Ready,Go!
「あっつ……」
げんなりとした呻き声が思わず漏れた。
怨嗟を込めた視線で空を見上げる――青く澄み渡った空は、まるでわたしたちをあざ笑うかのような晴天。雲なんかどこにも見つからない。
木にとまっていた蝉がじっと鳴き捨て、どこかに飛んでいく。それを見てますます体感温度が上がった気がした。じりじりと、焼けるように暑い。もろに直射日光を浴びていることに気付いて、少しだけ肌の心配をして――それから結局また嘆息。ああもう、まだ分類すれば春なのに、なんでこんなに暑いんだか――
「ねえ士郎、こんなもんでいい?」
声が聞こえて顔を上げると、藤村先生ががたがたと脚立を庭にセットしながら士郎に尋ねているところだった。その上には少し古ぼけたインスタント・カメラが乗っている。
視線を横にずらす――それまでわたしの隣でぼんやりと庭を見ていた士郎は、顔をあげてちらりと太陽の位置を確認してから、
「もうちょい後ろかな。ああ、俺がやるから藤ねえそこにいろって」
そう言いながら腰を上げ、カメラに向かって歩き出した。
「ねえねえさくら、どっちの服がいいと思うー?」
ばたばたと足音を立てて廊下の奥からやってきたのは、イリヤスフィール。士郎のだぼだぼのTシャツ――どうやら気に入っているらしい――を着ているんだけど、両手にそれぞれ一着ずつ服を持っていた。黄色のシンプルなワンピースと、白のキャミソール。あれは確か藤村先生とわたしが買ってきたものだ。さて、桜がどっちを選ぶかであの子に対する態度を決めよう――なんてことをぼんやり考えながら、わたしは二人を眺めている。
「うーん……こっち、かなあ?」
隣に座っていた桜は腰をあげると、少し迷ったあとでワンピースを指した。――残念。そっちは藤村先生のほうだ。どうやらやっぱり桜、服の趣味はわたしとは違うみたい。イリヤには断然白が似合うと思うのに。
わたしの思惑とは他所に、イリヤはそれを聞くとぱっと顔を輝かせた。
「そ? うん、ありがと。じゃあシロウ、着替えてくるねー」
早口にまくしたて、庭にいる士郎にぶんぶかと手を振ってから、来た時と同じように小走りに奥へと引っ込んでいく。
それを横目で見つめながら、自然と口元が笑みの形になっていることに気が付いた。
――士郎の屋敷の庭は広い。
そりゃあ屋敷も大きいんだから庭だってそれなりに広いんだろうけど、それにしても広かった。
で、その庭をわたしはぼんやりと眺めているわけだった。縁側に座って、なんとなく頬杖をついて。そこまで考えてから、これはひょっとしたら感傷的な気分になっているのかもしれないと気が付いた。まあでも、無理もないけれど。
「おーい二人とも、準備できたぞー」
声が聞こえてそっちに振り向くと、士郎がカメラの横に立ってこっちを見ていた。その横にはなんとなくしょげた様子の藤村先生。
「あ、はいっ」
さっきと同じ場所にぼんやりと立っていた桜は慌てて頷いて、それから少し身を屈めてきた。
「遠坂先輩、いきましょう?」
言って桜が中腰になって顔を覗き込んでくる。それはまあいいんだけど、体勢がまずい。重力に引っ張られた服の隙間から黄色いものが……って。
……この子、ひょっとしてまた胸大きくなったんじゃないだろうか。
仏頂面になっていることに気が付いて、慌てて頬に手を添える。
「桜、あんたひょっとして――」
わたしが口を開くと同時、
「お待たせー、シロウ、どう?」
廊下の奥からイリヤがぴょこんと飛び出し、いきなりその場でくるりと一回転してみせた。白いワンピースの裾が長い髪と一緒にふわりと回る。
その仕草が、なんだかとても様になっていて。
なんだかもう、思わず苦笑してしまう。
「ああ、うん。可愛いぞイリヤ」
相変わらず臆面もなくああいうことをさらりと言う士郎も士郎なら、
「えへへー」
ぴょんと跳ねて一気に士郎の元に走っていくイリヤもイリヤだった。
