後後後後後後後後後後後後後後後後後後後後後後後日談。
「あら」
と──
ふと声をあげたのは、ルヴィアゼリッタだった。
衛宮邸・居間。夕飯の最中のことだった。今夜は蟹すきだ──机の上にはどでんと土鍋が鎮座しており、それぞれに配られているボウルにはすでに残骸が詰まっている。
ちなみに個人ずつそれを配布したのは誰がどのくらい食べたのかを明確にするため──要するにセイバー対策だった。
「ん、どしたのよ」
蟹の身をほぐしながら、凛が顔をあげた。
「いえ──そう言えば、明日でしたわ」
壁にかかっているカレンダーを見つめ、ルヴィアゼリッタは確かめるように何度もうなずいている。
「……? だから何が?」
「ええと──少々お待ち下さいね?」
あまり回答になっていない返事を残して、ルヴィアゼリッタはそう言って席を立った。皆の視線が集まる中、一人居間を出ていく……
「……? 何なのよ一体……」
きょとんとしながらも、とりあえず蟹の身をほぐすのを継続する。ぐるりと見渡すが、どうやら誰も心当たりがないらしく、皆不思議そうな顔をしていた。
──ルヴィアゼリッタが帰ってきたのは、凛が次の蟹の足にとりかかった後だった。
彼女はにこやかに一枚の紙を手渡しながら、
「はい、こちらがリンの分。ああ、今回はお金は結構ですわ──こちらの観光の案内の代わりとするつもりでしたので」
「ん? なによこれ………………え?」
凛は疑問符を浮かべながらもそれを受け取り──そして、硬直した。
隣からカレンがそれをのぞきこんでいるが、一向に気づく様子もない。いや、それどころかカレンもまた微かに動揺したように瞳を動かしているのだが──。
全員の視線を浴びる中、ルヴィアゼリッタはぴっと指を立てて説明した。
「ロンドン行きのチケットです。明日の午後1時ですから、準備をしておいてくださいね?」
そして──
『なにいいいいいいいいいいいいいいっ!?』
衛宮邸に、驚愕の声が響き渡った──。
「ったく、言うの忘れてたって何よ……! 一番初めに言わなきゃいけないことじゃないそんなの!」
ぼすん、と服をトランクケースに乱暴に突っ込みつつ、愚痴る。
夕飯後。慌てて準備を始めた凛は、様子を見にきた士郎に開口一番そう愚痴った。
「まあ、当日じゃなかっただけまだましだろ」
苦笑しつつ、手伝うよ、と荷物に手を伸ばす。
「それにしても……ああ、もうっ!」
まだ怒りが収まらないのか、凛はしかめっ面で荷造りを進めていく。
荷物自体はさほど量はない。元より必要最低限のものしか持ち帰っていないためだろう──服と数冊の本、あとは日用のこまごましたものだけだ。これならそう時間もかからないだろう。
「そっか。でもそうすると、遠坂とルヴィアさん、いなくなっちゃうんだよな……」
しんみりと呟く士郎。その表情は寂しげに曇っている。微かに罪悪感めいたものを胸に抱きつつも、凛は口調を変えないようにしながら囁いた。
「まあそうなるけど。でもまあいい踏ん切りついたって言えばそうなるかなあ……。なんだかんだでずるずる引き延ばしにしてたから。──はいこれ、持ってて」
と、ぽんっと本を投げてくる。慌ててそれを受け取り──、なんとなくぱらぱらとページをめくらりながら、
「次はいつ帰ってくるんだ?」
「んー? そんなの未定よ未定。あっちに戻るのついさっき決まったのに考えてるわけないでしょ。まあ一応、年に一回は少なくとも帰ってくるつもりだけど──ねっ」
言いつつ、ぎゅっと荷物を押しこみ、蓋を閉める。
「──よしっ。これでオッケーかな。あとは明日着ていく服と……あ、そっか。今着てるのもあるのか。……まあこっち置いておいても別にいいわよね……」
「ああ、この部屋はちゃんと遠坂専用にしておくから気にしないでも大丈夫だぞ」
任せろ、と軽く自分の胸を叩いて、士郎。
凛はくすくすと笑いつつ、
「どうかしらねー。士郎、変なことするんじゃないの?」
「す、するかばかっ」
「あ、今ちょっと言葉詰まった」
「違うっ!」
「あはは……冗談よ冗談」
ひとしきりからかった後、凛はくすくすと笑いながら、はいおしまい、と立ち上がった。
──生活感のなくなった部屋が、妙に広く感じてしまう。両手を組んで前に伸ばしながら、周囲を見渡した。
