後後後後日談。
1.
「と・言うわけで――」
そこまで言って凛はにっこりと微笑んで周囲を見渡した。薄暗い森の中にはバゼットとカレンが、不満げな表情を隠そうともせずに立っている。夕暮れ時。もうすぐ日が沈むという頃だった。そして凛はすっと息を仕込むと、『ばっ!』と手を広げて見せた。その後ろにあるのは、寂れて荒廃した洋館である――
「様々な事情の結果、今日からここが貴女たちの家となりました! 色々と大変なこともあると思うけどまあ知ったこっちゃないので適当に頑張ってください、じゃっ!」
片手を挙げてそうきっぱり言い捨て、くるりときびすを返して元来た道を進み始める。そして。
「待ちなさい。」
ばしゅん、べちゃっ!
即座にカレンの放った聖骸布に足首を絡め取られ、凛は顔から地面に叩きつけられた。
「………う……くっ」
顔を土まみれにさせながらもなんとか身を起こし、凛は唸る。
ざっ――。
そのすぐ前までやってきて、カレンは凛を見下ろしながら静かに告げた。
「納得がいかないですね。前回あの家に住めると言う話になったはずですが?」
「その通りだ。すみませんが、私もこれには賛成しかねます」
ふう、と嘆息してバゼットがカレンの横に並び、威圧する。さりげなく手袋をはめ直しつつ、ぎろりと睨みつけて。
「……まあ確かにそんなこともあったかもしれないけど。でも――」
ミノムシのような格好になったまま、凛は不敵な笑みを浮かべて見せた。ふふん、と鼻で笑いながら、顔についた土を拭う。
「でもだからって住む所がないって言うから住む所を提供してあげた挙句、文句まで言われる筋合いはないと思いません?」
「約束は果たされるべきでしょう」
静かに告げるバゼットを見て、凛はしてやったり、と口を歪めた。
「どこかいい場所を知っていたら教えて欲しい――でしょ? だから教えたのだけれど。何か問題が?」
「そ、それは――」
何かを言いかけたが、結局思いつかなかったのか、バゼットは閉口した。少し考えてから――、彼女は慎重に口を開く。
「……しかしそもそも、ここは貴女の所有する建物ではないのでは……? 確かここの所有者はエーデル――」
「いいのよ別に。」
凛は迷いなく言い切った。
「電気やガスは……」
「通ってるわよ。ついでに水道もね」
「かなり古そうですが」
「年季は入っているけど十分住めるでしょこのくらい」
「ひどく交通の便が悪そうなのですが――」
「あら。でしたらどうぞ、他の所に住めばいいのでは?」
いつの間に束縛から抜け出したのか、バゼットの前に立ち、腰に手を当て威圧的に言ってのける凛。
「……わからないひとね」
と――
バゼットの不利を悟ったのか、カレンが途中で口を挟んだ。
「ここより衛宮士郎の家がいい、と。そう言っているのよ」
つまらなそうな表情でぼそりと呟き、カレン。
「ええ、ですからそれについては却下する、と言ったはずですが?」
にっこりと笑いながら怒りのマークを浮かべ、凛。
「あら。ただの居候の分際で何を偉そうに。そもそも反対しているのは貴女と桜さんだけじゃない」
カレンは目を細め、薄ら笑いを浮かべながら一歩凛に近づく。
「うん、でも諸手を挙げて歓迎しているひともいないわよね?」
凛はやはり迷わず言い切り、ますます笑顔を貼り付ける。大きく一歩踏み込みながら。
「……………………………」
「……………………………」
一方は笑顔を保ったまま、もう一方は無表情のまま、静かに睨み合う――
「……じゃあ、そうね。こうしましょう」
根負けしたかのように嘆息して、指を振りながら凛は続けた。
「例によって期限は一週間。その間に――」
そして、びっと指を突きつけ、凛は告げた。
「どうしても、ここに住めないって証拠をだして」
「……それでいいのですか?」
胸の前で手を組み、驚いたように聞き返すカレン。
「ええ、そうよ」
凛の言葉に、カレンとバゼットは目を見合わせた。一瞬でアイコンタクトが成立したのか、互いにこくこくと頷いている。
やがてバゼットが一歩前に出て、ちょっといいですかと質問した。
「開始は明日からでいいのですよね?」
「そうね。いくらなんでもこの状態でいきなり放り込むのは酷でしょうし」
「わかりました。では凛さん――」
言ってバゼットは重々しく頷くと、ずびしと凛に向かって指を突きつけた。
「……その申し出を受けましょう。ただし、ひとつ条件があるのですが」
「そう? ならちょうどいいわ。こちらからも提案があるのよね」
凛は不敵に笑いながら、真っ向から二人と対峙する――
薄暗い夕暮れの森の中。
三つの妖気がいつまでも渦巻いていた――。
2.
翌朝――
「さて、じゃあ準備はいいわね?」
昨日と同じ場所に立ち、凛はぱんぱんと手を打って声を張り上げた。
「ええ」
巨大なリュックをどすんと背後に下ろし、静かにバゼットが頷く。
「同じく、です」
小さなショルダーバッグを揺すり、カレンもまた同じように頷く。
「……いや、待った。」
そう呟いたのは、マグダラの聖骸布に全身を巻き取られ、ぼろぼろになった――無論、ここまで引きずられてきたためだ――士郎だった。
「ひとまず、色々と突っ込みたいことがあるんだけどな」
半眼で唸り、士郎は心底疲れたように嘆息した。
「……とりあえず、なんでこうなってるのさ」
「居間でゴロゴロしていた所をふんじばってきたためですが」
顔色ひとつ変えずにさらりと告げたカレンに、士郎は喚き散らす。
「違うっ! いや、それはそうかもしれないけどそう言うことじゃないっ!」
横になった体勢のまま限界まで首を上げ、士郎は抗議した。
「なんで俺まで一緒に行かなきゃならないんだっ!?」
「貴方は備品です」
カレンは涼しげに告げた。
「は?」
眉を潜めて聞き返す士郎に、ええとね、と凛がフォローを入れた。
「……つまり、士郎には家事手伝いをやって欲しいらしいのよ。最もこれはカレンたちの意見だけじゃなくて、わたしからの提案でもあるんだけどね」
「…………は!?」
声を荒らげて、士郎は顔をしかめた。少し絶句してから、半眼で口を開く。
「えーとさ」
ひくりと頬を引きつらせ、剣呑な口調で士郎は続ける。
「俺の意見は?」
『却下。』
三人は完全にハモり、告げる。
「……ああ、そう」
完全に据わった目つきで、士郎はふてくされたようにそっぽを向いた。
実は、と言いながらバゼットが一歩踏み出し、身をかがめる。
「……士郎君、恥ずかしい話ですが、私はどうもその、家事全般に疎くて」
「うん、別に意外でもなんでもないぞー」
ずぱんっ――!
