後後日談。
「すいません、無理でした」
と――
居間に入ってくるなりしれっと言い捨てたのは、バゼットだった。
昼過ぎ──衛宮邸の居間は平穏な一時に包まれていた。頬杖を付いてぼんやりとテレビを見ている凛。みかんの皮剥きに夢中になっているセイバー。その二人の分のお茶を入れている桜。何故かごく当たり前のように座っているカレン……
「……何が?」
お茶を飲みながらテレビを見ていた士郎は、唐突に開いた襖へと振り返り、半眼で呻いた。
「いえ……、実は思ったよりも事態は深刻なことになっていまして」
言いながらバゼットは、顔をしかめてかぶりを振った。素早く居間の中へともぐりこみ、失礼、と呟いて無造作に士郎の隣へと座る。
ぴくり、と一瞬凛と桜が動きを止めるが、それでも二人はそれ以上の反応はしなかった。
「えーとな、バゼットさん」
とんっ。
湯呑みを置き、士郎は静かに尋ねた。
が、バゼットはそれに対してかぶりを振る。こほん、と咳払いをしてから、
「……以前にも言ったとは思いますが。私のことは呼び捨てて構いません」
ぴくっ。
桜が急須を傾ける手を止める。
「ああ、そう。ならバゼット」
「はい、何でしょう、士郎君」
言ってバゼットはにこりと微笑む──士郎は僅かに視線を逸らしながら、
「ええと……その、待ってくれ。一体何の話さ」
ずり、とわずかに身を離しながら士郎が聞き返すと、バゼットは呆れたように肩を落した。
「鈍い人ですね、士郎君は」
「ああ、俺が悪いんだ?」
皮肉めいた口調で告げる士郎に、バゼットは真顔で頷き返すと、
「そうですね、あまりこう言うことを言うべきではないと思いますが、士郎君は少々デリカシーが足りないかと。まあそれがまたいいという意見もありますが──いえ、失礼。その話ではありませんでしたね」
ぴくぴくっ。
テレビを見たままの凛から、嫌なオーラが滲み出している。
たらり──と頬に一筋の汗を浮かべながらも、士郎は聞き返した。
「……で、なにが?」
聞き返すと、バゼットはむう、と唸って腕を組んだ。
「いえ。……難しいですね、どこから説明したものだか……」
『ふ……』と遠い目をするバゼットの横で、士郎がこっそりと呟く。
「長くなりそうなら別にいいぞー。そんなに興味ないし」
バゼットはこほん、と咳払いをしてから、きっぱりと無視して続けた。
「そうですね、まあ端的に言うと、先日にこちらに伺った際に、一週間で住居を見付けると言う話になっていたはずですが、無理だった、と。そういうことですね」
「ふうん?」
士郎は適当に相槌を打って──
「………………え?」
そして、ぴしりと硬直した。
凛と桜もまた、同様に固まっている。
バゼットはふるふると力なく首を振ると、
「ですから──、無理だったのです」
「いや、無理ってさ」
口元を引きつらせながらなんとか呻く士郎に、バゼットは、いえそれがですね、と詰め寄って、
「やはり色々と問題がありまして」
「だってほら、あっちの洋館とかさ」
が、バゼットは真顔でぶんぶんと首を横に振った。真剣な眼差しで士郎を見据え、そして告げる。
「いえ、あそこは駄目です。幽霊が出そうですし。怖くて住めたものじゃありません」
「絶対嘘だ! ってアンタが幽霊とか怖がってどうするんだっ!?」
叫ぶ士郎に向かって、バゼットは心外だと言うように眉を寄せた。
「何を言うのです。怖いものは怖いのだからしょうがないではないですか。……それに正確には幽霊などは私の専門分野ではありませんよ」
全くもう、と口を曲げて腰に手を当てるバゼットに、士郎はげんなりとしながら、
「いや、そこらへんはまあどうでもいいんだけどさ。でもほら、とりあえずぐーで殴ればなんとかなるだろ。アンタなら」
「失礼な。貴方は私を一体何だと」