「さて、と──後は何かあったっけかなあ……」
言いつつ、ふらりと歩き出す。
「──────遠坂」
と。
声を強張らせ、士郎は俯きながら囁いた。
「ん?」
くるりと振り返る凛。
士郎は、僅かに視線を逸らした。歯がゆそうに頬をむずむずとさせている。
「その……いや、ええとさ」
が、やがて顔を上げると、真剣な眼差しを凛へと向けた。
小さく鋭く息を吸い込んで、そして彼は──
「待っててくれるか」
真っ直ぐに、そう告げた。
「────……」
沈黙。
ぽかん、と口を開けて目の前の男を凝視する凛──
唇を結び、彼は顔をあげて真正面から彼女の顔を見つめていた。ようやく照れくさくなってきたのか、ぽり、と頬をかいて、苦笑しながら、付け加える。
「俺も、遠坂を追いかけるからさ」
ふっ……
漏れた吐息は、凛のもの。
彼女はすっと目を細めると、値踏みするように士郎を見据えた。
そして彼女は──苦笑気味になりながらも、とん──と士郎の胸に指を押し当てて、
「……言っておくけど。わたしの指導は厳しいわよ?」
「ああ、覚悟しておくよ──」
士郎はそう言って──破顔した。
『待っててくれるか──』
……部屋に入ろうとして飛び込んできたのは、士郎のそんな言葉だった。
「…………」
凛の部屋のと前の廊下で、思わず桜はノックしようと持ち上げた手を止めていた。
こくり──と、知らず喉を鳴らす。
暗くて寒い廊下へ、扉の隙間から明かりと声が漏れてくる。
『俺も、遠坂を追いかけるからさ』
すっ……
思わず、一歩、後ずさった。
──わかってはいた。
──わかっていたはずだった。
(先輩……やっぱり……)
口を引き攣らせたまま、それでもなんとか笑みを作る。
また一歩、後ろへと下がる。
『……言っておくけど。わたしの指導は厳しいわよ?』
凛の、試すような、それでいて全てを包みこむようなその言葉。
ぎゅっ……
気づけば、胸の前で拳を作っていた。
さらに、下がる。
駄目だ。もう聞きたくない──
『ああ、覚悟しておくよ──』
「────────っ!」
限界だった。
それ以上は、聞けなかった。
そのまま音をたてないようにじりじりと下がり──そして、早足で歩きだす……
やがて、早足は普通の速度に。
そしていつしか──、とぼとぼと進んでいた。
「──おや」
……声に反応して顔をあげると、そこにはカレンの姿があった。
彼女は縁側でお茶を飲んでいた。どうやら月見をしていたらしい。
「おや、どうかしましたか?」
桜の暗い表情を見てとったのか、彼女は尋ねてきた。
「……カレン、さん」
ぼんやりと、顔をあげる。
きょとんとして見返してくる彼女に、桜は一歩近寄った。
「……カレンさんも、いつかはでていくんですよね──」
いきなりの質問にカレンはどうすればいいのかと迷ったように瞳を逡巡させていたが──、やがて結局曖昧に、はあ、と呟き頷いた。
「まあ……そうなるのでしょうね。最も教会の工事次第ですが」
「バゼットさんも、そのうち……」
呟き、再びうつむいてしまう。
流石に心配になったのか、カレンは手を差し伸べた。
「……どうかしたんですか?」
「わたしだけ、置いていかれちゃう……」
きゅっ──
言って、唇をかみしめる。
そこでようやくカレンは合点がいったのか、ふっと表情を緩めた。
「──ああ、それは……」
「わたし……っ」
呟いて。
桜は、カレンの胸に飛び込んでいた。
「桜、さん……?」
さすがにここまでは予想の範疇を超えていたようで──どうしていいのかわからないのか、カレンはただ立ち尽くして、呆然とするばかりである。
「ごめんな、さ……でも……っ」
泣いているわけではないようだった。
ただ──戸惑っている。
「……構いませんよ」
カレンは優しく微笑んだ。その微笑は驚くほどに静かで──、そして暖かいものだった。
「私などで──よければ、いくらでも──」
「カレンさんも、いつかはでていくんですよね──」
廊下を歩いていると、桜のそんな言葉が聞こえてきた。
「……おや」
バゼットはぴくりと顔をあげると、立ち止まった。
──廊下の曲がり角から何やら声が聞こえてきている。
「そうですね。まあ教会の工事次第ですが」
聞こえたのは、カレンの声だった。
「バゼットさんも、そのうち……」
(む。自分、ですか……?)