――つまり、これが日常。見慣れた光景のひとつなのだ。
そんなことを考えてか、つい口元が緩んでしまう。
「遠坂先輩?」
桜が髪を押さえながら、不思議そうに顔を覗き込んできた。
何でもない、と慌てて手を振って身をかがめて靴を履いていく。
「あれ、ねえ士郎、これってどうやるの?」
「うわ、バカ。何やってんだよ――」
「え、違うの?」
「違う。――ああもう、藤ねえはそこいろって。俺がやるから」
「む、何よう」
靴を履き終えて顔を上げると、藤村先生がむー、とむくれたように頬を膨らましていた。聞こえていた会話の内容で、大体何があったのかは想像が付くけれど。
とんとんと爪先を地面に打ち付けていると、ふんだ、なんて言いながら藤村先生が士郎から離れて歩き始めていた。その途中で視線が会うと、途端にぱっと笑顔になって、
「遠坂さん、こっちこっち」
言ってぶんぶんと手を振ってくる。
「あ、はい」
大人しく頷いて、わたしはゆっくりとカメラの前に歩き始めた。イリヤも士郎から離れて藤村先生と同じ場所で待っている。桜が後ろから付いてくるのを感じながら、わたしはことさらゆっくりと足を進めていく。
――これが最後ってわけでもないけれど。でも、とりあえずは一区切りなんだから。だからそのくらいの我侭は許されるはず。
なんて、そんなことを思ってしまっているのだから、どうやら今日のわたしは本当に感傷的になっているらしい。
こっそりとため息をつきながら、それでもわたしは二人の傍に近寄り、人一人分だけ間を空けてイリヤの隣で足を止めた。知らず、ふう、と息を吐いてしまう。
「リン? そこじゃ端っこよ」
上機嫌で立ち位置を決めていたイリヤがふっと振り返って、わたしにそう投げかけた。
「いいわよ、ここで」
肩をすくめるようにして、苦笑。なんだかそんな気分じゃなかった。
――と思ったらいきなり背後から肩を誰かに掴まれた。
「駄目ですよ、ほら、もっと真ん中寄ってください。今日は先輩が主役なんですから」
反射的に振り向くと、後ろに立っていたのは桜だった。えいえいっ、なんて言いながらぐいぐいと肩を押してくる。
「ちょ、ちょっと桜」
「はいっ、着いちゃいました」
ぱっと桜が手を離したのは、レンズの真正面。自然と向かい合っている士郎と目が合った。
そして士郎は、何がおかしいのかにこにこと笑っていて――って、ああもう、なんなのよ。
……思わず視線を逸らしてしまう。
「ほら遠坂、真ん中な」
「……わかったわよ」
観念してその場に立ち止まった。嘆息ともつかない息を吐いて、腰に手をやる。ふと視線を感じて前を見ると、士郎がさっきと同じようにこっちを見ていた。
「……何よ」
思わず仏頂面になりながら、聞き返す。
「ああ、いや」
返事ともつかない返事をして士郎はまた笑いながらカメラを操作し始めた。
「よし、じゃあ撮るぞ」
タイマーをセットして、士郎は足でこっちに向かってくる。
体をずらして隙間を作ると、さんきゅ、と言ってわたしの隣に割り込んできた。肩が少しだけ触れていた。そこがほんのりと温かい。わたしは動かないままカメラを見つめて――
「ちょっとイリヤちゃん、なんで私こんなはじっこなのよう」
……藤村先生がいきなりキレた。
がーと涙目になって叫んでる。
うん、確かに端だった。というより、そこは多分レンズに入っていないと思う。
「あらタイガ、別にいいじゃない」
くすりと笑いつつ髪をかきあげ、イリヤ。こっちは絶対確信犯だな、うん。
「いいはずないでしょー!?」
「うわバカ、暴れるな藤ねえ!」
士郎が慌てて叫ぶけど、もう遅い。暴走しだした藤村先生は止まらなかった。半泣きになりながら桜を押しのけて、無理やり真ん中に割って入ってきて――
「きゃああっ!?」
強引に押された桜が体勢を崩した。それにつられてイリヤもつんのめる。さらにそのイリヤに服を引っ張られて士郎も体が揺れて――ってわたしもっ!?
