ゆらゆらと。
淡い光が一筋、畳の上に揺らめいている。
襖の外には、青い空。
薄い雲の広がる、暖かな一日──。
「空が……、綺麗だね……」
どことなく寂寥感が漂う部屋の中には、二つの人影。一人は布団の中に寝ており、もう一人は、その枕元にきちんと正座をして座っている。
「──ええ。そうですね」
包み込むような、暖かな声だった。
「……思えば、君には迷惑をかけたね」
光の筋に触れるか触れないかと言うところには、一本の腕が伸びている。腕は布団の上にあった。細く、皺だらけになったそれは老人のものだ。
「いえ」
短く否定するその声は、少女のものだった。凛とした、真っ直ぐな響き。それは涼やかに部屋に広がり、霧散する。
「いや……謝らせてくれ」
対してゆっくりと噛み締めるように呟いたのは、しわがれた声だった。所々擦れており、ひどく聞き取りづらい。が──それを考慮にいれてもなお、その声には人をひきつけるような何かが込められているようでもあった。
「私は……、君に迷惑をかけてばかりだったな」
老人は自嘲するようにそう呟き、布団から身を起こした。慌てて少女がその体に触れ、支えようとする──が、やんわりと老人によって押しとどめられた。細い、骨の目立つ老人の胸に押し当てられたその手をそっと見つめながら、彼はゆっくりと笑う。
「……すまないな」
少女は切なげな瞳を揺らす。
「……お願いですから、このくらいのことで謝らないで下さい」
老人は苦笑した。
「ああ──そうだな。……駄目だな。年をとると、つい弱気になる……」
「そんなことを……言わないで下さい、シロウ」
懇願するかのような言葉に、老人はそうだな、と頷いた。
「でもね、アルトリア」
眩しそうに空を見上げ、老人は呟く。
「私は……結構、満足しているよ」
「……」
アルトリアは何も言えずに、黙って老人を見上げている。
彼は空を見つめながら、穏やかに囁いた。
「この人生を送れたことに、満足しているんだ。そりゃあ、後悔がないわけじゃない。辛いこともあったな。うん、沢山あった……」
幾つか頷き、目を閉じる。その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「……でも、それ以上に……、楽しいことがあった」
そうして、目を開け、アルトリアを見つめる。
「だから──これでいいんだ。後悔は……していないよ。私は」
「そんな」
アルトリアは絶句したのか、目を見開き、ゆっくりとかぶりを振った。吐き出すように言葉を紡ぐ。
「もう終わりのような、そんな言い方は止めてください──」
「すまないな」
ぽん──、と。
その肩に手を置き、士郎は眉根を下げる。
「私は、……君にとっての正義の味方には、なれなかったのかも、しれないな……」
「そんなことは──」
「アルトリア」
士郎は優しい、だが強い口調でその名を呼ぶ。
「いや……セイバー」
はっ──
アルトリアは、その一言で目を見開いた──が、その表情がじわじわと微笑へと変化していく……
「随分……懐かしい名前を、引っ張り出すのですね」
「そうだな。もう、何十年前になるか……」
呟いて老人は目を閉じる。その脳裏に浮かんでいるのはどんな思い出なのか。
「セイバー」
士郎はもう一度その名を呼ぶ。
「はい、シロウ」
すかさず、少女が頷く。
そんな気配りはいいんだよ──そう笑いかけながら、老人は、微笑んだ。
「手を……握っても、いいかな」
「はい」
真っ直ぐに目を見つめながら、少女は頷く。
ありがとう、と。そう小さく零して老人──衛宮士郎は胸元でその手を取った。頬と皮だけのようになったその両手で、まるで宝石でも受け取るようにそっと、優しく。
「温かいな──」
目を閉じながら、士郎は一人、呟く。
「ああ────本当に、温かい……」
つ……っ
