3、
空は快晴。
強い日差しは季節の感覚を麻痺させる。
海風は頬に心地よく、ウミネコの鳴き声が寂しさを緩和させる。文句のつけようのない絶好のロケーション。
平和な冬木の町を象徴するかのような港に今、一つの影が足を踏み入れた。
男装の麗人──バゼットだった。
彼女はゆっくりと視界を見渡していき──、やがてある一点で目を止めた。
そこに座るは、一つの人影。
青い髪の男が、面倒くさそうな、かったるそうな眼差しで海に向かって釣り糸を垂れている。
嘆息。バゼットは少しばかり肩を竦めてから、その男に向かってゆっくりと歩き出した。
背中から三歩ほど距離を開けた位置で立ち止まり、口を開き、そこで止まる。胸元で拳をきゅっと握り締めてから、彼女は再び息を小さく吸い込んだ。
「ランサー」
静かな問いかけにはしかし、男は答えない。
「……ランサー?」
もう一度呟く。今度はやや口調を強くして。
それでもなお、返事がない。
バゼットはふうと息を吐くと、ぐるりと肩ごしに顔を突き出し、ランサーの顔を覗き込んだ。
「……寝ている……のですか?」
「いや、起きてるけどよ」
こっそりと尋ねた一言には、予想外の返事があった。
目だけを動かしたランサーと、彼女の瞳がまともにぶつかる。
「───っ!?」
一瞬にしてバゼットの顔が赤く染まり汗が浮かび上がる。そしてそれよりも数瞬か早く、拳を握り締めた。
「っと、待った待った。目が合ったくらいで殴られるなんてたまんねえって」
慌ててぶんぶんと手を振ってみせながら、ランサーは苦笑する。
そこまでやられて始めて、バゼットはようやく事態を理解したようだった。
未だに赤い顔を隠すように頬に手を当て、くっと悔しそうに顔をゆがめながら、床を凝視する。
「あ、あ、貴方という人は──! わざとやったのですか!?」
顔を真っ赤にして喚き散らすバゼットに、ランサーはああ、とあっさり首を縦に振った。
「ん……、まあそうだな。そういうことになるか」
それを見てバゼットは目をしばたいていたが、やがてがくりと肩を落すと深く嘆息した。
「何なのですか、一体……」
疲れたように、呻く。
「いや、特に意味はないけどよ。……にしてもまた随分と久しぶり──でもないか、マスター。……いや、元マスターか?」
言ってにやりと笑ってみせるランサーに、バゼットは口をぽかんと開けると、
「な──ち、違います。貴方は私のサーヴァントだ。今は一時的に貸し出しをしているだけで、」
「ああ、ああ。わかってるっての、んなこと」
めんどくせえな、と手を振り、釣竿に手をかけるランサー。
横目でちらりとバゼットを見てから、彼は苦笑ともつかない嘆息をした。
「いや、しかしなあ……」
「──? なんです、私の顔に何か?」
訝しげに顔をしかめるバゼットに、ランサーはもう一度苦笑してみせた。今度は些か笑いを堪えて。
「いや。相変わらずだな、と思ってな」
「……? よくわかりませんね。一体何が相変わらずなのですっ」
もうっ、と腰に手を当てて聞いて来るバゼットに、ランサーは口を開きかけた──が、途中で言葉を飲み込むと、肩を竦める。
「んん? そうだな──いや、やめとくわ」
「──まったく。何だというのです。……ですが、貴方も相変わらずのようですね」
やれやれ、と肩を竦めるバゼット。ランサーは口を歪めながら釣竿を操る。
「ま、そんなもんだろ」
「──ああ、それだ」
どこかほっとしたような、懐かしむような口調にランサーは振り返った。
「ん?」
見上げると、バゼットは両手を胸の前で合わせ、破顔していた。
すっと目を閉じ、小さく頷く。
「いえ、その言葉。前は随分と苛立ったものですが──そうですね、今だから言えることなのかもしれませんが、そう悪くもないですね」
ランサーはそう囁いているバゼットをぼんやりと見上げていたが、やがて口元を歪めると、
「……なんだ。アンタ、随分変わったんじゃねえか?」
からかうように尋ねると、バゼットは納得がいかないと言う様に首をかしげた。
「私が? どこがです」
「ああ──いや、いいわ。そうだな、アンタ、そういうヤツだった」
ひらひらと手を振り、シニカルに笑うランサーを軽く睨みつけ、腕を組んでバゼットは唸る。
「気になりますね。一体なんだと言うんです」
「いや、なんでもない。単にアンタがいい奴だって話だから」
「は、はあ──?」
