後後後後後後後後後後後後後後日談。

 

 

 

 

 

 

 

 

1.

 

「んぁ……」

 布団がもぞもぞと動く。

「……う」

 ──早朝。衛宮邸の遠坂凛の部屋。

「うー…………」

ベッドの上には──のろのろとそんな呟き声を発する、布団の塊。

その下からは、腕が一本飛び出し、虚空を彷徨っている。

「いま、何時ぃ…………?」

 空を切っていた腕が、ようやく目標物をその手にとらえた。傍に置いてあった目覚まし時計である。

手の主はそれを布団の中まで引きずり込むと、

「……んあ……まずい、まずい……。起きないと……」

 もぞもぞ、と布団が動く。

 やがて十秒ほどしてようやく、ぺろりと布団がめくれあがり、中から少女が姿を現し──

「…………………あれ?」

 そして少女は──ベッドの真正面に設置してある鏡を見つめ、動きを止めた。

 

 

 

 

 

 

2.

 

だだだだだだだだだだだ……

「って、」

 という掛声と共に『ずぱんっ!』と襖が開き、

「どう言うことよこれはー!?」

 部屋に飛び込んでくるなり士郎の襟首を掴んでがくがくと揺さぶるのは──イリヤスフィールだった。

「お、おおおおおはようイリヤ、どうしたんだ?」

 ゆさゆさと揺らされながらもなんとか挨拶をする士郎。

「違うっ!」

 イリヤスフィールは、『ばっ!』と手を振って見せた。

「わたしよわたしっ! 遠坂凛!」

 その言葉に思わず士郎はむせこんだ。

「え、って、遠坂──!? お前元に戻ったんじゃ……!?」

「わたしもそう思ってたわよっ!」

 目を剥いて叫ぶイリヤ。

 士郎はあれ、と首をかしげて、

「え、でも桜なおってたぞ」

「……え?」

 イリヤスフィールはぴたりと動きを止めた。

「なあ?」

 言って、隣に座っているカレンへと視線を投げかける。彼女は至極落ち着いたまま、お茶をすすりつつ、

「そうですね。私も特に入れ替わっているというわけではありませんし、何もないですが」

「ってなによそれーっ!? わたしだけってこと!?」

 頭を抱えて叫ぶイリヤに、恐る恐る士郎は頷く。

「じゃ、じゃないのかなあ……なあ、カレン」

「そうですね早●」

「くっ、この物言い、間違いなく」

 歯噛みするイリヤをカレンはちらりと見てから、ぴっと指を立てた。

「いえ、それよりも先に考えられるのは──これは本当にイリヤスフィールで、彼女が単にからかっているのかもしれないという点でしょう。試しに凛さんとやら。性癖を10ほど言ってみてください?」