「いや、何って──」
ひくり、と頬を引きつらせる士郎の横で、カレンがぼそりと、
「……人間凶器?」
刹那。
『ひゅばあ──っ!』とカレンに向けて突風が舞い起こった。猛烈な勢いでカレンの髪が舞い上がる。そしてその一瞬後、彼女の鼻先数ミリの位置にバゼットの拳が出現していた。
「カレン。何か?」
にこり、と笑みを貼り付けつつバゼットが尋ねる。
「……とりあえず何も言えそうにないわね。気絶してるみたいだし」
つんつんと頬をつついている凛が、嘆息しつつぼんやりと呻く。
その様子を眺めている桜が、小さく呟いている──。
「と言うより、今の行動が何か色々物語っていますよね?」
「さて、士郎君」
ぎゅむっ。
きっぱりとその発言を無視して、微笑みながらバゼットは士郎の手を両手で握り締めた。
「そう言うことですので、やはりこちらでお世話になることにしたいと思います。申し訳ないとは思いますが、よろしくお願いしますね?」
「いや、なんだかこれって拒否権ないような、って言うかどう考えたって脅迫だー!」
だらだらと汗を浮かべる士郎に、バゼットは不満そうに口を尖らせた。
「失礼な。ただお願いしてるだけではありませんか」
「なるほど。と言うことは断った瞬間手を砕かれるなんてことはないんだよな?」
引きつった笑みを浮かべて士郎が尋ねると、
「それは時と場合によるのではないでしょうか?」
バゼットはすかさずにこやかに切り返した。
『…………………』
沈黙。二人はぎこちない笑みを浮かべたまま見詰め合っている──。
「と、遠坂っ!?」
たまらず助けを求めるように叫ぶ士郎に、凛はうぐ、と小さく呻くが──それでも小さく頷くと、きっと視線を鋭くした。
「バゼット。少しいいかしら」
身を乗り出し、真剣な眼差しで──、凛は真っ直ぐにバゼットを見据えた。
「はい、何でしょう」
バゼットもまた顔を引き締め、聞き返す。士郎の手は離さなかったが。
凛はさっと手を振るうと、かぶりを振ってみせた。
「約束が違うんじゃない? 確か初めは一週間だけ、と言うことになっていたはずよね?」
「ええ。そして今その期間を延長するようお願いしているわけですが」
「そうね」
こくり、と凛は頷いた。そして真剣な表情のまま士郎へと向き直ると、
「と・言うことらしいわよ、衛宮くん」
言い捨てた。
「って遠坂―!?」
たまらず悲鳴をあげる士郎。彼は素早くバゼットの手から逃れると顔を引きつらせたまま凛へと詰め寄り、声を押し殺したまま必死に囁いた。
「……どうにかしてくれよ。こう言うの得意だろ、遠坂」
士郎から必死に目を逸らしつつ、凛は低く叫ぶ。
「ああもう、こっちに話を振るんじゃない……っ! 衛宮くんの家の問題なんだから衛宮くんが一人でなんとかしなさいよねっ!」
「どうにもなりそうにないから言ってるんだろ?」
「そこをどうにかするのが腕の見せ所ってもんでしょう……?」
ぎしり、と険悪な空気を撒き散らしながら睨み合う二人──
「ええと、随分仲がいいんですね?」
そして、その後ろから桜が困ったように呟いている。その横ではうんうんとセイバーもまた頷いている。が、凛は『だんっ!』と机を叩くと、
「ああもう、今はそれどころじゃないでしょっ!?」
「でも姉さんは先輩を助けるつもりはないって言っているように聞こえたんですけど?」
的確な桜の言葉に、凛はぐっと言葉を詰まらせた。
「だ、誰もそうは言ってないでしょ。ただ──」
「……すみません、話を戻してもいいですか?」
──と。盛り上がりかけた場に水を挿したのは、バゼットの一声だった。
『あ、はい。』
すかさず口をつぐむ凛たち。
その反応に満足したように、鷹揚にバゼットは頷き──さて、と士郎に向き直った。両手を広げ、緩やかな微笑を湛えたまま、静かに尋ねる。