……カシャッ
そして、体勢を立て直す間もなく。
無情にもカメラが音を鳴らした。
「ああもう、変になっちゃったじゃないか」
「何よう、士郎が悪いんでしょ」
「どうしてそうなるんだよ、バカ」
仏頂面でわざとらしく嘆息している士郎に、ちょんちょんと人差し指同士をつついていじけている藤村先生。
――屋敷の玄関前で、わたしは扉の前に立って皆に見送られていた。荷物はあらかじめほとんど送ってあるので、持っていくものはハンドバッグひとつだけだ。
「遠坂、本当にこれでいいのか?」
士郎は手に持った写真をひらひらさせながら聞いてきた。
「ああ、いいわよこれで」
まだ納得していない、という表情の士郎から、半ば奪い取るようにして写真を取り上げる。
そこには、固まりあってなんだか変な踊りでも踊っているようなわたしたちの姿が写っていた。イリヤに至っては体がブレてはっきり写っていない。どう見たって失敗作。
でも――
でも。撮り直しをしようとは思わなかった。わざわざもう一回するのも面倒くさいし、それに何より――こっちのほうが、わたしたちらしい。そう思ったから。
――写真を撮ろう、と言い出したのは士郎だった。
日本を発つことが決まって、最後の挨拶に士郎の家にやってきて、そろそろ行こうと腰を上げた時のことだった。ふいに士郎がそう提案したのだ。
――なあ遠坂、最後に皆で写真撮らないか――と。
……あの時はいきなり真剣な目で見つめてくるもんだから、一体何事なのかって思ったものだ。
士郎がどんな思いであんな言葉を言ってくれたのかは、勿論わたしが知る由ではない。――わかるはずもない。けど、それは全然不快なものではなくて。ああ、多分こいつはいつもでたっても衛宮士郎で。それは多分、ずっと変わらないんだ――なんて思わせるような、そんな一言だった。
――そう、わたしは今日、日本を発つ。
聖杯戦争が終わり、セイバーはわたしたちの場所からいなくなった。
多少のごたごたはあったものの、予想以上にあっさりと日常は戻ってきた。そして一ヶ月前。わたしは時計塔に召喚されたのだった。
ロンドンにいくかどうかは、大して迷うようなことはなかった。
ただ、少しだけ心残りだったのは――
「遠坂さん、忘れ物ない? ハンカチ持った? ちり紙は?」
「先生、子供じゃないんですから」
教師然というよりは、母親のような口調で心底心配そうに聞いてきた藤村先生の言葉に、わたしは思考を中断した。いや、厳密にはもう直接の先生じゃあないんだけど、士郎に言わせれば、『遠坂、それは違うぞ』ってことらしい。
「うん……」
まだ納得していない様子で、それでも藤村先生は引き下がった。
藤村先生は相変わらず教師をしていた。相変わらず――そう、相変わらずだ。多分この人は――何て言うか、きっとこのまま変わらないんだろう。そう、それはきっと多分、士郎と同じようなもので。
だから少し、それが羨ましくもある。
「凛、しっかりやりなさいよね」
「わかってるわよ」
片手を腰に当ててやたらと澄まして言ってくるイリヤには、苦笑を返した。この子は相変わらず藤村先生のところに居候していた。士郎曰く、今や二人でワンセット。おかげで凶悪さは今までの比じゃないとか。
「イリヤ、わかってると思うけど。何かあったらすぐに連絡するのよ」
私が念を押すように忠告すると、イリヤはうんざりとした表情で、
「もう、何回も聞いたわよ。無理はしない、無茶もしない。何か変だって思ったらすぐに連絡する、でしょ?」
「そう」
よく出来ました、と頭をなでてあげる。
イリヤ。この子は本当に強い。普通なら躊躇するようなことを、さらっと言ってのける。
――わたしが時計塔にいくのを渋っていたのは、この子のことがあった。
イリヤの体は、そう長くはもたないはずだった。それがなぜか、案外何事もなく、今までもってきていたのだ。原因は不明。まあ、あれだけイレギュラーなことが起こったんだから、もう一個くらい変なことがあってもおかしくはないか、と言うのが二人で出した結論だった。
つまり。言ってしまえば彼女の体はいつ爆発するかわからない次元爆弾のようなものなのだ。原因が不明だから対処の使用もない。だから、もしものときにわたしがいればなんとか処置はできるかもしれないけれど、正直士郎には荷が重い仕事だ。
だからしばらくはこっちにいるつもりだったのだけど、イリヤはそれを拒否してきた。自分は覚悟くらい出来ているし、自分のためにわたし犠牲にする必要なんてどこにもない――と。
――あの時は本当、この子には勝てない、と思った。
「遠坂先輩……」
声が聞こえて、我に返る。
ぎこちない笑顔を浮かべていたのは桜だ。腕を前に組んで、少し俯いている。切なげな瞳がやけに印象的に揺れていた。
……わたしが男だったら、その仕草だけでノックアウトされていたかもしれない。
「本当にいっちゃうんですね……」
桜。わたしの妹。いや、正確には妹だった――と言うべきか。
でもこの子とは、やっぱりどこか、最後の一線で距離を置いていたと思う。今更姉さんって呼んで欲しい、とは言わない。言えない。でもやっぱり、寂しくないって言えばそれは嘘になってしまう。
だからやっぱり、この子が一番、難しい。
「ああもう、泣かないの。そんな今生の別れみたいにするのなんてやめてよね」
正直少しだけ照れくさい。顔が赤くなる前に髪をかきあげて、その隙に視線をずらした。
「でも……」
まだ納得出来ないというような桜に、わたしはさっと口を挟んだ。
「別に会えなくなるわけじゃないでしょ? 手紙だってあるし、メールだって。ほら、色々あるじゃない」
出来るだけ明るい口調で言ってあげてから、ね? と肩をすくめてみせる。
「……はい」
納得はしていないんだろうけど、それでものろのろと桜は頷いてくれた。思わず抱きしめたくなる――けど、なんとか自制。代わりによしよし、と頭をなでてあげることにする。
桜は少しくすぐったそうにしながらもされるままになっていた。
そういえば、ロンドンに行くって言った時に一番反対したのは桜だった。
「遠坂」
……そして、問題はこの男。
「――えーっと」
そろそろと慎重に振り返った。なんとなく、外向きの笑顔を作ってしまう。腰に手を当て、少し首を傾げて――士郎に向き直った。
「なあに? 衛宮くん」
「ん、いや。がんばれよ」
そう言って、士郎は軽く笑ってきた。
――瞬間、思考が完全にフリーズした。
……やられた。完っ璧に不意打ちだった。
ああもう、ひとの目を真っ直ぐ見てそんな顔するんじゃない……っ!