「言うかあああああああっ!」

 『すぱーん!』とハリセンで頭をはたき、息を荒げるイリヤ。

「ったく、何よそれはっ」

 やや顔を赤らめてぶつぶつ唸るイリヤに、カレンは頭をさすりながら、

「軽いエロジョークではないですか」

「あんたねぇ……」

 はあ──と嘆息し、イリヤはすとんと士郎の向いに腰をおろした。あーもう、と呻き、頬杖をつく。手近にあった卵焼きをつまみつつ、

「でもなんでまた入れ替わっちゃったのかしら……この前は確かに元に戻ってたわよね?」

「あ、ああ。そうだな」

 それ俺のなんだけど、と呻く士郎の声は黙殺された。

「とすると──……」

 むう、と顎に手を当て考えこみ──

「……え、なんでだろ…………」

 考えが全く思いつかなかったのか、ぴたりと動きを止めた。

「さ、さあ……」

 士郎が首をかしげる。と。

 ──ガラッ

 廊下の奥から、玄関の開く音が聞こえたかと思うと、

「おはようお兄ちゃんっ、はやく学校いかないと遅刻しちゃうよっ?」

 と言いつつ、制服姿の凛が姿を現し──、

「え?」

 呻く士郎。

「は?」

 見上げるイリヤ。

「うえっ」

 ──と呻き、その二人と目を合わせて、ぎょっと体をのけぞらせた凛。いや、中身はイリヤなのだろうが。

だがそれでも凛はすぐに立ち直ると、にぱっと笑顔を作り、話しかける。

「あ、あれっ? 凛、もう起きてたの?」

「ふうん──? わたしが起きてると、何か不都合があるのかしら……?」

 ゆらり──とイリヤが身を起こし。

「別にないわね。はい、と言うわけでもう一回眠っててねー?」

「くー……。」

 そして即座に恐ろしく冷静な声で囁いた凛によって眠らされ、ぱったりと倒れた。

「えー……?」

のろのろと士郎が呻く。

凛はそんなことには全く構わず、ぐいっと士郎の腕を取り、引っ張る。
「さあ士郎、行きましょっ?」

「いや……これは何て言うか、さすがに駄目だろ……」

 寝息をたてるイリヤをぼんやりと眺めながら、士郎。

「えー」

 口を尖らせる凛に、士郎は慎重に訪ねる。

「大体行くってどこにさ」

 その言葉に凛はえ? と首をかしげてみせた。

「どこに、って。今日は平日なんだし学校に決まってるじゃない」

「ま……、待ちな、さい……?」

 ぐぐぐっ──と。身を震わせながら無理やり起こし、イリヤ。どうやら咄嗟に抵抗したらしいが。うふふふふふふ──と低く笑いつつ、顔をあげる。

「おおおお」

 思わず拍手をしている士郎をよそに、イリヤは凛へと向き直って、

「学校──ですって? どういうことよ……っ?」

 彼女は不敵な笑みを浮かべたまま、腰に手を当て、

「生徒なんだから登校するのが当たり前でしょう? でもリンの体はこれなんだし、リンがその姿で登校したって誰もリンだなんて信じないわよ。それならわたしがリンのふりをして行けば一番問題ないでしょう──?」

「いや、もうそんな状態で行ったってどうせロクでもないことにしかならないから休んだほうがいいだろ。」

 即断する士郎の横で、バゼットもまたうんうんと頷く。

「そうですね。大人しくしているのが一番かと」

「えー!? それじゃあ私の計画はどうなるのよう!」

 途端口を尖らせて不満そうに喚く凛──その後ろで、何やらあかいひかりが揺らめいた。

「ふう、ん……?」

 ──そこに立っていたのは、怒りのオーラを身に纏ったイリヤスフィール。彼女は問答無用に凛へと手を伸ばすと、

「計画? 今計画って言ったのかしら、イリヤ?」

「あ、気のせいだから。と言うわけでおねむの時間よ?」

「むにゃ……」

 ぱったり。

 そして再度、その手が凛を捕まえる前にあっさりと眠らされた。

「で、イリヤ。どうしたんだ?」

 士郎が尋ねると、凛はえっとねー、と上を向いて考え込んでいたが、やがて『にぱっ』と笑うと、

「う、うんとねっ、シロウと一緒に学校行ってみたいかなー、なんて」

「ふざけるなお子様―――!」

 『かっ!』と再びイリヤは覚醒すると、一気に凛へと飛び掛る!

