雪月花
「あ」
と言う声にふと振り返れば、そこにいるのは見知った顔だった。洗いざらしのジーンズ。やや色褪せた黄のウインドブレーカー。手にした大きなビニール袋が、彼女の動きに合わせてがさりと音を立てる。
彼女はきょとんと眼をしばたくと、意外そうに呟いた。
「あれー、どうしたの桜ちゃん」
言いながら、隣へと並んでくる。
────深々と底冷えする空に一つ、白い月が薄淡く光る夜。風はささやかに揺らいで草をざわつかせている。
心地よいその音に半ば身を委ねつつ、間桐桜はほんの少し、小さく微笑んで見せた。
「いえ、藤村先生こそ」
広い草原の上には、彼女たち二人の影が闇の上、薄ぼんやりと浮かんでいた。それより少しばかり離れた丘の途中には、太く大きい黒い影が横たわっている。
それは花を満開に咲かせた桜の木。薄桃色の花びらが黒々とした幹から伸び、広がっている。
夜の暗さの中にあるせいか、その光景にはやけに現実さがない。夢の中からすとんと切り落ちたようだ、と桜がぼんやりと考えていたその矢先に──先ほどの声が唐突に降りかかったのだった。
「あははっ、もう桜ちゃんの先生じゃないよー」
「でも──それでも、やっぱり先生ですから」
苦笑する大河に桜もまた同じ笑みを浮かべ、二人揃って桜を見上げている。
「それに、きっとそう呼びたくなるのは」
一枚の花びらが枝から離れ、不規則な軌道を描きつつ地面へと落下していく様を目で追い──桜は静かにかぶりを振ってみせた。胸の前で両手を組み合わせて、唇を震わせる。
「……綺麗ですね」
「うん。夜桜も悪くないね」
足を伸ばした甲斐があった、と頷いている大河をちらりと一瞬横目で見て、桜は告げる。
「最近──、夢をみるんです」
その視線は、前方にある桜ではなく、どこかもっと遠くを見つめ。
「先輩がいて、遠坂先輩がいて」
その口元には、自然と笑み。
「カレンさんとか、バゼットさんとか、イリヤちゃんとか──みんながいたころの夢を」
うん、と小さく大河は頷いた。
そろそろと視線を桜へと移し、慎重に訪ねる。
「……寂しい?」
「……もう、慣れました」
そう言ってほほ笑む桜の顔は、泣き笑いのような。
「そっかあ──」
大河はただそれだけ呟いて、再び視線を前方へ戻した。
そっか、と。もう一度──ひとりごちるように零す。
会話が途切れた。
薄い月明かりの下、桜の木を二人、見上げている。
「月、綺麗だねえ」
大河がふいにぽつりと呟いた。
「そうですね────」
桜が小さく頷いて、手を差し出した。
「でも、本当、綺麗……」
その掌に、一枚の桜の花びらが舞い落ちた。
「なんだか、雪みたいですね」
「そうだね──」
大河は曖昧に頷き、目を細めた。
「なんかねえ」
あそこね、と木の幹を指差して、苦笑する。
「あとちょっとがんばったら、そこから士郎が出てくる気がするのよねえ」
「ええ?」
困ったように笑う桜。
大河は声色をぐっと低くして、
「悪い藤ねえ、遅くなった──とかなんとか言ってさ。なんかもう、本当に軽いのりでさ」
「……ああ、先輩ならありそうですね」
「それでさ、なんかわけのわからないお土産沢山くれるのよね、きっと」
困ったもんよねー、と肩を竦める大河。
「三年前は……あ、ワインでしたっけ」
唇に指を当て、桜。
「そうそう。フランス行った時に買ったとか言う。イギリスのじゃないんかい、ってねー」
「あ、ありましたねえ」
すくりと小さく、桜は微笑む。
「そっか。もう三年かあ」
あーあ、と両手を地面に付き、大河は足をばたつかせ始めた。
「そうですよ」
髪をそっとかきあげ、桜は静かに目を閉じた。
「もう、三年になっちゃうんですよ……」
「遠坂さん経由で連絡とれないの?」
ぱたんと足をおろして大河は尋ねる。
「姉さんもなんだか忙しいとかなんとかで、全然連絡とれないんですよ」
「そっかあ」
ふーん、と大河は頷き、再度足を動かし始めた。
「なんか、皆、ばらばらになっちゃったねえ」
「そんなことないです」
桜の返答は素早かった。
そのことに自分でも驚いたのか、彼女ははっと目を見開き──そして、そっと伏せた。
「そんなこと……ないです」
もう一度。繰り返す。
「……ん、そうだよね」
大河はやさしく微笑んだ。
『………』
二度目の沈黙が訪れた。
「士郎、早く帰ってこないかなー」
「そうですね……」
二人、桜を見上げながら、呟く。
「待つんだって、結構しんどいんだぞー、と」
大きく伸びをして、大河。
「本当ですねえ……」
「ねえ」
──大河がそっと目を向け、小さく零した。
「士郎さあ」
「はい」
見返してくる桜の視線をそっと外し、大河は静かに首を横に振った。
「……ん。なんでもない」
苦笑のように自嘲する。
「あーあ」
頭の後に手を回し、大河はそのままごろりと寝転がった。
「早く帰ってこないと本当にお嫁にいっちゃうんだからねー」
桜もまた、両手をきゅっと握り、それに同意する。
「そうですよ。早くしないと先輩、後悔しちゃうんですっ」
ざあ、と風が吹いて桜が揺れた。
「先輩────」
髪を押さえながら、彼女は桜の木を見上げる。
その唇が、小さく動き。
「───士郎、さん……」
言葉を、載せる。
──風が舞う。月の照らす夜。雪のような花びらがいつまでも舞っていた。