「士郎君、私が聞きたいのは要するにイエスなのかノーなのか、と言うことです」
「い、いや、いきなりそんなことを言われても、だな……」
気弱そうに視線を彷徨わせながら、士郎。
「ふむ。そうですね──」
その様子を観察しつつ、バゼットは顎に手を当て、数秒黙考。そして彼女はぱっと輝かせると、指を立てて、
「ああ、ではこう言うのはどうでしょう。ここは公平に、私と士郎君の一騎打ちで決めようではありませんか」
「いや、どう考えても勝てないし。どこも公平じゃないし」
ふるふると首を振りながらなんとかバゼットから遠ざかろうと身をよじる士郎に、バゼットは苦笑しながら続けた。
「大丈夫ですよ。別に殴る蹴るの話ではありませんから。──そうですね、ではじゃんけんなどはどうでしょうか?」
「えーと、なんだか誘導されたような気がするのは気のせいなのかな?」
ますます顔を引きつらせる士郎に、バゼットはにこやかない笑いつつ、
「そうですね。気のせいでしょう。と言うわけで最初はグー、じゃんけ──」
「だあああっ! 待った、いいからっ! 住んでいいからー!」
拳を握り締めたバゼットを見て、慌てて士郎は絶叫した。
「…………言いましたね?」
にやり。
バゼットが、してやったりと言うような悪魔の笑顔を浮かべる。
「……あ。」
「っこのばかー!」
ぽかんと口を開けている士郎に一足飛びに近寄ったのは凛だった。ぐいっと襟首を掴み挙げ、声を押し殺してぎろりと士郎を睨みつける。
「ちょっと士郎どうするのよ! 本格的に居座られたら後が色々面倒なことに……」
「じゃあどうしろって言うんだ……?」
見捨てただろ遠坂、とぼんやりと呟く士郎。
「そうですね。まあ目をつけられた時点ですでに手遅れだったと言うことではないでしょうか」
と。いつの間に目を覚ましていたのか、お茶をすすりながらさらりとカレンが告げた。凛はきつい視線でそちらを睨みつけるが、それも一瞬。すぐに彼女は笑みを浮かべると、うふふふ、と笑いながらゆっくりと尋ねる──
「そうね、なんだか妙に説得力のある意見だわ。ところでカレン、貴女はいつ出て行くのかしら?」
「そうですね」
カレンはこくりと頷くと、『ふ……』と士郎に流し目を送った。
「先日の出来事が思い出に変わるまで──、では駄目でしょうか、士郎さん」
「え──えええ?」
目を白黒させながら、士郎が呻く。ぞくり。背中がわずかに震える。
その様子を見据えながら、カレンは首をかしげてみせた。
「それとも、あれは貴方にとっては思い出のひとつにも入らないと?」
「い──いやっ、一体何のはな──」
慌てて首と手を振る士郎。そして。
「えーみーやーくーん?」
ゆらり──と士郎の背後で、あかいあくまが立ち上がった。がっしとその肩を掴み、うふふふ、と笑っている。
「一体、何の話なのかしら?」
そしてそれに、桜が続く。あくまでにこにこと笑いながら、妙に迫力のある低い声で、士郎の耳元にそっと囁く──
「そうですね。わたしもその辺りのことをじっくり聞きたいのですけれど、先輩?」
二人の様子に、士郎は慌ててカレンに詰め寄った。引きつった笑みを浮かべつつ、鋭く囁く。
「い、いや──その──、カ、カレン。アンタ一体何の話さ、それ」
「詳しく話していいのですか?」
こくりと無表情のまま首をかしげるカレンに、士郎はうっと口ごもった。
「え──、いや。いいに決まってる、って言いたいんだけど、なんだか妙に嫌な予感が──」
そして。カレンは落ち着き払った、しかしよく通る声で、
「そうですね。まず結論から言えば、この●●、と。そう言うことでしょうか」
言い切った。
言い切って──
『……………………………。』
居間に、沈黙が訪れた。