「ふにゅ、なによー!」

 もがく凛に、押さえつけようとするイリヤ。

「……がんばるよな遠坂……」

「そうですねえ……」

 士郎とバゼットの二人は完全に傍観体制に入っていたりするのだが。

イリヤはうふふふふ──と据わった眼差しで尋ねる。

「が……学校まで行って、一体何するつもりだったのかしらねー……?」

「え、そんなの言うワケないじゃない莫迦じゃないのいいからもう寝てなさい?」

 ぱったり。

「すー……」

 三度眠りについたイリヤを見下ろし、凛はぐっと手を握る。

「よしっ。」

「いや、よしじゃなくてな?」

 疲れたように士郎が呻くが、当然聞く様子はない。

「さあお兄ちゃん、一緒に学校、いこうっ?」

「…………えーと、ごめんイリヤ。俺体調悪いみたいだ。と言うわけで行くならひとりでいってくれ」

 士郎はぷいっと視線を逸らしつつも言いきった。

「シロウー!?」

 がびーんと叫ぶ凛をよそに、士郎はしゃがみこんで見せる。

「ごめん……ごめんな、イリヤ──でも、本当無理なんだ……」

「うんでもシロウの都合なんてしらないわ。というわけでいきましょう?」

 そして。あっさりと言いきって、士郎の襟首を掴んで凛はさっさと歩きだした。

「ああああ……だめだ、なんか出る、なんか出るから無理なんだ……」

 未だ諦めずに抵抗する士郎に、凛はにぱっと笑いかけると、

「大丈夫よ士郎。死んだらわたしのお人形として大切にしてあげるからっ」

「ってそれはバッドエンドだからああぁぁぁぁぁ……」

 声が次第に遠ざかる……

 玄関が開き、再び閉まる音が響いた。

 そして──屋敷にはようやく平穏が戻った。

先ほどの喧騒が嘘のように静かになる。

「ええと、行ってらっしゃい──で、いいんでしょうか、この場合……」

 遅ればせながらひらひらと手を振り、バゼットが苦笑する。

 その隣では、イリヤがすうすうと穏やかな寝息を立てている──

「……ふう」

 その吐息は、誰がついたものだったのか。

「……さて、と。では私も職探しにでも行ってきますか」

 言いつつバゼットは立ち上がった。

「そうですか。まあ頑張ってください」

 欠片も気持ちのない声で呟くカレン。バゼットは汗を浮かべつつも、追い詰められたような笑みを浮かべてみせる。

「……ええ、勿論言われなくても頑張りますとも。──ああそれとカレン、確か今日は貴女が風呂掃除の当番のはずですね? ちゃんとやっておくのですよ?」

 そういい捨て、バゼットもまた居間から出て行く……

「はあ。まあ努力はしましょう」

 ぼんやりと呟いて、カレンは湯呑みを傾けた。居間にいるのは、彼女と眠ったままのイリヤの二人だけ。

「……まあ結局」

 ほう、と嘆息しつつカレンは窓の外を眺めながらぼんやりと呟く──

「平和、なんですよね……」

 ──天気は晴れ。薄く長い雲の隙間から、ちょうど太陽が顔を出したところだった。






 

 

3.

 

「………………で、なんでこうなるんだ?」

 穂群原学園──

 教室の自分の席に座って士郎は頭を抱えていた。

 その隣には、何の疑問もないというように凛(中身はイリヤ)が座っている──きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回し、ぱたぱたと足を振りながら、楽しそうに。

「ねえねえシロウシロウっ」

 くいくいと士郎の服の袖を引っ張り、凛は心底面白そうに口を開いた。

(シロウ? シロウって言ったか今……?)

(そんなバカな。あの遠坂さんが……あの遠坂さんが……っ!)

 教室の中は密かにざわめいている。

一見すると皆が皆それぞれの席に座り、いつも通りの会話をしている──ように見せかけながら、その実この二人に注視している。

 廊下の通行人もごく平然と行き交っている──ように一見見えるが、よくよく見ると壁の背後に無数の影が生えているのだった。通行人も同じ人が何度も往復しながら、据わった眼差しを送っている……