一筋。涙が一筋、右目から零れ落ちた。その水滴は落下し、そしてアルトリアの手に落ちた。
「……シロウ」
アルトリアは途惑ったように笑う。わずかに頬を染め、そして目を潤ませて。
「……ありがとう」
老人は呟く。ただ純粋で純朴なその言葉。その一言が、アルトリアは唇をきゅっと噛み締めさせた。
「ありがとう──セイバー」
さぁっ…………
風が、吹いた。
襖の隙間から入り込んだ一陣の微風が、二人の間を通り抜けていく。
「シロ──」
言葉は、そこで止まった。
セイバーと呼ばれた少女は、絶句していた。
ふ……
部屋が、僅かに暗くなった。
太陽が雲に隠れたようだった。
少女は老人の手を握り締めたまま、そのまま動こうとはしない。
目を閉じる。
再び、開ける。
再度、閉じる──
「……こちらこそ……ありがとうございます、シロウ」
囁いて。
少女はゆっくりと、老人の体を布団の上にそっと倒した。
再び、光が薄く部屋を照らし始めた。
──涙は出なかった。
元より覚悟はしていた。
長く生きたほうだろう。少なくとも、彼の妻よりは長く生きた。
長い時間を。
本当に生きていた年月以上の時を、彼と共に過ごした。
「思えば……この家も、随分古くなりましたね……」
そっと屋敷の柱を撫でながら、金髪の少女はすっと目を細める。
「まあ、それも当然か。もう……何十年も経っているのですから……」
呟きながら、彼女はゆっくりと歩みを進める。
わずかに軋む床の音。色あせた壁。埃の溜まったままの廊下の隅──それら全部を楽しむように、あるいは記憶するかのように見つめながら。
「ここが……居間ですね」
呟き、少女はそっと襖を開いた。
そこには、随分と古い形のテレビと、机がある。
人は誰もいなかった。
居間はしんと静まり返っている。
「そうですね、次は──」
くるりと振り返ると、セイバーは次の場所へと進んでいった。
風呂場。
台所。
離れ。
裏庭。
そして──
「──ああ、ここだ」
呟いて少女は微笑んだ。
そこは、薄暗かった。
ガラクタなのかゴミなのかすらわからないものが、乱雑に詰め込まれている。
「……私とシロウの物語は、ここから始まったのですね──」
目を細め、すっ、と息を吸い込む。
「問おう──」
口から言葉が、滑り落ちる。
「貴方が私の──マスターか」
腕を、まるで剣を持っているかのように突き出し──告げる。
その言葉を始めて発した時──目の前には、とまどいと驚きの表情を浮かべた少年がいた。
しかし、今は、その先には誰もいない。
誰も──、いない。
土蔵の中は、しんと静まり返っている。
「………」
少女は自嘲のような笑みを浮かべた。
「聖杯……戦争」
ぽつり、とその単語が零れ落ちた。
「懐かしい……思い出ですね」
一歩後ずさり、土蔵の中から出て、壁に背を預けてセイバーは空を見上げた。
青かった空は、赤く染まり始めている。
「そうか──もう、あの思い出すら、懐かしいのですね……」
言って、目を閉じる。
「……あれから随分長い時が過ぎた……」
聞こえるのは、わずかな音。風の流れるような。
「──本当に……長い年月を過ごしたのですね……」
そう呟く声は、わずかに震えていた。
そうして少女は視線を落とし、自分の掌を見つめた。唇を噛み締める。息を吸う。さらに吸う。吸って──そして、一気に吐き出す。
「……………さて、と」
言って、少女は顔を上げた。
ゆっくりと土蔵の扉を閉めてから、歩き出す。
やがて門へと辿りつき、再び足を止める。
──振り返る。
「…………」
さわさわと木が揺れている。
髪がなびいている。それをそっと押さえながら、屋敷を見つめ──
「…………さようなら……シロウ」
小さく呟き、
そっと、門を開ける。
そして……少女はゆっくりと歩き出した。
風の舞う、夕暮れの道を。
薄く輝く、音のない道を──。