無呼吸のフリッカージャブを士郎の顔面に直撃させながら、バゼットは何も聞こえなかったのように平然と続けた。僅かに目を伏せ、はにかみながら告げる。
「と言うわけで、士郎君の力を借りたいのです」
「いやまあ、そう言うことなら」
ぼたぼたと鼻血を垂らしながらもしょうがないか、と士郎は頷きかけ──その途中でん? と首をかしげた。先ほどから傍観している凛に向かって、こっそりと尋ねる。
「え、でも遠坂、それでいいのか?」
「……しかたないじゃない。飢え死にでもされたらそれこそ寝覚めが悪いもの」
むー、と唸り、凛は口を曲げて嘆息混じりに呟く。
「……それにね、士郎」
しゃがみこみ、ぼそぼそと士郎に耳打ちする。
「ここで頑張れば、彼女たち追い出せるのよ。だから、ね?」
「あ、ああ……」
疲れたように頷く士郎。
カレンはその様子を見下ろしてから、ふうと嘆息しつつ進み始めた。ぐいぐいと布を引っ張り、さっさと屋敷の中へと入っていく。
「さあ、行きましょうか、士郎さん?」
「くっそお、覚えてろよ……」
ずりずりと引きずられつつ唸る士郎。
「がんばってねー」
屋敷の中に入っていく三人を見送りながら、凛はひらひらと手を振る――
――かくて。
一週間限定の、三人の共同生活が幕を開けたのだった。
3.
「――で、一体何がどうなってこうなるんだ」
屋敷の中に入って数分後。
士郎は地面に転がされたまま、吐き捨てるように呻いていた。
「いいではないですか。たまには別の場所で寝泊りするというのも新鮮でしょう」
まあまあ、とバゼットが荷ほどきをしながら笑う。
「それはそうだけど、ってそうじゃない。何で入っていきなり脱がされてんだ。他にやることあるだろこのばかー」
……士郎は拘束された状態のまま上着を脱がされていた。
「気にしないで下さい」
『超油性』と書かれたサインペンをきゅぽっと開けながら、カレン。
「……無茶言うよな、アンタも」
ひくりと顔をひきつらせながら、じりじりと全身を動かしてカレンから逃げる士郎。くそ、と呟きながら呻いている。
「しかし遠坂も、なんでこんな条件飲んだんだか……」
「あら。愛されてる自信でもあるのかしら。随分うぬぼれやなのね、(自主規制)のくせに」
「うん、何も聞こえなかった。何も聞こえなかったからなー」
はっはっは、と乾いた笑い声をあげながら、士郎。
カレンは無表情のままこくりと小さく首をかしげて、
「……もう一度言ったほうが?」
「やめてくれ。さすがにフォローしきれないぞ」
深くため息をついて、士郎はがっくりと首を垂れた。
「…………」
カレンは無言のまま士郎をじっと見下ろしている。
頬に一筋の汗を垂らしながら、士郎は言った。
「……いや、何?」
「いえ。ペインティングが似合いそうな顔だと思いまして」
「ノーコメントだからなー?」
半眼で唸ってから──、ああもう、と士郎は嘆息した。
「……わかった。わかったからとりあえずこれほどいてくれ。このままじゃ何も出来ないって」
「……何かしてくれるのですか?」
言ってカレンは再び首をかしげる。
「するからさ……」
しぶしぶ士郎は頷いた。
「わかりました」
ぽつりと呟いて、カレンは聖骸布を士郎から剥がした。
こきこきと肩を回して士郎は立ち上がり、口の端を歪めながらやけくそのように声を張り上げた。
「――で。何をご所望ですか、お姫さま?」
「ですからこれを」
言って差し出されたのは先ほどのサインペン。
「だからそれは却下!」
べしんとペンを叩き落として、士郎は叫ぶ。
「では、そうですね――」
何故かきらきらと期待に目を輝かせてカレンは詰め寄った。両手を顔の前で組みつつ、薄く笑う。
「ののしりなさい、下僕?」
「だからっ! 違うだろ家のことだろっ!? それ以前にその命令は色々ありえないだろー!?」
一気に叫び──、はあはあと肩で息をする士郎。
「……興奮?」
小首をかしげて尋ねるカレン。
「疲れただけ……」
のろのろと呻き声を上げて士郎は嘆息する。ぎろりとカレンを一睨みしてから、きびすを返し、ひらひらと手を振りつつ他の部屋に向かい始める――。
「ああもう、やってられるか。寝るからな俺は」
「まだ昼間ですが」
「……おかげさまでいい感じに疲れてるんでね、ぐっすり眠れそうだ」
皮肉っぽく言い捨てて、扉を押す。
「待ってください」
くいっ──
出て行こうとする士郎を、カレンが服の裾を掴んで呼び止めた。
「先ほど、手伝うと言ったのでは?」
「ああ、じゃああれ撤回。俺はもう疲れたの。おわかり?」
面倒くさそうに呟いて、士郎は再びカレンに背を向ける。
「約束は守られるべきです。契約の重要さは、貴方が一番よくわかっているでしょうに」
「あのなあ――」
呆れたように顔をゆがめて、士郎は再び振り返った。
「何も手伝わないとは言わないけど、ひとまずアンタたちがなんとかしろよな。仮にも自分たちの家なんだから自分たちでなんとかするのが道理だろ。どうにもならなくなってから俺に言ってくれよな」
「…………」
士郎の言葉に、カレンはしばし黙考した後――
「……ギブアップ、です」
あっさりとそう言って、ぴこんと小さく両手を挙げた。
「早いし!?」
たまらず士郎は叫んだ。
と、今度は風呂場からバゼットの声が響いてくる――
「し、士郎君っ、なんだか色々と大変なことに――ああああっ、士郎君―!?」
「…………………はぁ」
嘆息。
士郎はカレンを見て、バゼットのいる風呂場を見てから、もう一度カレンに抜き直った。
「ああくそ、やればいいんだろやれば! カレン、とりあえずあんたは掃除を頼む。俺はあっちのフォロー行ってくるからなー!」
言い捨てて慌ただしく走り去っていく士郎。
それをぼんやりと見ながら、カレンは――
「……ゲット」
小さく呟いて、ぐっと拳を握り締めた。
4.
