「ありがとう、ございましたー」
花屋の店員を声を背に、彼女は舗装された道をゆっくりと歩いていた。
その手にあるのは小さな花束。それに目を落とし──そっと匂いを嗅ぎ──嘆息する……
春と言うには少しばかり肌寒い一日だった。風が強いせいなのだろうか──見れば、店先の旗もいつもよりも強くはためいている。
──と。視界の隅に、小さな薄いピンク色が映り、彼女は視線を上げた。長い髪を手で押さえながら、眩しそうに目を細めて。
前方を舞っていたそれは、風が収まるにつれ、その動きを緩やかなものへとし、そして道路へと落ちた。
近寄り、身をかがめ、髪をかきあげながらそれを拾い上げる。
──そこにあったのは、一枚の桜の花びら。一体どこから飛んできたと言うのだろう──この辺りには、木など生えていないはずだと言うのに。
「そっか」
僅かに口元を綻ばせながら彼女は立ち上がった。
再び吹き始めた風に乗せるように、そっと手を持ち上げ、振りかざす。
──花びらはしばらく彼女の掌に残っていたが、やがて小刻みに震え始めたかと思うと、あっという間にその姿を空へと移した。くるくると舞いながら、どこかへと飛んでいく──
その様子を目で追いかけながら、彼女はくすりと小さく……どことなく寂しげな微笑を浮かべた。
「もう──そんな季節なんだなぁ……」
呟いて、彼女──間桐桜は眩しそうに空を見続けていた。
「よい、しょっと」
ごとん──
置かれた衝撃で、バケツの中の水が揺れ、僅かに中身が零れて落ちた。
大きく息を吐き、桜は額を拭い、鞄をそっと墓石の傍へと立てかけた。
──衛宮家之墓。墓石にはそう刻まれている。
その文字をゆっくりと読み上げ、そして、嘆息。
のろのろとした動作で墓石の裏へと回ると、そこには箒と塵取が置いてある。それを手に取り、彼女は墓石の周りを掃除し始めた。
──お葬式では泣きませんでした。
今でもどうしてなのかはわかりません。
悲しくないわけではなかったんです。
悲しすぎて、悔しすぎて、何が何だかわからなかったかもしれない──今になって考えてもそのくらいしか、わからないんです。
掃除を終え、次に彼女は墓石へと水をかけ始めた。
濡れてない箇所がないように念入りに、何回も柄杓を持ち上げる行為を繰り返す……
──式が終わって、遺品だけが入ったがらんどうの棺を前にしても泣きませんでした。
ああ、からっぽだなあ、なんて。
そんなコトをぼんやりと考えていた気がします。
初めてお墓に行って、手を合わせて。
これからきっと、このお墓を掃除することが日課に加わるんだろうなあ、なんて。
そんなことを思いながら、ようやくわたしは涙を流しました。
──先輩が死んだと言うことを聞いたのは姉さんづてでした。
紛争に巻き込まれて死んだらしいです。詳細は知りません。だって、姉さんは詳しくは話してくれなかったから。
でも正直、それでいいと思いました。そんなことを知ってもきっと、何もいいことなんかないし。何より──もう先輩は戻ってこないのだから。
次に桜は身をかがめ、鞄を漁り始めた。中から線香とマッチを取り出す。束から数本を抜き取り、墓前にさす。マッチに火をつけようとするが、不器用なのか、なかなかうまくいかないようだ……
……お墓はロンドンにもあるそうです。あっちではもうお葬式もやっていて、遺品の半分はあっちに納めてあるそうです。だから、こっちには半分だけ。それだけしかないんです。
先輩はずっとこっちに住んでいたのに。海外に行ったのは三年前なのに。それなのになんで日本には半分しかないんだろう。それが凄く、悔しかったのを覚えています。
遺骨はそもそもないそうです。それがどう言うことなのかは────よく、わかりません。わからないんです。
わたしは何も知りません。きっと本当の先輩を何も理解できていません。今までは出来ているつもりだったのに。それがなんで、どうしてそんな風に思えてしまうんだろう──。