 ──“遠坂凛に異変が起こっている”──

その怪情報(・・・)は、二人が登校するおよそ五分前には校内を駆け回っていた。

 士郎たちは恐ろしく居心地の悪い視線を浴びながら校門をくぐり──最も凛はかけらも気にした様子はなかったが──、教室へと辿り着き、そして。

席に着くと同時、そこで士郎は力尽きた。

「………………………。」

 士郎はぐったりと俯いたまま顔をあげようとしない。

 凛は不満そうに口を尖らせると、

「もー。ちょっとシロウってば、聞いてるの?」

 言って、ずいっと自分の椅子を近づけた。

「…………な、なあ、イリヤ」

 ぼそり、と。あくまでも下を向いたまま士郎は呟く。

「ん? なあに?」

 きょとんとして聞き返す凛に、士郎は顔を青ざめさせたままで、

「……とりあえず。とりあえずなんだが──遠坂はこのクラスじゃなかったんだけどな……」

「ああ、それなら大丈夫よ。全員に暗示をかけているから」

 あっさりと凛は言い切る。士郎はぽかんと口を開けた。

「……え?」

「つまり、遠坂凛がここにいても不思議に思う人はいないってことよ」

 言って、ね? と笑いかける──。

「う……」

 士郎は顔を赤らめて、慌てて視線を逸らした。

 刹那──周囲の空気が一瞬ざわめく……

「え、ええとイリ──じゃない、遠さ──」

 顔を赤らめながらも士郎が諌めようとする──と。

「うっわほんとだよ、どうするよ氷室!?」

「どうするもこうするもないと思うのだが」

「えと……その…………わあぁ……」

寺楓、氷室鐘の三人だった。いかにも興味津々と言った表情の蒔寺、あくまでも冷静な面持ちを崩さない氷室、顔を赤らめほわーとした眼差しを浮かべる三枝──

「……また面倒なのが……」

 士郎は思わず半眼で呻き、ひくりと顔を引きつらせながらも、こっそりと凛の耳元に口を寄せて、

「……そうだ。イリヤ、ちなみに昨日の件は──」

「凛が念入りに記憶消去してたわよ。綺麗さっぱり覚えてないでしょ」

「……そうか」

 ほっと胸をなでおろす。

 三人のうち蒔寺が、ざわめく教室の中、空白地帯と化していた士郎たちの近くまでずんずんとやってきた。うわ、と呟きながらも二人の前で足を止める。そして。

「な、なあ遠坂……ん。アンタさ、ええとなんて言うか……」

「ん? なあに?」

 凛はきょとんとして聞き返す。蒔寺はもどかしそうに大仰な身振りを加えながら、

「その……なんだ。あれだよほら、ええと──」

 そして一転して顔の向きを変えると、

「──衛宮ああああああっ!」

 そう、士郎に向かって絶叫した。

「俺か!?」

 思わず叫ぶ士郎にずびしと指を突きつけながら、

「あーそうだよアンタだ! ってそうだ遠坂に何したこの莫迦―!」

「いや俺は何もしてない、と言うよりなんでお前が怒るんだ!?」

「う、うるさいこの馬鹿、いいか──」

 何やら追い詰められたように汗を浮かべ、瞳の中にはぐるぐるマークを浮き上がらせ。彼女は『くわっ!』と目を見開きながら士郎に拳を向ける。

「遠坂をモノにしたければ、このあたしを倒してからに──」

 ずびし。

「──単刀直入に聞くと、ふたりはどういう関係なのか、と言うことだ」

蒔寺の動きが止まる。その背後にいたのは氷室鐘だった。何をしたのかは士郎からは見えなかったが。ともあれ氷室は何事もなかったかのように、すっと前に出てそう尋ねた。

凛はその言葉に目をしばたくと、指を唇に当ててうーんと考え込んだ。

「え、わたしとシロウの関係? ……そうね、簡単に言うなら──」

 言いつつ、その瞳がにんまりと笑う。そして凛は唐突に笑顔になると、『がばっ!』と両手をあげて士郎へと抱きつく──。

「シロウはもう私のものだし私だってシロウのものなんだからねってことなのでしたー!」

「ってうわばかやめろ……っ」 

 顔を真っ赤にしながらささやかな抵抗を行う士郎。だが凛ははしゃいだまま剥がれようとしない。

「残念でした、シロウに拒否権なんてないんだからねっ」

「や、だからそうじゃなくて──」

「み────」

 歯を軋ませ、唸り声をあげたのは蒔寺だった。うがー、と叫びつつ頭をかきむしり、叫ぶ。

「認めねぇー! なんか駄目だ、そんなのほら、あれだよあれ! って言うかどこまでやっちゃってるんだこんちくしょー!」

 

 ざわ……っ

 

 ──その一言に、ざわめきが起こった。周囲の空気が一片して熱を帯びる──。

 士郎は慌ててぶんぶかと首を横に振った。

「ち、違う! そう言うのじゃない!」

「何がどう違うんだよー。ほらほらきちっと説明してみろよ句読点含めて10字以内でさー」

「いや少なくないか!?」

 薪寺がぶーぶーと口を尖らせる。

無茶いうなー、と士郎が叫び──そして『がらっ!』と教室の後ろの扉が開き、そこから慎二が飛び込んでくる──!