――3時間後。
「うん、まあ大体こんなもんだろ」
そう呟き、ぱんぱんと両手を叩いてから士郎は額の汗を拭った。
屋敷の中は見違えるほど綺麗になっていた。さすがに古びた感は拭いきれてはいないものの、少なくとも住めないような環境と言うほどではない。最も、きちんと片付けたのはリビングとキッチン、バス、トイレのみだけであり、その他の部屋は全くの手付かずなのだが――。
「……素晴らしい。まさかここまで変わるとは――」
ぽかんとした声をあげたのはバゼットだった。ぐるりと部屋を見回し、そして感極まったようにうんうんと頷く。
「いや、凄い。あんなにひどかったのにここまでなるとは。士郎君は本当に凄いですね」
心底関心したような声に照れたのか、士郎は苦笑しながら、
「いや、皆でやったからだろ。俺一人だったらこんなに早く終わらなかっただろうしさ」
「謙遜しなくてもよいのですよ。全くもってこれは貴方のおかげだ。……もし私とカレンだけだったら、今頃どうなっていたことだか……」
『ふ……』と遠い目をするバゼットに、士郎は一筋の汗を垂らしながら唸りながらこっそりと同意する。
「……うん、まあそれは確かにそうかもしれない」
頷いて士郎がちらりと見たその先には、寝室があった。水回りの点検にいそしんでいた士郎が、これなら大丈夫だろうと二人に掃除を任せたのだが――
「……何をどうやったらあそこまで出来るのさ」
……寝室は、入ったときよりもぐちゃぐちゃになっていた。ぐちゃぐちゃ、と言うよりも破壊されたと言ったほうが正しい。
「過ぎたことを悔やんでも仕方ないですよ」
しれっと言ってそっぽを向くカレンを、士郎は半眼で睨む。
「や、ちょっと反省したほうがいいと思うぞアンタは」
「そうですよカレン」
「……バゼットもな」
たしなめるバゼット。半眼で突っ込む士郎。
「…………はい」
申し訳なさそうに身を縮ませるバゼットを尻目に、カレンは『ぱんっ』と手を打って、
「……さて。ではそろそろご飯にしましょうか」
その言葉に士郎は机の上にある置時計(持ち込んだものだ)を見た。時刻はすでに1時を回っているようだった。
「え? あ、もうこんな時間か。じゃあ何か作るけど、リクエストあるか?」
「いえ、特に」
「同じくありませんが」
揃って告げる二人に、士郎は皮肉げに口を歪めた。
「……そういうのが一番困るんだけど。ああもう、じゃあ食べれないものとかをあげてくれ。後はこっちで適当に見繕って……って、あ、そうか。しまった」
言葉を途中で止めて、士郎はキッチンをちらりと見て嘆息した。
台所は一応水道とガスが通っているものの、調理器具は全くと言っていいほどなかった。バゼットたちが持ち込んだものは箸やフォークくらいであり――要するに料理をしようという気がないようだが――、この状態ではどうしようもないのが現状だった。
「……あー、まあ今日は時間もないしどこかで食べにいくか」
「士郎君が作るのではないのですか?」
不思議そうに聞き返してくるバゼットに、士郎は苦笑して、
「いや、そもそも食材も買ってないし、さすがにどうしようもないぞこれ。だからまあ今日はどこか適当なところで食べよう。――まあご飯の後にでも買出しして、色々と必要なものは買ってこよう。うん」
言って、ひとりこくこくと頷いている。
その様子を眺めながら、カレンとバゼットの二人がひそひそと、
「……ふむ。どうやら逃げ出そうという気はなさそうですね」
「ええ。いい兆候ですね。ゆくゆくはこのまま調きょ、もとい飼いなら、もとい餌付けを」
「……どうしたんだ?」
ぼんやりと不思議そうな顔をして士郎が尋ねると、バゼットは慌ててばたばたと手を振りながら、
「いえ特には。――しかしなるほど、それはいい考えです。確かに日用品が不足していますから、早急に対処すべきですね」
「ああ」
頷く士郎。次いでカレンが一歩前へと踏み出して、
「……ちなみに昼食についてなのですが、何円まで奢りになりますか?」
「……いや、そもそも奢るとかないから」
きらきらと目を輝かせて聞いてくるカレンに、士郎は半眼で呻く。それを聞いて、カレンは途端に冷めた表情を浮かべ、こくり、と小首をかしげる
「…………甲斐性なし?」
「財布を持ってくる暇もなかったからなー。はっきり言って一円もないぞ俺。と言うわけで、後はよろしく頼んだお二人さん」
朗らかに笑い、士郎は言い切る。
「ふむ。まあその程度でしたら全く問題はありませんが──」
「む、そうか。そう言えばアンタって金持ちだったよな」
「……それなら別に働かなくてもいいじゃない」
ぽん、と手を打つ士郎。ぼそりと呟くカレン。しかしバゼットは首を振って、
「それは違いますよカレン。大事なのは──」
「――ふふふふふふふ。いい感じになってきてるわね……」
5.
「……ね。そう思わない、セイバー?」
草むらの中で、双眼鏡を片手に凛はくるりと横を振り返った。
「はあ」
セイバーはもぐもぐとクッキーをほおばりながら、適当に頷いた。
士郎たちがいる屋敷から少しばかり離れた草むらの中に、二人はこっそりと潜んでいた。三人と別れた後、凛とセイバーの二人は家には帰らず、ここで屋敷の中を監視し続けていたのだが――
「……しかし凛、これは一体――?」
「ん? 何が?」
凛は双眼鏡から目を離さずに尋ねた。
セイバーはその様子を見て、深々と嘆息する。
「この見張りもそうですが。何故わざわざ士郎を敵に与えるような真似を?」
ふっふっふ、と笑いながら凛はぴっと指を立てた。
「簡単なことよ。あの二人は士郎を変に気に入ってるみたいだし。家事手伝いって名目で放り込んでおけばこの生活を全力で放棄するなんてことなんてないでしょう?」
「……結構綱渡りのような……」
汗を垂らして呻くセイバーを尻目に、凛はぐぐっと拳を握りしめた。だーいじょうぶ、と笑いながら、ぽんとセイバーの肩を叩いて、
「まあ見てなさいって。一週間もすればいい感じになってるから」
「はあ」
興味なさそうに適当にセイバーは頷く。が、凛は気にした様子もなくしゃべり続けた。
「ああ、この生活も悪くないって思うようになったらこっちのもんよ。そのまま住んでくれれば問題なし! どうせ持ち主なんて帰ってこないだろうしうるさいのをまとめておけるし何よりあっちの家でなくて済むし! まあ一週間後には士郎はもういないんだけどね!」
ふふふふふふふ、と完全に据わった眼差しで呟き続ける凛をよそに、こっそりとセイバーは嘆息した。と――と何かに気づいたのか、彼女は唐突に目を見開くと『ばっ!』と凛に振り返った。わなわなと手を震わせて、続ける。
「待ってください、凛。しかしそうすると、シロウのご飯が一週間も食べれないということになるのですが……?」
「……あ、そっか。それは考えてなかったなあ……」
ぼんやりと呟く凛に、セイバーは恨みがましい視線を向けた。目の端には涙すら浮かんでいる。
「………………凛……」
凛は顔を引きつらせながら、慌ててセイバーと距離を取った。
「な、なによっ! そんな目で見るのやめなさいって。それにセイバー貴女、あの二人にえんえんと居座られてもいいの?」
「……そうですね――」
こほん、と咳払いをしてセイバーはすこし考え込んだ。ふむ、と呟いてから、告げる。
「人柄と言う点で言うのならば少なくとも魔術師は信用に足る人物かと思います。ボディーガードとしていられるのには大反対ではありますが。あちらの教会の者とはまだあまり話していないので言及は避けることにします。しかし、そうですね――そこまで致命的に合わないということはないのではないのでしょうか」
「…………」
胸に手を当てすらすらと言ってのけるセイバーを、凛は完全に据わった眼差しで無言のまま見つめる――
「…………凛?」
ふとセイバーが聞き返すと、凛はにっこりと笑いながら、無造作に取り出したノートに何やら書き込んでいく。
「セイバーは今日はおかずなし……と」
「な――!?」
凛の容赦のない一言にセイバーは体を大きくよろめかせた。が、すぐに立ち直ると、があー、と噛み付かんばかりの勢いで、
「り、凛それは横暴というものです。それだけは絶対に認められない!」
「ああもうわかってるって。冗談よ」
肩を竦めて立ち上がる凛を見上げ、そうですか、とセイバーはほっと息を吐いて屋敷へと視線を移した。
「――さて、と。ここでずっと見ていてもしょうがないし? お腹もすいてきたことだし、じゃあそろそろ行きますか。あとはあの子たちでなんとかやるでしょ」
んー、と両腕を大きく前に伸ばしながら、凛。
「そうですね」
頷き、セイバーは凛に続いて歩き出した。
数歩歩いた時点で館から声が響き、彼女はちらりと館を振り返った。屋敷の扉が開き、中から三人が話し合いをしながら揃って出てきたところだった。どうやらようやく出発するようだが――。
その様子を見下ろしながら、セイバーは口元を緩めて微笑み、呟いた。
「――しっかりお願いしますね、シロウ」
6.