でも、それでもわたしはこうして今もお墓参りに来ているんです。ここに先輩だったものはなくても、でも、それはきっと大切なことだから……
見上げていた空から視線を下ろし。彼女はすっと手を合わせ、目を閉じた。
さわさわと。緩やかに風が流れる──。
「…………」
一分、二分……彼女はそうしたまま動こうとしなかった。
「……随分と長い間祈るのですね」
ふいにかけられた声に、桜はびくりと反応した。慌てて後ろを振り返る──そこには。
「カレン、さん……」
おおよそこの場所には似つかない、修道服の女性がそこには立っていた。彼女は無言のまま桜の隣に並ぶと、
「確か、こうやるのでしたね」
言って、両手を顔の前で合わせ、目を閉じる。
それを見て慌てて桜もまたそれに続いた。
「……今日来たのは、報告のつもりでした」
──カレンは唐突にそう告げた。
はっとして目を開くと、カレンは手を下ろし、じっと墓石を見つめていた。その表情は、どこまでも平坦なものだった。
「新しい赴任先が決まりました。こちらには……当分こられないでしょうね」
「──そう、ですか」
そっと目を伏せ、桜は頷いた。
「寂しく……なりますね」
「ええ、そうですね」
静かにカレンが同意する。
「あの頃に──」
やや声を張り、桜はすがるような眼差しをカレンへと向けた。その肩を掴もうとして……それはなんとか自制する。代わりなのか、自分で自分の体を抱きとめながら、彼女は訴えるような口調で告げた。
「あの頃に戻りたいな──、って。そう何度も思うんです」
視線を落とし、やや俯きがちになりながらもしかし、声はやはり大きいままで、続ける。
「姉さんがいて、先輩がいて──皆がいて」
きゅっ、と拳を握り締めて。桜は声を震わせた。
「一番、幸せでした……」
そうですか、とカレンは頷いた。視線をやや桜から逸らし、ふうと息を吐いて、続ける。
「──過去には戻れませんよ」
その一言は冷淡ですらあった。
「そう、ですね……」
俯き、自嘲するように笑う。
「でも」
ざっ──
カレンは背後を振り返りつつ、そう呟いた。
「だからと言って過去を全て切り捨てるのは、賢明とは言えませんが」
「思い出に!」
悲壮さすらその目に浮かべて、桜は言葉を投げかける──
「──思い出に、すがりそうになる、のは……きっと、弱いから、なんでしょうね……」
最後のほうは、ほとんど呟くように。
「そうですね」
カレンは小さく口の中で呟き、そしてそっと目を閉じた。
「でも……、きっと、とても、大切なことだと思いますよ」
さわっ……
風が二人を撫でる。
カレンは背後は振り返らず、前を見据えたまま口を開く。
「では、私は行きます」
小さく息を吸い込み、
「──さようなら」
その一言を告げる──。
桜はその一言を聞き、数秒動けずにいた。
だが……それでも、笑みを浮かべると、両手を胸の前で組みながら、
「────はい。さようなら、カレンさん」
その言葉を聞き、カレンは足を進み始める──
ざっ、ざ、ざっ、ざ、ざっ、ざ……
遠ざかる足音を聞きながら。
「……さよう、なら……」
桜はうなされるようにしてもう一度そう呟いた。
手を解き、墓石へと振り返り……桜は。
「……っ」
手で口を押さえて蹲った。こつん、と。墓石に額を押し付け、自嘲する。
「────先輩。先輩は、こんな私を笑いますか?」
もう聞こえなくなった足音をそれでも懸命に耳で探りながら、それでも桜は立ち上がらずに振る。
「でも──わたしは……生きます」
さわり。木々が揺れだす。
一雫。彼女の瞼から涙が零れて落ちた。
「これからも……先輩の分まで、生きていきますから……」
ざわっ──
雑草がざわめき出す。
「だから、先輩──」
泣きながら。笑いながら。彼女は必死に言葉を紡いで──
「───── 」
ざあぁぁぁ…………………っ
──彼女の言葉は、風に掻き消され。
風は舞い上がり、流麗に空を流れていく──
そしてその青空の中、一枚の桜の花びらがどこへ向かうともなく、舞っていた。