その言葉は完全に予想外だったのか、バゼットは目を白黒させた。
ランサーはこんこん、とコンクリートの地面を叩いてみせて、
「まあほら、いいから座れよ。何か話でもあるんだろ?」
「そうですね。話というか……そう、顔を見たくなった──ではいけませんか?」
どこかおずおずと切り出してくるバゼットに、ランサーは今度こそ完全に苦笑した。
「いや、いいんじゃねえの。……ったく、何言うのかと思えばそんなことか。変な遠慮なんかするんじゃねえよ、気持ち悪い」
では、とランサーの隣に、両足を伸ばして座る。
「む。それは聞き捨てなりませんね。遠慮ではありませんっ」
「そうかい」
さらりと流して、ランサーは再び釣竿に集中し始めた。
しばらくすると獲物がひっかかったのか、おっ、と身を乗り出した。
その様子を横から微笑みながらバゼットが眺めている。肩を抱くように身をすくめ、水面に目を落とす。
「……少し、肌寒いですね」
「ま、そんなもんだろ。────ちっ、逃げられたか……」
何もなくなった返しに顔をしかめつつ、ランサーが釣り糸を手繰り寄せる。
「……まただ」
ふいに思いついたように呟くバゼットに、ランサーはああ、と頷いた。
「……そうだな」
「……」
「……」
ぽちゃん……
仕掛けを付け終えたランサーが、再度釣り糸を海へと放り込んだ。
ゆらゆらと揺れる海面をぼんやりと眺めながら、バゼットは小さく呟いた。
「……困った。何から話せばいいのかわからない」
「くくっ──」
ふいに肩を震わせて笑うランサーに、バゼットは顔を赤らめながら問い詰めた。
「な、何がおかしいのです」
片手を振って、ランサーはいやいや、と続けた。
「ああいや、悪い悪い。いや、アンタらしいって思ってな」
ふう──と大きく息を吐く。
青い海から、青い空へと視線を移して。
そうだなあ、とぼやくようにランサーは呟いた。
「何でも構わねえだろ。話したいことから順に話していけばいいってことだ」
「ふむ、なるほど」
その助言に真剣に耳を傾け、バゼットは頷いた。
片足を腕で抱え、海に目を落としながら、口を開く。
「実は私は今、士郎君の家にお世話になっているのですが──」
「ああ」
「……そうですね、実に色々なことがありました」
静かに頷き、彼女は空を見上げ──眩しそうに目を細めた。
空いているほうの手を頭の上にかざし、そして僅かに表情を隠すようにしながら、彼女は。
「きっと──ここに来なければ体験出来ないようなことも、多くあったのだと思います」
「へえ?」
聞き返してくるランサーに、がばりと身を乗り出してバゼットは口を開く──
「そうそう、そう言えばですね……」
快晴の空の下。
二つの影が水面に揺れ、たゆたっていた。
2、
「初めは……そうですね、士郎君の家に行ったところからですね──」
「そうそう、仕事を探したのですが、これがまた難しくて──」
「──教会を修理しようとしたことも──」
「ああ、勘違いしてフジネエを倒そうとしたこともありました────」
「先日のあれは──そうですね、速やかに忘れてくれると助かります。あれは凛さんたちに着せられたのであって、決して私の趣味では──」
「そうそう、面白かったのはカレンですね。まさかあんな風に変わるとは……」
「あとは、屋敷を修復しようとして──いえ、これはいいですね。ええ、何でもありません」
「この前は面白いことがあったんです。凛さんとイリヤの体が入れ替わって……いえ、正確にはそうではないのですが──」
「ああ、あとルヴィアゼリッタという人がこの前やってきてですね──」
「そうだ、セイバーさんともやりあったことも────」
「あとは……そう。桜さんが、もうほとんど告白みたいな感じでですね──」
「──凛さんは先日またロンドンへ帰っていきました。ルヴィアゼリッタも……私はただの居候ですが、それでも正直寂しいですね──」
「……そのときに、思ったんです。別れは、出会った以上あるけれど。でもやっぱり──」
「皆……前に進み始めました。士郎君もなんだか、顔つきが変わってきていて──桜さんも……」
1、
赤く染まった海と、空と。
二つの人影が港のコンクリートの上に長く伸びている。
「──ふう」
大きく息を吐き──、バゼットは両腕を上に突き出し、伸びをした。
「なんだ、疲れたのか?」