翌日も、士郎たち三人は昨日と同じように部屋の修理と掃除にいそしんでいた。丸一日を費やしたおかげで、屋敷のほとんどが清掃を終え、普通に暮らす分には全く問題はなくなっていた。そして――夜。
「……疲れました」
リビングの机に突っ伏してカレンはのろのろと呻いた。
士郎は苦笑しながら、紙コップに入ったお茶を手に取る。
「うん、まあ一日中動きっぱなしだったからな、無理もないか」
「まあ、しかし」
顔をうずめたまま、カレンはぼそぼそと続ける。
「……こういう生活も悪くはないものですね」
「え、何か言ったか?」
きょとんとして士郎が聞き返すと、カレンはきっと視線を鋭くして、
「なんでもありませんっ」
「? 何怒ってるんだよ」
わけがわからないと言うような表情の士郎に、カレンの言葉はさらに険しくなった。
「誰が怒っていると言うんです」
「いや、アンタだろ」
平然と言う士郎にカレンはゆっくりと身を起こしつつ口を開く。と。
「――士郎君、お風呂が空きました」
さらにカレンが何かを言おうとした時、扉が開いてバゼットの声が響いた。後ろからかけられた声に、士郎はわかった、と言いながら反射的に振り返ろうとする。そこには――
「ってうわあ!? バゼットあんた服っ! 服―!」
振り返る時の倍の速度で首を元に戻し、士郎は叫ぶ。
バゼットは素肌にバスタオルを巻いただけの姿で立っていた。ああそう言えば、と彼女は大して気にした様子もなく謝る――
「すいません、着替えを持ってくるのを忘れたもので」
「わかった、わかったから!」
真っ赤になっている士郎を見つめながら、カレンは口の端を歪める。
「……可愛い。純情なのね」
「か、かわいいってアンタなあ! ああもうバゼットも早く服着てくれー!」
顔を真っ赤にしながら目を隠し、もう片方の手をばたばたと振って士郎は叫ぶ。
バゼットは不振げに眉をひそめて、一歩士郎へと近づいた。
「……士郎君、何をそんなに慌てているんですか」
「慌てるに決まってるだろー!?」
「あの女、誘惑してるじゃない……っ!」
屋敷の外――窓ガラスから中の様子を伺い、凛はかみ締めるように呟いた。
「……いえ、単なる事故だと思いますが、さすがに」
凛よりは幾分冷静に、しかしやはり顔を引きつらせながらセイバーが口を開く。
「絶対わざとよ。そうに決まってるわ」
言って凛はぐぐっと拳を握り締めると、ちっと舌打ちした。手にしたバスケットに視線を落とす。
「差し入れなんて持ってこなきゃよかったわね……」
「……いえ、特性梅カラシ入りロシアンサンドイッチは果たして差し入れといっていいのでしょうか」
汗を垂らして呻くセイバーに、何いってんのよ、と凛は振り返った。
「差し入れるんだから差し入れじゃない。問題ないわよ」
「はあ」
曖昧に頷き、セイバーはごくりと喉を鳴らした。
「まあ、とにかく持っていかないということであれば、私が頂いてもよろしいですか?」
「いいけど。手前のは止めたほうがいいわよ多分死ぬから。あと、その代わりもうちょっといるわよ。……なんだかすごく不安になってきたわ」
「はあ。それはかまいませんが」
では早速、と手を伸ばすセイバーを他所に、凛は険しい顔をしたまま部屋の中の様子を観察している。ようやくバゼットが部屋に行き、リビングは静かになったようだが――
「しかし」
ごくん、と一気に口の中のものを飲み干し、セイバー。
「ん?」
振り返る凛に、セイバーは小さく微笑みを浮かべながら、
「いえ。案外心配性なのですね、凛は」
「な――」
その言葉に凛は顔を赤く染めて絶句した。それから視線を下に向け、悔しそうにしながら続ける。
「……だ、だって。こんなの見せられたら心配にもなるじゃないっ」
「大丈夫ですよ。シロウはうまくやってくれます」
もごもごと頬を動かしながらセイバーは慰める。
「ま、まあそれはそうなんだけどっ! でもなんだか失敗だったかなあって思ってきて……はぁ、あの時はいい案だと思ったんだけどなあ。やっぱり士郎をつけたのは間違いだったか……」
凛は言って頭を抱える――が、唐突にがばりと顔を上げると、
「ああもう、いい! 見てても腹がたつだけじゃない。セイバー、さっさと帰るわよ!」
ひとしきり呟いた後、凛は顔を上げるとそう言い捨ててさっさと歩き出した。
「あ、はい!」
慌ててセイバーはそれに続きながら――
「……やれやれ……」
こっそりと、小さく苦笑を漏らした。
三日目。早朝――
「士郎君、おはようございます。いい朝ですね」
リビングに通じるドアを開けるなり、はっきりと通る声で、バゼットは士郎に向けて声を張り上げた。すでにいつものスーツに着替えており、手袋もはめている。
士郎はエプロンをはずしながら振り返った。
「おはよう。早起きなんだな」
「いえ。惰眠をむさぼるわけにはいきませんので。それに士郎君だってちゃんと起きているではないですか」
言ってバゼットは机の上に視線を送る――白と黄色を基調としたシーツをかぶせられた机の上には、2人分のおかずがきちんと並んでいた。
「ああ、俺は学校あるからさ」
言って士郎は、そばに置いてあった鞄を持ち上げて見せた。
「学校――ですか?」
「うん。だから悪いけど、自分で食べた食器洗いとかは頼むな」
「ええ、そのくらいなら問題ありませんが」
拳をぎゅっと握り、真摯な眼差しで頷くバゼット。それを見て士郎は明後日の方向を眺め、ぼそりと呟く。
「……いや、うん。やっぱり食器はカレンにしたほうがいいかも」
「待ってください。聞き捨てなりませんね。それはどう言う意味です」
半眼でバゼットは呻いた。
「いや、なんかあんた、力加減出来なくて割りそうだし」
ひくり、とバゼットの頬がひきつった。
「……士郎君。ここは一回きっちりとお互いに対する認識を改めたほうがよさそうですね――?」
バゼットの言葉に士郎は顔を引きつらせ、大げさな仕草でドアへと振り向いた。