「お、おい衛宮?! なんだかお前が遠坂と──って」

 慎二はすぐに事態を把握したのか、こめかみに汗を浮かべながらもふうんと口の端を歪めて見せた。斜に構えながらあくまでも冷静かつ余裕を保った態度で、

「……ふん、なるほどね。噂は本当だったってワケか」

「誰アンタ。」

 凛は言い切った。

「……………………………………あれ、なんか……デジャヴュ…………。」

 慎二はにやりと笑った顔のまま前のめりにばったり倒れた。何やら呻いているようだが。

「……ほら衛宮ー!」

「だーかーらー!」

 何事もなかったかのように再開される蒔寺と士郎の口論。

 凛もそれきり慎二には見向きもせず、もーと口を尖らすと、ゆさゆさと士郎の肩を揺する……

「ねえシロウ、ガッコウってこう言う事するとこなの? 全然つまらない。何だか思ってたのと全然違うわ」

「い、いや今日は色んな意味で特別って言うか。と言うよりある意味愉快すぎる事態な気がするけど。」

 薪寺にゆさゆさと揺さぶられながらも、呻く。

「屋上でお弁当とか食べあうとかそっち詰めてとかガンド追いかけっことかそう言うの期待してたのにー!」

「って誰から聞きやがりましたかそれはー!?」

 絶叫する士郎。凛はきょとんと目をしばたく。

「え、誰ってそりゃあ──」

 そこまで言って、凛はあ、そっか、と口を開けた。

「そうだ。何も屋上でなくてもいいんだよね。じゃあシロウ、ここでお弁当食べようっ?」

 凛の姿をしたイリヤは、そう何の疑問もないように言い切ってにぱっと笑い、早速鞄を漁り始める……

(弁当? 今弁当って言ったか……?)

(まさか──そんな……手作り弁当だって?)

(はは、そんな馬鹿な。あの遠坂さんが……あの遠坂さんが…………っ)

 ざわめきが一層大きくなる。薪寺たちすら置いてきぼりにして、凛はふんふーんと鼻歌を歌いながら、弁当箱を取り出す──

「シロウのために作ったんだよー?」

 そして、士郎は。

「あ、あ、あああああああああああ……………」

 真っ青になりながら、ただひたすら頭を抱えていた──。






 

4.

 