相変わらず釣り糸を海に垂らし、ランサーはにやりと口を歪めて尋ねた。
バゼットは肩を竦め、不敵に笑い返す。
「まさか。ちょっと一息ついただけです」
「そうかい」
バゼットは赤く染まったランサーの横顔を眺めていたが──やがてふと、腕時計に目を落とした。む、と呻く。
「ああ、しかしもうこんな時間ですか。そろそろ行くとしましょうか。遅くなると士郎君が心配してしまう」
夕焼けの空を眩しそうに見つめながら、バゼットはくすくすと笑いながら呟いた。
「なんだ、そりゃ」
呆れたような表情のランサーに、バゼットは大袈裟に肩を竦めて、盛大に息を吐いてみせた。
「夕飯の時間に間に合わないと、セイバーさんが怖いので。だから最近は皆食事時になると大体家にいますよ」
「なるほど、なるほど。くくくっ──」
楽しそうに笑うランサーに、そっと視線を投げかけて。バゼットは小さく微笑んだ。
「──ではランサー。そろそろ行きますね」
ざっ、と一歩踏み出し、バゼットが告げる。
「ああ、わかった」
ひらひらと手を振りながら、ランサーが振り向くことなくそれに頷く。
ああ、そうそう──とついでのように彼は付け足して、
「ま、俺は大体ここにいるからよ。気が向いたら来いよな」
「…………」
その言葉は完全に不意打ちだったのか、バゼットは思わずぽかんと口を開けて立ち止まっていた。
「……どうした?」
気配が揺れた事に気づいたのか、ランサーが振り返る。
ぎゅっ──
両手を胸の前で握り締めて、バゼットはやや遠慮がちに、おずおずと切り出した。
「また──、会えるのですか?」
「ああ? まあ、そうだな。時間さえ合えば会えるんじゃねえか?」
「──そう、ですね……」
ふっ、と微笑。
そうしてバゼットは視線を上げ、赤く染まった空を眺めながらぽつりと呟いた。
「そうなのだと、思います」
「アンタ、不器用だからなあ」
「そうですね。──ああ、そうだ。それは本当に、認めなければならない……」
苦笑するランサーに、苦笑を返すバゼット。
「まあ、なんだ」
よっ、と言う掛け声と共に立ち上がり、ランサーはやや体を傾けたまま、片手を腰に、もう一方の手で髪をかきあげながら──尋ねた。
「今日は楽しめたかい?」
「な────」
絶句するバゼットに、ランサーはん? と目をしばたいた。
「──いや、何かあったんだろ?」
きゅっ──
バゼットは一瞬唇を噛み締め、そして盛大に息を吐いた。
半ば諦めたような、安堵したような。それでいて懐かしむような──そんな表情。
やがて彼女はゆっくりと首を横に振ると、
「……まいった。貴方には見透かされてばっかりだ」
「まあ、頼りないとは言え元サーヴァントだからな」
釣竿を片付け、バケツの中を覗き込み、わずかに舌打ちをしてから──ランサーは腰をかがめたその視線のまま、バゼットを見上げた。
「──でも、それでも、アンタが辛いときくらいなら、支えてやる自身はあるぜ?」
びっ、と指を突きつけながら、少し照れくさそうに頬をかき、笑う。
「アンタの人生はアンタが頑張るしかないんだろうがな、それでも支えるくらいは出来るんだ。だから変な遠慮なんかするんじゃねえぞ」
──その荷物は誰も持ってやる事はできない。自分で抱えるしかない。人間に支えあう事ができるのは荷物じゃなく、荷物の重さで倒れそうな体だけだ──
今度こそ──
完全に不意打ちを喰らい、バゼットは棒立ちになった。
「ふ……っ」
バゼットは弾かれたように俯くと、手で顔を押さえた。
「ん? ……え、いやちょっと待て」
さすがに動揺したのか、バゼットに駆け寄ろうとするランサー。
が、その寸前、制するように突き出された彼女の手を見て、ふうと嘆息して足と止める。
「あーくそ、待てってのによ……何で泣くかな。いやアンタそもそも泣くんだな」
「……っ、なんです。私が泣いたらおかしいとでも?」
指の隙間からぎろりとランサーを睨みつけて、唸る。
降参だと言わんばかりに両手を挙げながら、ランサーは苦笑した。
「や、そういうワケじゃないけど。アンタが泣くとこ見たことなかったしな」
ぽり、と誤魔化すように上空に視線を彷徨わせながら、ぼそぼそと呟く。
「……そうですね、正確には泣くようになった、と言うべきなのでしょうか……」
呟き、手の甲で涙を拭き取りながら──バゼットは静かに問いかけた。
「ランサー、知っていましたか。ヒトは──悲しいときだけではない。嬉しい時にも、泣くことが出来る……」