「あ、いやごめん。悪かった。ってああそういやカレンはまだ寝てるのかなー?」
「……そうではないでしょうか?」
「よ、よし起こしてくる。バゼットはゆっくりご飯食べていてくれよな」
バゼットの返事を待たずに士郎は部屋から飛び出すと、早足で廊下を進み、カレンの部屋までやってきた。
「逃げられた、か。ふう……」
こっそりと呟く。そして士郎はノックと同時にドアを開けて――
「おいカレン、いい加減起きろ――って」
――そこまで呟いて、硬直した。部屋の中ではカレンが今まさに着替えをしているところだった。下着姿のままカレンは呆然と士郎を眺めている……
『………』
気まずい沈黙が部屋を包み込んだ。二人揃って、動きを止める――
「ご、ごめんっ!」
なんとか硬直状態から脱した士郎は、慌てて扉を閉めようとした。
「……別にいいですよこのくらい」
カレンはぼそりと呟いた。
「って――ええ!?」
混乱に拍車をかけられ、どうしていいのか士郎はただ立ち尽くす……
「それとも、見たくないのかしら」
カレンは悲しげに目を伏せ、うつむいた。その口元は笑っているのだが、士郎は気づいた様子もなくわたわたと手を振りながら、必死に弁解する。
「え、あ、いやっ、そんなことは全然ない、や、まあ確かにそりゃ見たくないって言えば嘘になるかもしれない、けど――」
「そう。それなら迷う必要なんてないんじゃない?」
にたり、とカレンは怪しく笑う。
「う、あ……」
全身にびっしり汗をかいた士郎は、ただ動けないで固まっていた――
「……絶対今のタイミングはかってるわよね」
「そうですよね。足音が聞こえた時点で手止まってましたよね」
――そして。その様子を物陰に隠れて、凛と桜が覗いているのだった。凛はいつもの私服、桜は制服である。
「……あの、これはなんと言うかやってはいけない行為のような気がするのですが」
二人の後ろで所在なさそうに呟いたのはセイバーだった。
「なんで?」
凛は平坦な口調で聞き返す。
「覗き見というのはあまり関心できませ――」
「――そんな言い方しないでよ人聞きの悪い。学校いくついでに立ち寄ってみたらなんかちょっと見えちゃっただけじゃない」
凛は窓に視線を向けたままはっきりと言い切り、ノートに何やら書き込んでいる。
「いえ、隠れている時点でアウトかと。それに方向も違いますし」
セイバーはあくまでも控えめに呟いた。
「たまには遠回りだってしたくなる年頃なのよっ!」
そうですよ、と桜もこくこくと頷いている。
「……それにですね、」
「ねえ、セイバー?」
「はい?」
凛はにっこりと微笑んだまま、さりげなく告げる。
「おいしい食生活って、大事よね?」
「………………………………そう、ですね……」
そしてセイバーは、しくしくと涙しながらそれに同意するのだった――
四日目――
「……あー。いや、そんなに落ち込むなって。バゼットもさ」
ソファに寝転びながら青い顔で、士郎は小さくそう呟いた。
バゼットはぶんぶんと首を横に振り、ぎゅっと士郎の手を握り締めた。
「しかし、私の料理のせいで士郎君が……」
ちらり、と机の上に視線をなげかける――そこには醜悪な臭いを撒き散らす、ピンク色の物体があった。
「失敗なんて誰にでもあるんだからさ。そんなに落ち込むことなんかないだろ。桜だって初めてうちに来たときはひどいもんだったしさ。それに作ってくれようとしたってことだけで俺は十分嬉しい――かな」
ははは、と照れくさそうに頬をかきながら士郎は笑う。
「しかし――」
未だに納得しようとしないバゼットに、士郎は少し考えこんでから、
「んー、ならさ」
ぴっと指をたてて、微笑んだ。
「次、期待してまってるから」
な? と笑って士郎は続ける。少し照れくさそうに。
「それまでに、もっと腕あげてくれたら、嬉しい」
その言葉にバゼットはぽかんと口を開けて、士郎の顔をまじまじと覗きこんだ──が、次第に表情がじわりと変化していき、不敵な笑みを浮かべる。そして彼女はぐっと拳を握り締めると、
「……わかりました。では、次回までに腕をあげておきましょう。期待して待っていてくださいね、士郎君」
「……ええと、お手柔らかにな」
やや顔をひきつらせながら、士郎。
と、そこにカレンが蓋の閉じられた土鍋を持って割って入った。邪心のかけらも感じられない笑顔を浮かべながら、そっと歩み寄る。鍋蓋の隙間から紫色の煙が漂っていた。
「――と言うわけで、次は私のマグダラ鍋悪魔風味の番ですね。さあどうぞ遠慮なんてしないで、むさぼるように食べてくれて結構ですよ?」
「……いや、色々とありえないだろそれ……」
「凛、その……そろそろ帰りませんか……」
夜。薄い毛布一枚に二人でくるまりながらセイバーがぼそりと零す。
「……………………………………………ちっ」
殺意すらこもっていそうな据わった眼差しを屋敷に向けたまま、小さく凛が舌打ちをした。
びくっ――!
セイバーはぎょっと体を震わせると、ははは、と空笑いをした。
「……いえ、……なんでも……」
何とかそれだけを呟き、こっそりと嘆息する。屋敷の中は、何やらまたもや大騒ぎになっているようだった。鍋という単語がやたらと飛び交っている。
「うう……シロウ、早く帰ってきてください……」
言って、心底疲れたような表情で空を見上げる――
月の出ていない夜。朝が来るのはまだ当分先のようだった。
五日目――。
ざああああ……
その日は雨が降っていた。
最も、屋敷の中にいる二人には大して関係はないのだが――
「だああっ! だからペンはやめろって言ってるだろー!?」
「何をそんなに嫌がっているのですか。似合っているというのに」
屋敷の中をどたばたと走り回り、士郎とカレンは喚き散らしていた。カレンの両手にはサインペンが握られている。
「嫌に決まってるだろ。何でそんな変なペイント……」
「――変ではありません」
むっとしながらカレンが士郎に一歩詰め寄った。と。
がっ!