その反応が不満だったのか、それとも本当に場の様子が掴めていないのか──カレンは僅かに眉を寄せると、再度口を開いた。
「? 聞こえませんでしたか? ですから結論から言えば、この──」
がっし。
カレンの口を、士郎の手が瞬時に防ぐ。士郎は汗をびっしりと浮かび上がらせ、真っ青に顔を引きつらせながら、
「え──ええと、カレンさん? 君は一体何を言っているのかなぁ……?」
必死の形相でカレンの襟首を掴み、士郎は呻く。がくがくと成すがままに揺さぶられつつも、カレンは心底冷え切った視線を送って、
「また乱暴にするつもりですか。やはり病んでいますね、貴方は──もが」
「あーのーなー……」
再び口を押さえ込み、ぜーはーと士郎は肩で息をする。
「また……?」
ゆらり──、と。
士郎の背後で、何かが蠢いた。
「と……遠坂、さん?」
恐る恐る、士郎は振り返る。
「ねえ、衛宮くん。何が『また』なのかしら?」
――そこにいたのは。
見間違いようがないほどに、とびっきりの笑顔を浮かべた、あかいあくまだったわけで――
ひいい、と顔を引きつらせる士郎の横で、バゼットはこくこくと頷きながら顔を赤らめていた。何度も頷きながら、ぼそりと呟く。
「……全く。まあ確かに士郎君は、普段からその――もう少し乱暴と言うか、雑というか。そう言うくらいの方が、その──いいと思いますが」
「ふうん……?」
…………ぎし、り。
凛がつかんだ士郎の肩が、悲鳴をあげる。振り向くことすら出来ずに、士郎はただただ痛みに耐えながら歯を食いしばる。
「ま、待てっ。バゼットあんたそれ絶対勘違いされるから! このタイミングでそう言うせりふは――」
必死に叫ぶ士郎の後ろでは。
「せんぱーい? ちょっといいですかー?」
「シロウ。私もいくつかお聞きしたいですね」
「士郎―? うん、もう言わなくてもわかってるわよねー? ──死刑よ、死になさい。」
もう、どうしようもないくらいに殺気が膨れ上がっていて――
「って、ちょっと待てー!?」
たまらず悲鳴をあげて士郎が居間から飛び出した。直後、漆黒の飛礫が直前まで士郎がいた場所を打ち抜く──そして、ちっ、と言う舌打ちと共に、
「うるさいっ! 逃がさないわよこのへっぽこ! セイバー回りこんで! 桜、援護お願い!」
『了解です!』
凛の怒鳴り声に桜とセイバーはこくりと頷くと、それぞれ別々の入り口から飛び出していく──
「って、なんでこんな時に限って息がぴったりですかこの三人はー!?」
廊下の奥から聞こえてくる士郎の声は、悲壮じみていたりした。
「ああもう逃げるな! 大人しく当たりなさい!」
があー、と叫ぶ凛に、
「無茶言うな、このばかー!」
士郎は半泣きになりながら叫んで角を曲がり、姿を消す──
「あっははは! 言うに事欠いてばか? ばかですって? ──いい度胸だわ、くたばりなさいへっぽこ」
真顔で言い放ちながら、凛もまた居間を飛び出していく……
「あーもうなんなのさこれええええっ!?」
悲鳴だけが、聞こえてくる。
その様子を黙って──と言うより、事態についていけなかったと言う方が正しい──見ていたバゼットは、
「────ふむ。賑やかですね」
呟いて、かくりと肩を落とした。
「ええ。騒がしいことこの上ありませんが」
お茶をすすり、静かにカレンがそれに同意する。
どすん、ばたんと遠くからやたらと物音が響いてくる──
「そのようですね」
バゼットは苦笑してそれに同意し──そして、小さく呟く。
「でも、」
「……?」
囁くようなその一言に、カレンは僅かに首を傾げてみせた。
そしてバゼットは、大したことはないのですが、と手を振りながら、
「いえ。──ただ……、こういうのも、悪くはないですね」
──そう言って、もう一度苦笑した。