……駄目だ。多分今、顔、真っ赤になっている。
それを自覚して、つい半眼になってしまう。わかってやってるんじゃないだろうか、この男。
「……そうね。まあ士郎に言われるまでもないけど」
顔に笑顔を貼り付けて、なんとかそれだけ告げる。
それから――ふっと、息を吐いた。
――結局わたしは、一番士郎に振り回されたんだろう。
それが損なのか得だったのかはまだわからないけど、もし聖杯戦争なんてものがなかったら、衛宮士郎とはきっとろくに話すこともないまま終わっていたんだろうな、ってことを考えると、なんだか不思議な感覚になってしまう。いつの間にか傍にいて、いつの間にかわたしの中でこの男の存在は大きなものになっていたらしい。この気持ちが恋だ――なんて言うつもりはない。ただ、これだけは言える。
衛宮士郎と言うひとに会えて、よかった。
……でも、そんな恥ずかしいこと、口に出して言えるはずもない。
だから、ただ黙って右手を差し出した。
士郎はその手を少し驚いたように見返してから、
「うん、そうだな」
しっかりと頷いてから、力強く手を握り返した。
きっとこの男は、わたしのそんな気持ちなんてわかってもいなくて。まあそこが士郎らしいといえば、士郎らしい点でもあるのだけれど。
士郎は照れくさそうに笑ってから、どこか懐かしむように頬を緩ませた。
「……結局遠坂にはやられてばっかりだったな」
よくもそんなせりふが言えたものだ。わたしの方がよっぽどひどい目に会ったんだから。でも――ふん、そっちがそう思っているんなら、それもそれでいいけどね――なんて、心の中で毒づいておく。
「あ、そろそろ時間ね」
今気づいたように呟いて、わたしはそっと手を離した。
士郎、イリヤ、桜、藤村先生。
皆の顔を順々に見てから、わたしはにっこりと笑った。
「じゃあ」
それだけをさらっと告げて、みんなに背中を向けた。ハンドバッグを持ち直し、扉に手を伸ばす。
「遠坂」
――背後から、士郎の声。
わたしは振り向かないまま、動きを止める。
振り向かない。振り向いたら駄目だ。
声は一拍置いたあと、
「がんばれよな」
――と。
なんでもないような口調で言ってきた。今士郎がどんな顔をしているかが、簡単にわかってしまうくらいに――本当になんでもないように。
思わずきゅっと、唇を噛み締めた。
……だから。なんでこの男は、そうなんだろう。
ああもう、本当、反則だ。
それでもなんとか振り向くのだけは耐えた。止まった足を前に出して、口を開く。
「ええ」
そう、そっけなく答えて、
――がらっ……
わたしは頷いて扉を開けた。
瞬間、光が差し込んでくる――眩しいばかりの陽の光。思わず目を細めてしまうほどだった。
「……行って、きます」
囁くように小さく呟いて。
私は、士郎の屋敷の外に一歩踏み出した。
――それからひたすらにただ足を動かした。振り返るようなことはしない。泣くようなこともない。あ、と言う桜の声が背後から小さく聞こえたけれど、それでもわたしはずんずんと歩いていく。
歩いて歩いて、屋敷から見えないところまで来てから、ようやく足を止めた。
ちらりと後ろを振り返る。
もう、屋敷は見えなかった。
ふう……
息を吐く。嘆息ではなく、それは次に息を吸い込むための予備動作。
――覚悟していたほどの寂寥感はなかった。
それが少しの救いだった。
鼻からすっと息を吸い込む。
自然と顔が上がった。
――ふと見あげれば青空。一つの間違いもないってくらいの晴天だった。
「……よし」
そう囁いて、大きく頷いた。
そして、わたしは。
いつかと同じ言葉を呟いて、歩き出す――
「よしっ、じゃあ気合いれてがんばりますか――」