床のでっぱりに足を躓かせ、カレンは大きく体勢を崩した。
「ってカレン!?」
悲鳴をあげて、慌てて士郎がカレンを抱きとめようと手を伸ばし――
「――っと。ふう、危ないところだったな」
カレンが倒れる寸前。ぎりぎりのところで士郎の手がカレンの体を掴んでいた。抱きとめたまま、尋ねる。
「……あいアンタ、大丈夫か?」
「…………」
沈黙。カレンは黙ったまま反応しない。
「……おい?」
「…………」
士郎は眉をひそめて聞き返す――が、やはり反応はなかった。
「……カレン?」
心配そうにもう一度尋ねると、ようやくカレンは声を絞り出した。
「……その、貴方の手が……」
「え」
ぽかんと士郎が改めてカレンを見下ろす……
カレンを抱きとめている士郎の右手は――、彼女の胸をわし掴みにしていた。途端、士郎は顔を引きつらせた。
「あ、うわ、悪いっ!」
「いえ」
慌てて手をひっこめようとする士郎の腕を、がっしとカレンが掴む。
「このままでも」
呟く少女の声は静かで、涼やかで――そして僅かに震えていた。
「貴方でしたら……構いませんが――」
ざああああああ……
窓の外では雨が降り続けている――
昼。雨の降る中二人、レインコートを身にまとい、凛とセイバーはただ無言で屋敷の中を観察している――
「…………」
「…………」
沈黙。互いに何もしゃべろうとはしない。
「…………」
「…………胸?」
ぼそり、と。
凛が低く呟いた。
「…………ええと、凛……?」
「胸……ふふ、胸…………」
凛はセイバーの言葉に反応せず、ただ呟いている。
「……あの――」
恐る恐る、セイバーは隣に座る凛の顔を覗き見た。そして。
「ひぃ……っ!?」
小さく悲鳴を上げ、セイバーはがたがたと震えだした。
「ふ……ふふ……ふふふふふふふふ――」
ざあああああああああ…………
雨が降り続ける中。低く永遠に続くような含み笑いが辺りに響いていた――
六日目の朝。ふらふらとリビングに現れたカレンに、士郎は手に持ったコーヒーポッドを掲げてみせた。
「お、起きたか。コーヒーちょうど入ったけど、飲むか?」
「……ええ」
静かに頷いて椅子に座り、カレンは士郎がコーヒーをカップに注ぐのをぼんやりと眺める。
8分目までコーヒーが注がれたところで、士郎はポッドをあげた。
「……よしっと。ミルクと砂糖は?」
「いえ、このままで結構です」
カップを両手で包み、カレンはカップに少し口を付け、ほうと息を吐いた。
「わかった」
士郎は頷いて、キッチンへと戻り始める。
「……ありがとうございます、士郎」
ぼそり、と。
カレンは小さく呟いた。
「…………え?」
士郎はぽかんと口を開けて振り返った。カレンは顔を赤くしながら口を尖らせて、吐き捨てるように告げた。
「……なんですか。私だってお礼くらい言いますっ」
「い、いやそうじゃなくて――」
否定して続けようとする士郎の言葉に被せ、カレンは早口に告げる。
「――では、なんだというんですっ」
軽く睨まれ、士郎は口を閉ざした――が、やがて苦笑すると、
「あ、ああ。いや、ごめん、なんでもない」
こくこくと慌てて頷き、カップを手に取り、コーヒーを注ぎにかかる――
その背中に向かって、カレンは言葉を投げかけた。
「……次からは」
「え?」
「次からは、その。もう少し濃いのをお願いできますか、士郎」
やや視線を外しながら呟くカレンに。
「――了解、カレン」
士郎はそう言って――微笑んだ。
「………………」
「………………」
屋敷の外では重苦しい沈黙がただひたすら続いていた。雨上がりの地面に座るわけにはいかないので、レインコートを広げた上に二人、体育座りをして、生気のない目でぼんやりと屋敷の中を眺めている……
「………………」
「……お腹が……すきました……」
ぽつり、と。
膝の上に顔を埋めながら、小さく――本当に小さくセイバーが呟いた。微妙に輪郭がブレて頭身が縮んでいるようにも見える。
「……もう、二人のことはどうでもいいので…………シロウのご飯を……」
――屋敷からはわいわいと楽しそうな喧騒が聞こえてくる。
「………………ふふ」
唐突に薄ら笑いを浮かべて、凛はどこからともなく一冊のノートとペンを取り出した。三日目に持っていたものと同じもののようだ。
『ジャプニカ暗殺帳(ふくしゅうU)』
そう、書かれているようだった。
「……襲う……のですか……?」
ひいい、と顔を青ざめさせるセイバー。
凛はページをめくり、ぶつぶつと呟きながら何かを書き込んでいく……
「……凛、一応念のために聞きますが、それは一体?」
セイバーが屋敷から視線を逸らさずに訪ねると、
「恨み帳。」
凛はぼそりと言い切った。
びくりとセイバーの体が震えるが、視線は屋敷に固定されている。
凛はにたりと笑うと、すっとノートをセイバーに差し出した。
「見る?」
あくまでも凛とは視線を合わさず、セイバーはぶんぶんと必死に首を横に振る――
「い、いえ。やめておきます……」
七日目の晩――
キッチンで料理をしている士郎をよそにバゼットとカレンの二人はリビングでこそこそと話していた。
「……バゼット、例の件ですが」
「ええ。そうですね、恐らくは問題ないはずですが――」
「しかし念には念を入れたほうがいいです」
「ええ。あと立ち位置の確認をまた後で……」
「――おーい、皿運んでいってくれー」
と。キッチンから士郎の声がして、二人は会話を中断すると振り返った。
「……行きましょう」
「ええ」
ぼそりとカレンに耳打ちをして、バゼットが先に進む。
「今日はちょっと豪華にしてみたんだ」
言いながら士郎がエプロンを外し、皿を運ぶ。慌ててバゼットが残りの皿を手に取り、後に続いた。
――完成した食事は実に豪華なものだった。刺身、天ぷら、煮物、焼き魚、味噌汁……
「おいしそうです」
きらきらと目を輝かせてカレンが両手を組む。
「そうですね。実に食べ応えがありそうだ」
バゼットも満足そうに頷いている。
士郎は破顔した。
「うん、そう言ってもらえると嬉しい。さあ、冷めないうちに――」
「シロウ――――――!」
どばんっ!