聞き耳を立てることにする。
恐らく二人は、曲がり角の奥にいるのだろう──推測し、そっと奥をのぞきこむ。
「……どうかしたんですか?」
そこにいたのは、予想通り桜とカレンの二人だった。
桜はこちらに背を向けているために、気付かれることはないだろう。
「わたしだけ、置いていかれちゃう……」
そう呟く彼女の表情は見えないが──どんな顔をしているのかは、大体予想がついた。
「──桜さん」
「わたし……っ」
桜はそう言って、カレンの胸に飛び込んでいた。
「桜、さん……?」
戸惑っているようなカレン。しかしよく見れば、その瞳には優しい色が浮かんでいる。
(なんだ……あんな顔も出来るのではないですか──)
なんとなく、感心してしまう。
「ごめんな、さ……でも……っ」
震える桜の声。
細かい事情はわからないが、どうやら彼女は苦しんでいるようだ。ならば──助けてあげるべきではないのだろうか? 自分に出来ることなどたかが知れているのだろうが、それでも話を聞いてあげることくらいは出来るはずだ──そう思い、足を踏み出して。
「なんだ桜、どうしたんだ?」
と。廊下の奥から聞こえてきた声に、バゼットは思わず踏みとどまった──。
「先輩……」
振り返ると、そこには士郎がいた。
知らず、きゅっとカレンの服を掴む手に力がこもっていた。
「姉さんは……?」
カレンから離れつつのろのろと尋ねると、士郎は苦笑しながら、
「まだちょっとやることあるって部屋にこもってるよ。ルヴィアさんも入れ違いで入っていってたみたいだな」
そうですか、と桜は無表情に呟いた後、
「……姉さん、またあっちにいっちゃうんですね」
そう──ぽつりと呟いた。
士郎はしんみりとした声で囁く。
「うん、そうだな。寂しくなっちゃうけど──でもまあ、仕方ないさ。遠坂が決めた道だ」
「先輩──」
思わず顔をあげる──と、
「……貴方はどんな道を歩くのかしらね」
ふいに後ろから、カレンが尋ねていた。
「ん?」
聞き返す士郎に、カレンはさらに続ける。
「──彼女は彼女。凛が通った道だからといって、その道に沿って歩けばいいというものではないでしょう。──まあ、そのようなことは言わなくてもわかっているでしょうが」
「そうだな」
士郎は頷き──その視線を、庭へと向けた。
いや、正確にはそれはただ庭の方向を向いていると言うだけ。彼の瞳にはきっとそんなものは映ってはいない──
「先輩……?」
……気づけば、声が出ていた。
「え、どうした桜」
きょとんと見返してくる士郎からさっと視線をそらし、桜はいえ、と首を振る。
(──だって。そんな──そんな、遠くを見るような表情──止めてください。本当に先輩、どこかに行ってしまうような気がして──)
きゅ、と唇をかみしめる。
「さてと──、じゃあそろそろ風呂でも行くかな」
じゃあ、と言って、歩き始める士郎に、桜は思わず声をかけていた。
「あの、先輩っ」
「ん?」
振り返る士郎に、桜は必死に尋ねた。
「先輩は──これから、どうするんですか?」
士郎は頭に手をやりながら困ったように、
「え、いやだから風呂にでも──」
「そうじゃなくて……」
ふるふると首を横に振ってから、胸に両手を当て、まっすぐに──尋ねる。
「もっとずっと──将来のことなんですけど」
「……ああ、うん。そうだな」
呟き、士郎は自分の右手に視線を落とした。ぐっと拳を握りしめながら、
「……うん。やりたいことが、あるんだ。でもまあ、とりあえずは──うん。一個一個、出来ることから、やっていくことになるかな……」
言って、再び庭に視線を向ける。
──その表情が、あまりにも切なくて。
苦しくて。
もどかしい……
この人の思いはもうとっくに決まっていて、動くことなんかないのだと実感してしまう──。
──それなら。
それなら、わたしは──やっぱり────
