」
「違うっ!」
『だんっ!』と机を叩いて、凛は再び身を乗り出した。
「だからっ、セイバーはもうセイバーじゃないんだから!」
「繰り返されてもさ」
「そうですね」
困ったような表情を浮かべて頷きあい、目を見合わせる二人。
「あーもーあんたたちはっ!」
そこまで叫んでから――、
「……はぁ」
凛は疲れたように嘆息した。ぎろりと睨みを効かせつつ、士郎に向かって呻く。
「……とにかく、士郎は今後セイバーのことをセイバーって呼ぶの禁止!」
「なんでさ」
「だーかーらー」
かたんっ――
なおも凛が話そうと口を開いたト同時、静かにセイバーが箸を置いた。刹那、口論していた二人の動きがぴたりと止まる。士郎、凛。二人が自分を見ていることを確認してから、セイバーはゆっくりと口を開いた。
「シロウ、つまり凛は名前にこだわっているのです」
ゆっくりと目を閉じ、そっと自分の胸に手を当て――続ける。
「聖杯戦争も終わったのです。『セイバー』という名前は、クラスの名前。私の本当の名ではない──と。そういうことですよね?」
「……そ、そう。そういうことよ、士郎」
気まずそうに視線を横に逸らし――凛。
セイバーは微笑を湛えたまま、しかし首をゆっくりと横に振った。
「しかし凛、私はそのことをそこまで気にかけてはいないのですよ」
「……あ、うん、そうなんだ」
バツが悪そうに、曖昧に凛は頷く。
セイバーは膝の上に手を置いたまま、続けた。
「確かに名前というものは大切なものですが、それ以上に大切なものもたくさんある──私はこの世界に残り、そのことをとても知ることが出来た」
そうして金髪の剣士は、二人の顔を順々に眺め見た。
「シロウ、凛。貴方たち二人のおかげだ」
「……いや、改めてそう言われると照れるよな。なあ遠坂」
「……そ、そうね」
揃って顔を赤らめ、二人はごにょごにょと呟く――
――それを見てから、ふいにくすりとセイバーが笑った。今までのような包み込むような柔らかいものではなく――どちらかと言うと、からかうような意地の悪いもので。
セイバーはくすくすと笑いながら、
「むしろ、こだわっているのは凛、貴女なのでは?」
「へ? わたし?」
ぽかんとしながら聞き返してくる凛に、セイバーは得意げに続ける。
「ええ。そういえば確か先日もシロウのことで愚痴を──」
「って、あああああああっ!?」
「……なんだよ遠坂、うるさいな」
突然大声を上げた凛に、士郎が煩わしそうに呻く。しかし凛は顔を真っ赤にしながら『ばっ!』と振り返ると、
「ううううるさいっ! セイバー、じゃなかった、あーええとえーとっ!」
「……士郎。凛のことは名前で呼んではあげないのですか?」
かなりいっぱいいっぱいな凛を他所に、セイバーは静かにお茶を啜りながらそう尋ねた。
「………へ?」
全く予期していない質問だったのか――士郎はただ聞き返すのみ。
「セイバーちょっと!」
とうとう立ち上がりつつ、凛は叫ぶ。
「そうですね、ではこうしましょう」
セイバーは動じた様子もなく、湯のみをそっと机に置くと――にこりと笑った。
「シロウは今後、私のことはアルトリアと。そして凛のことは遠坂ではなく──」
そして、横で棒立ちになっている凛にちらりと視線を送ってから、
「──凛、と。そう呼んではくれませんか?」
「え」
士郎が間の抜けた声で呟き――凛に視線を送った。
「…………うう」
もう何も言う気にもなれないのか、凛は真っ赤になった顔を背けたまま、呻くのみだった。そこまでしてからようやく事態が飲み込めたのか、士郎は頭を掻きながら、
「ああ、そういうことか」
「セーイーバー……」
恨めしそうな声を上げて、ゆらりと凛がセイバーに近づく――が、矢張り彼女は動じた様子もなく、静かに指摘した。
「凛、それはもう違うのではなかったのですか?」
「あ、ああ、そうなんだけど……」
うっ、と言葉に詰まる凛。
そんな二人の様子を眺めながら、士郎は口を開く――
「ええと」
茶碗と箸を手にした金髪の少女に向かい、呼びかける。
「アルトリア」
「はい、シロウ」
アルトリアと呼ばれた少女はふわりと笑う。
「凛」
次に、その横に立っている黒髪の少女に視線を。
「……なによ」
凛は頬を赤く染めながら、仏頂面でそう聞き返す。
士郎は照れくさそうにしながらも、はっきりと二人を見据えて、
「──いや、これからもよろしくな」
――そう、告げた。
――そして、二人の少女は虚をつかれたように押し黙る――
「……あれ」
不安になったのか、士郎が呟く。
なんとか立ち直った凛が、顔を真っ赤にしつつ、今度は士郎へと詰め寄っていく――
「って、何言ってんのよあんたは〜……」
「え、何か変だったか?」
訳がわからないというように、士郎は尋ねる。
「いえ」
静かに首を振りつつ、彼女は再び湯のみを手に取った。ぎこちなく言い争っている二人を眺めながら、お茶を一口すすり、呟く――。
「――実に、シロウらしい」