叫び声と共に、玄関が勢いよく開け放たれた。
「って、セイバー!?」
士郎が叫ぶ。
そこに立っているのは確かにセイバーだった。呆然とする三人をよそに、目をぎらぎらと輝かせながら、素早く机の上の料理を確認する――
「ど、どうしたんだセイバー?」
「食べましょう!」
きっぱりとそう叫んで、セイバーは士郎に詰め寄った。
「は?」
ぽかんとする士郎をよそに、さっさと席について箸を握り締めるセイバー。きゅ、とナプキンを装着し、ぎらりと目を輝かせる。──その瞳の中には、ぐるぐるマークが渦を巻いているようだが。
「いいから食べましょう、早く! ほらそこの二人もぼうっとしているんじゃありません! 料理は熱いうちにいただくのが鉄則ですよ!」
急ぎなさい! と手招きするセイバー。
士郎は苦笑しながら、二人の背中を押した。
「あ、ああ。まあ、量はたっぷりあることだしな。じゃあ皆、食べようか」
「いただきますっ!」
叫ぶと同時に箸を動かすセイバー。
今晩の夕飯は、いつもよりも賑やかなものになりそうだった――。
「………………………………………裏切り……者……ッ」
そう呟く声は、暗く低く捩れていた。
暗闇の中、凛は独り草むらに身を隠して、ひたすらノートに文字を書き続けていた。
「ふ…………………ふふ………ふふふふふふふふふふふふふふふ――」
笑う。ただひたすらに笑う。ペンをはしらせる手は止めないままに。
「あと、少し……」
くっくっく、と据わった目つきで屋敷の方に呪いっぽいものを送りながら、凛は呟く。
「明日で……終わり……っ!」
闇の中、いつまでも低い哄笑が響き続けていた――
7.
そして――
「さて、約束の期限となりましたっ!」
翌日の朝。屋敷の前に仁王立ちになり、凛は顔をしかめながら叫んだ。その横には『おしおき中』と書かれたプラカードをさげ、頭からすっぽりとレインコート(黄)を被ったセイバーが立っていた。
そして二人に向かうようにして、バゼット、カレン、士郎の三人が屋敷の壁を背に立っている。屋敷の横には家財道具が全て詰まれていた。どうやら凛たちがやってくる前に全て外に運び出したらしい。
「それはいいけどどうしてそんな不機嫌なんだよ遠坂」
「うるっさい!」
問答無用で双眼鏡を士郎に全力で投げつけ、凛は怒鳴る。
「あと、セイバーさんのその姿は……?」
「あっはっはっは。何だと思うー?」
カレンの質問に、笑顔を強くして――凛。
「うううううう……」
反論もせずに、しゅんとなったままセイバーはただうな垂れている。
「ひょっとして……その格好で、ここまで……?」
ぼんやりと士郎が呻く。
ちなみに天気は晴れ。これ以上ないくらいの快晴である。
「ううううううううううううううううううううう」
「あっはっはっはっはっはっは」
『ずーん』とした空気を背負いながらセイバー。朗らかに笑いつつも、ぴきぴきとした雰囲気の凛。
「はいはい、と言うわけで、セイバー?」
「……………………は、はい」
顔を青ざめさせながら、セイバーが一歩前へと進み出る。
凛はにこにこと満面の笑顔を浮かべながら、手を打ち鳴らす。その背後に、決して逆らえないような気配を漂わせながら。
「はい、ゴー」
ぱんっ。
言って凛は──手を鳴らした。
「……り、凛。本当にやるのですか?」
懇願するようにセイバーは凛に視線を送る。
「……セイバー?」
凛はそう呟き、にっこりと笑った。
「は、はいっ?」
明らかな期待と安堵の表情を浮かべ、セイバーは聞き返す。
「わたし、今ゴーって言ったんだけど?」
……凛はあくまでも微笑んだまま、先ほどよりも強い口調で言った。笑顔の後ろに何かを潜ませて。
「は、はい――っ! いきます……っ!」
セイバーは顔を引きつらせながらも背筋をぴしっと伸ばした。何かを覚悟したような――例えるならば、死ぬとわかっていながら敵陣へと飛び込むような悲壮感溢れる決意を全身からにじませて。
そして。
セイバーは無理やり笑顔を作ると、レインコートの裾から手を突き出した。その手には杖のようなものが握られているようだ。そしてセイバーは、杖を掲げ、勢いよく叫ぶ――
「コ、コンパクトフルオープン! 鏡面回廊最大展開! Der Spiegelform wild fertig zum transport……!」
続けて凛が合いの手を入れる。
「Ja,meine Meisterin……! Offnunug des Kaleidoskopsgatter!」
そして。
セイバーは、むんずとレインコートを掴むと、『ばっ!』とそれを取り払う!
中から出てきたのは――
「カレイドルビー……か?」
ぼんやりと――目に光のない表情で、士郎が呻く。
ちなみにカレンとバゼットもまた、事態についていけないのか、呆然としている……
奇妙な格好だった。黒のネコミミに、赤、白、金を基調としたひどく派手な服装をしている。右手には羽飾りのついたステッキを持ち、びしりと決めポーズを取り、そしてセイバーは半泣きだった。
セイバーは耳まで顔を真っ赤に染めながら、それでもポーズを崩すことなく士郎に向かって、
「お待たせしました! 魔法少女カレイドルビー、ここに誕生! ――どうですかシロウ? 初めての変身にしては上出来でしょう!?」
――言い切った。
言い切って――
『………………………………………………………………。』
……地獄のような沈黙が、訪れた。
「――で、約束の期限になったわけなんだけどね?」
凛は何事もなかったかのようにバゼットたちに向き直った。
「え、ええと」
なにをどう言ったらいいのか、士郎が考えあぐねている間に、凛は口を開いた。バゼットたちをしっかり見すえながら、斜め横に待機しているセイバーに向かって横柄に尋ねる。
「セイバー。確か約束は、一週間以内にここに住めない理由を提示する――そうよね?」
セイバーはこくこくと頷くと、
「は、はいその通りです魔法少女カレイドルビー、ここに誕生!」
言って、くるっと一回転してから『びしっ!』とポーズを取る。ほぼ泣きかけながら。
「……………………………」
士郎たちは何をどう言えばいいのか、呆然としながら、ただ事態を見守っている――
凛は構わずさらに続けた。
「そう。で、今日が約束の期日ってわけよ。ちなみにセイバー? もし提示できない場合はどうなるんだったっけ?」
「その場合はお二人にはここに住んでもらい、シロウはこちらで回収させていただくことになります魔法少女カレイドルビー、ここに誕生!」
動揺の欠片すら見せず、真剣な表情で凛はこくりと頷くと、
「そうよね、その通りよ。ここで大切なのは住めるかどうかということ。それがどうかはこちらで判断さてもらうわ。住みたくないから住めません、なんてたわごとは通じないってことよ。そうよねセイバー?」