……とんっ。
と──ふいに背中を押され、桜はよろめいた。
反射的に、足を前へと出し、倒れるのを防ぐ。
驚いて後ろを振り返ると──
「……バゼットさん?」
彼女はにこりと微笑を浮かべながら、こちらを見ていた。いや──正確には、自分の足元。
「え……」
踏み出した右足を、見ていた。
「あ────」
自分の体よりも、前に出ている、その足。
一歩、士郎の方へと近づいている足──
──ああ、そうだ。
──それなら、
──わたしが動けばいいだけの話なんだ、きっと。
(……ありがとう)
心の中で、そう呟いて。
桜はゆっくり、顔をあげる。
す、と小さく息を吸い込んで。
「あの、先輩?」
「ん?」
見返してくる士郎を、一生懸命見つめて。
そっと手を握りしめつつ、精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
「ロンドンに行く時は──、わたしにも声かけてくださいね?」
「え……」
ぽかん、と。
士郎は口を開けていた。
「わたしも──勉強してみたいんです」
言いながら、言い聞かせる──自分に。
ゆっくりと、噛みしめるように。
「姉さんが言ってました。わたしの虚無の属性って、凄く珍しいって。修行次第では凄い可能性を秘めているんだ──って。だから、姉さんなんか、あっと言う間に追い抜かしちゃいますっ」
その言葉に、呆然としていたが──やがて、小さく苦笑にも似た笑顔を浮かべた。
「──ああ、わかった」
頷く。
桜は破顔した。
「うん、じゃあ、風呂いってくる。──おやすみ桜。それに、皆も」
「は、はいっ」
「おやすみなさい士郎君」
「せいぜい夢に溺れないようにして下さいね?」
「……アンタな」
顔を引きつらせつつも、士郎は廊下を歩いて行く──
その後ろ姿を見送りながら──ふう、とバゼットは息を吐き、髪をかきあげた。
「やれやれ……」
「まあ、ひとまず──と言った感じですか」
ふ、と息を吐き、カレン。
その二人へと向き直りつつ、桜はおずおずと尋ねた。
「えっと……、わたし、あれでよかったのかな……?」
「ええ、それはもう」
不安そうに見上げてくる桜に、バゼットはほほ笑んだ。
「とてもいい告白だったと思いますよ?」
「っ!? ちっ、違うんですよ!? そんなのじゃなくて──えっと、その…………………あう……」
わたわたと弁明しようと手を振り回す桜。が、それも上手くできずに、結局がくりと頭を垂れた。
「まあしかし、全く気づく気配のない士郎君も士郎君ですが……」
今度は完璧に苦笑して。
「祭りは終わり、日常が戻り、そして時が流れる──」
と、唐突にカレンが両手を組んで詠いあげる。
「しかし、汝それを悲しむことなかれ。いずれ祭はまた訪れる──」
「聖書ですか?」
きょとんとして聞き返すと、カレンは肩をすくめて見せる。
「いえ。即興の詩ですよ」
ふむ、と顎に手を当ててから──バゼットは桜へと向き直った。
身を屈め、まっすぐに相手の目を見つめてから、口を開く。
「別れは──いつかは訪れるものです。出会いがある限り別れは必ずあるのですから。……でも、いいですか。別れを恐れるのは仕方がありませんけれど」
言いながら頷き、そして──笑う。
「恐れて……恐れるあまり、前に踏み出すことをやめてしまうのは──それはきっと、ただの愚か者です。それなら自分で道を切り開いていくべきだ。少なくとも、私はそう考えますよ」
「それは経験談なのかしら」
背後からのカレンの声に、今度はバゼットが肩を竦めてみせる番だった。
「さあ、どうでしょうね」
言いきり、ふっと息を吐く──
(……そうでしょう、)
左手に視線を送ってから──、苦笑。
次に出てくる言葉は呑み込んで。バゼットはただ黙ったまま、そっと皮の手袋を撫でた。
見上げれば、空には三日月。
白い月が静かに、夜を照らしていた──