「はあ──? ったく、何当たり前のコト言ってんだか。ああ、ったく、こういうのは苦手なんだがなあ──」
がりがりと頭をかきながら、ランサーはバゼットへと近づくと、ほらよ、と一枚のハンカチを手渡した。
「──ほら、見てないでやるから涙ふいちまえ」
言って、くるりと背後を向き、両手を頭の後ろで組む。
その背中を見据えながら──バゼットはハンカチに目を落とした。
白いレースのついた、やけに高そうな代物。
ついでに付け加えるのならば、おおよそこの男には似合っていない。
(ああもう……こんな時に、他の女のものを手渡すなんて……)
ふっ、と苦笑して。
じっとそれを見つめ。
すん、と鼻をすすり。
はっ、と目を見開き。
慌ててポケットを漁り、彼女は中から何かを取り出す──
──そこにあったのは、青い小さな紙袋。
口は白いハート型のシールで止められている。
先日彼女が購入したものだった。
「これを……」
言いながら、そっと紙袋をハンカチに包み込んでいく。
「今日は、本当は……貴方に渡そうと思いまして」
ぱたん……
ハンカチを閉じ終え、未だ後ろを向いたままのランサーの背中をそっと見据え……バゼットは静かにかぶりを振った。
「いえ──違いますね。本当は、これはもう、必要ない……」
そして、苦笑する。
苦笑しながら──もう一度ハンカチの端をそろえ、そっとランサーの横から手を差し出した。
「……後で、開けてください」
「あ? 今でいいだろ、そんなもん」
言いながらランサーはくるりと向き直ろうとして。
そして、それをバゼットが必死にとどめた。
「後で──」
決して顔をあげないように俯いたまま、ぼそぼそと告げる。
──彼女の耳たぶは今や真っ赤になっていた。
「後でないと……その、駄目だ。私が困る。困るんです」
「……はいはい」
苦笑して、ランサーはハンカチをポケットにねじ込んだ。
それを確認して、バゼットはほうと息を吐いた。
「────ふう。ああ、やっと肩の荷が下りた気がします」
「……どうしたよ、本当にさ」
再び振り返ろうとするランサーに一歩近づき、バゼットは静かに首を振り──自分もまた、後ろに向き直った。
とん──、と。
バゼットの肩が、ランサーの背中に当たる。
背中合わせになりながら、バゼットは眩しそうに夕焼けを見つめた。
「……なんでもないです。少しばかり運命とやらを信じてみたくなっただけですので」
「へえ」
曖昧な返答。少しばかりの苦笑。
「……ランサー」
その呼びかけは、そっと──優しく。
「ん」
答えるその声は、ぶっきらぼうに。
「そろそろ……行くことにします」
「ああ、そうかい」
背中合わせのまま、ランサーはぼそりと頷いた。
「また──な」
「ええ、また」
こくり、と。
バゼットはその言葉を噛み締めるように──その手を握りしめる。
「……3秒後に」
バゼットは夕焼けを眺めながら、口を開いた。
「3秒後にスタート、しませんか」
「……なんでよ?」
意味がわからない、と言うような口調のランサーに。
バゼットはえへん、と胸を張って、言い切る。
「なんとなく、です」
「はいはい。全く、ワケわかんないけどな」
今度こそ、完全に苦笑。
「はいは一回。──ほらほら、踵を合わせて」
せかす声。
「ったく、何だっていうんだかなあ」
ぼやく声。
「文句ばっかりたれているんじゃありません」
全くもう、と呆れる声。
「へいへいっと」
苦笑する声──
3、
大きく息を吸い込む。
「つうかな、スタートっても、俺は別にどこに行く気もないんだけどなあ」
2、
彼らしい口調に苦笑する。
「黙りなさい。久しぶりの再会なんです。ちょっとした我侭につきあってくれてもいいでしょう」
1、
今まで通りの切り返し。
「──そうだな。了解だよ、マスター」
皮肉げな笑い声。
0、 閉じていた視界が開き。
背中越しに感じていた温もりが、薄い名残を残して離れる。
──この場にとどまって永劫に のではなく。
たとえ としても、次にあるものを目指す。
別れるための別離ではなく。
もう一度、再び会うための出発。
だから、前へ。
もっとずっと、前へ────。
「ようい」
そしてバゼットは、ゆっくりと一歩を踏み出して──
「どん──」
──夕暮れの港。海風が吹き、空へと舞い上がった。
──── 0。