「は、はい。見たところどうやらこの一週間何も問題はないようなので、これでこの話は終わりということで……ま、魔法少女……カレイド……ルビ……、ここに、たんじょ……う……」
最後のほうはもうすでに言葉にならないらしい。
それでも懸命に腕を持ち上げ、ポージングをしようするセイバー。
「と、遠坂。もうそのくらいでさ……」
さすがに事態を見かねたのか、士郎がセイバーと凛の間に割ってはいった。が、凛は両腕を組んだままぷいっとそっぽを向くと、
「ふん、知らないわよ。裏切り行為は何より重い罪なんだからっ」
「……ええと……」
途方に暮れた士郎はどうしていいかわからないのか、所在なさそうに立ち尽くしている。
「はいはい、と言うわけでー!」
と、凛がぱんぱんと手を打ってみせた。その後ろで、士郎に付き添われたセイバーがのろのろとレインコートを羽織り始めている。
「――と・言うわけでようやく一週間が経ちましたっ!」
半眼で、唸るようにして凛は二人をじろりと半眼で睨みつける。
「どうやら二人とも、すっごく楽しく過ごしたみたいよねえ……?」
ぴきぴきと顔をひきつらせながら、それでもなんとか笑顔を保って凛は続けた。その後ろでは、セイバーが『ずーん』としたオーラを背負ったまま、とぼとぼと隅のほうへと歩いていっているのだが。
「まさか、これで住めないなんてことはないわよね? あるはずないわよね!? なんだか道具運び出してアピールしているみたいだけどそんなのは無駄っ! はい、と言うわけでどうぞお二人はここに住んでくださって結構ですので一生出てこないで下さいあと用済みでしょうから衛宮くんはこちらで回収していきます以上っ!」
「そのことですが、凛さん」
一気に告げて話を終わらそうとする凛に口を挟んだのは、カレンだった。
その向かいでは、セイバーは地面にへちょりと座り、膝を抱えてぶつぶつと呻きだしている……
凛は鼻白みながらも、ぐっと胸を張って対抗した。
「な、何よ。これだけ楽しんで今更嫌だなんて認めないからね――!?」
「セイバー」
凛の言葉を無視して、バゼットが静かに口を開いた。すっと一歩前へ踏み出す。
「…………」
「……ょうがなかった……食べたかった…………ごはんが……………シロウの、ご飯が……………ッ」
セイバーは呼びかけに気づいた様子もなく、ひたすら呟いている。
バゼットはカレンと目を見合わせた後、ごほんと咳払いをした。それから先ほどよりもやや大きな声で、
「セイバー?」
「……はっ!? な、なんですか、魔術師?」
体育座りのまま、虚ろな視線でセイバーは顔を上げる。バゼットは再びちらりとカレンを見た後、無言のままおもむろに、どこからともなくおにぎりを取り出してみせた。そして――
べしゃっ。
迷わず、それを地面に叩きつけた。
「な」
動揺するセイバーをよそに、バゼットは次々と食べ物を地面に投げつけていく。サンドイッチ、からあげ、ドラ焼き、プリン……
「な……な……っ!?」
もはや言葉にもならないのか、セイバーはただただ呆然とするばかりである。
「さて、と」
言ってバゼットが取り出したのは、巨大なチョコレートケーキだった。それを見てセイバーが顔を引きつらせる。
「っ!? それは、ケーキ屋『ロマンス』の、一日一個限定の幻の――」
「ふ……」
バゼットはセイバーを見つめ、にっこりと微笑んだ。セイバーもまたつられて、頬を引きつらせて微笑む。そして。
「はあっ!」
気合と共に、バゼットは両腕を振り下ろす!
べちゃあっ!
ケーキは言い訳の仕様もないほどに地面に叩きつけられ――潰れた。
「あ、あ、あ、ああぁ……」
よろよろとケーキの残骸へと近づき、がくりと力なく膝をつくセイバー。そこにさらにバゼットは『ぐじゃっ!』とケーキの残骸を踏みつけて見せた。のろのろと顔を上げるセイバーに向かい、
「―――ふん」
冷笑を浮かべる。
「く……くッ……!」
歯をかみ締め、セイバーは顔を上げる。その目に宿るは、隠しようのない――殺気。
そして――
「魔術師、貴女という人は――!」
ばしゅんっ――!
セイバーが吼えると同時、光が彼女を包み込み、一瞬で彼女の体が鎧に包まれた。そして怒れる英霊は、その手に剣を握り締め、バゼットに向かって斬りかかる――!
――刹那。
ぎゅるん――っ!
飛び掛ったセイバーの足に、カレンの放った聖骸布が絡みつき、速度を抑えた。さらに同時、バゼットが地面を蹴り上げ、大きく横へと跳躍する――!
結果、セイバーの攻撃のその先にあるものは、屋敷の壁。三人が背にしていた屋敷の壁が聳え立っており――
「――っ!?」
戸惑ったような表情を浮かべるセイバー。ターゲットはもうすでに視界からロストしている。あるのはただの壁。しかし振り下ろしかけた腕はもう止まらない。攻撃は止めることが出来ない――
――そして。
どおおおおおおおおおおおおおんっ!
爆音が轟いた。耳をつんざくような破壊音が周囲に木霊する。もうもうと砂埃が舞う中、ぱらぱらと破片が降り注ぐ……
「え……」
士郎が呆然と呻いて、顔をあげる。
セイバーの渾身の一撃は、屋敷の大半を削り取り、消し飛ばし――破壊していた。
「……はっ!?」
ようやく我に返ったのか、セイバーがはっと振り返る。
屋敷は――壊滅していた。
問答無用、言い訳のないほどにきっぱりと、消し飛んでいた。まあ、あらかじめ家財道具を運び出していたために、被害は最小限で済んだと言えなくもないが――。
『……………………………………』
沈黙。
誰も何も言葉を発しない……
と、皆が呆然とする中、カレンとふいに口を開いた。あさっての方向に目をやりながら、ぱんと手を打つ。
「あら大変。どうしたことかしら、家が壊されてしまいました。」
うわあ、と両手を広げながら、続いてバゼット。
「本当ですね。しかもやったのはセイバーさんですか。困った。実に困りました。」
やたらと平坦な棒読みの口調で、はきはきと続ける。
「そうね。これではここに住むことなど出来ないわ。」
「ええ。残念です。実に残念ですが、これではさすがに無理というしかないですね。」
「……え、ちょ、ちょっとねえ、まさか……」
嫌な予感がしたのか、凛が汗を浮かべながらじりっと後ずさる。
「と・言うわけで」
じゃりっ。
一歩踏み出しつつにやりと笑ったのは、カレンだった。
「そうですね」
じゃりっ。
うんうんと至極真面目な顔で頷きつつ、バゼットもまた士郎へと近寄る。
そして二人は、にっこりと微笑み、告げる――
「またお世話になりますね、士郎」
「またお世話になりますね、士郎君」
「え……あ、うん……」
事態についていけないのか、曖昧に頷く士郎の横で。
「……………もう……やだ………………」
しくしくと涙しながら、凛はばたりと地面に倒れたのだった――