 ──机の上に置かれているのは、何の変哲もないごくごく普通の弁当箱。

 未だ蓋すら取られていないそれにはしかし、今や無数の視線が突き刺さっていた。

そしてその真正面に座っているのは──、衛宮士郎。

彼は今や顔面にびっしりと汗を浮かべ、硬直したきりぴくりとも動こうとしない──

「シロウ? どうしたの?」

 きょとんとして、凛が横から口を挟む──そこでようやく彼は呪縛から解き放たれたようにびくんと体を震わせた。

あくまでも顔をあげないようにしながら、ゆっくりと首を振る。そしてその手が殊更のろのろと弁当箱へと伸びていき──

「……いやでもさ。まだ一時間目も始まってないぞ?」

 さっき朝飯食ったばかりだよな、と汗だくで呻き、士郎はさりげなく手を止める。

凛は不満げに口を曲げた。

「む、なによう、シロウはわたしの作ったお弁当が食べられないって言うのー?」

 その言葉と同時に飛び交ってくる無数の突き刺さるような視線を全身に浴びながら、士郎はさらに顔を引きつらせる。

「そうじゃない、そうじゃないけど──ってそう言えばいつ作ったんだ? 今朝は全然そんなそぶりなかったじゃないか……」

 後半はぼそぼそと、凛だけに聞こえるようにして。

 凛はふふーんと澄ました風に笑うと、

「甘いわねシロウ。ちゃんと今朝早起きしてお城にいるときに作ってきてたのでしたー!」

 言って、ばんざいのポーズをする。

「ってどこまで用意周到ですかー!?」

 頭を抱えて士郎は唸る。

「逃げようなんて考えちゃだめだからねシロウ。今日は私をめいっぱい味わってもらうんだからっ」

 そう言ってとびっきりの笑顔を浮かべる凛に、士郎──のみならず周囲一体の人間が、顔を真っ赤に染める。

「う、おう……」

 ぼんやりとそう呻いている間に、凛は手早く弁当の蓋を開けた。そこには──。

「……凄い。これ全部自分で作ったのか?」

 士郎が心底感心したように尋ねる──が、凛はあっさりと首を横に振った。

「え、違うわよ。リズたちに作らせたの。メニューを決めたのはわたしだけどね」

 玉子焼き、からあげ、ほうれん草とベーコンの炒め物、ポテトサラダ、ササミカツ──ご飯の上には胡麻が振られており、その中央には梅干しが収まっていた。

「どう? ねえシロウ、どう?」

 きらきらと目を輝かせて聞いてくる凛に、士郎は真剣な表情で頷いた。

「うん、凄い。きちっと日本の弁当だ。てっきりお好み焼き丼とかそういうオチとか思ってたけどさ」

「甘いわよ。ちゃんと勉強したんだからね」

 えへん、と誇らしげに胸を張る凛に、士郎は微妙に目を逸らしながら頷いた。

「あ、ああ。そうなんだ」

「……でも、やっぱり手作りのほうがよかった?」

 一転して不安そうな表情を浮かべる凛に、慌てて首を横に振る。

「え、や、そんなことない、そりゃあそっちも食べてみたいって気もするけど、イリヤが考えて作ってきてくれたっていうんだ、これで文句なんか言ったらバチがあたる」

「わーい、シロウありがとー!」

 再び凛がぎゅむっと士郎に抱きつく──

 そしてその様子を遠巻きに見ながら、薪寺たちがぼそぼそと呻いていたりする。えらく情けない声で。

「……なあ氷室、割ってはいってってくれよう」

「自分でやってみたらどうかな」

「無理だ、あんなとこ入ったら溶ける、って言うか死ぬ」

「ふ……誰、か。そうか、やっぱり僕はいらない子……」

 一番最後のセリフは、未だ床に倒れたまましくしくと涙している慎二なのだが。

 凛は外野の様子には目もくれず、弁当の中の玉子焼きを箸でつまむと、

「じゃあシロウ、まずはこれね? はい、あーん」

 ──そう言って、ずいっと士郎の口元へと差し出した。

 

ざわ…………っ

 

────空気が揺れた。

「………………………ええと、遠坂、さん……?」

 だらだらだらだら。

 今や汗に侵食されていない箇所を探すほうが難しいというくらいに顔を濡らしている士郎に、凛は口を尖らせた。

「駄目だよお兄ちゃん。もっと口おっきく開けてくれなきゃ。ほら、あーんっ」

(…………?)

 ──周囲に広がる、微かな違和感。

 士郎はせわしなく視線を動かしながら、手をばたばたと振る。

「い、いやさ。さすがにそれは……皆見てるし、だな──」

「……む。何よ、お兄ちゃんはわたしのお弁当が食べれないって言うの?」

「い、いやそれは──」

 不満そうな口調の凛。焦っている士郎。そして。

(今……なんだって……?)

 違和感が、徐々に広がる──同時、殺気が膨れ上がる。

「どうしろって言うんですか……?」

 げっそりとしながら呻く士郎に、凛は構わずにこにことしながら詰め寄る──

「ほーらぁ、お兄ちゃんってばあ」

(おい、今──)

(ああ、確かにそうだ。今遠坂さんが……)

 広がるざわめき。青ざめる士郎。さらに近寄る凛。

「ねえ、お兄ちゃんってばー」

「って、」

 刹那────

「お兄ちゃんって何のプレイだこの莫迦―!」

 

ばぁんっ!

 

 絶叫と共に扉が開き、『すぱーん!』と士郎の頭がはたかれた──。






 

 

 

5.

 

 太陽は静かに降り注ぎ。風は穏やかに通り過ぎる。

 衛宮邸、居間。いつもならば何かと騒がしいこの屋敷も、今はおおよそ喧騒とは無縁だった。

「ふう……」

 日光が直接当たらない日陰に身を置きながら、カレンはぼんやりと空を眺めていた。その脇には少しばかり温くなっている緑茶。そしてそのさらに横には、穏やかな寝息を立てているイリヤの姿がある。

「…………かってる、ちゃんと、そのうち、…………んぁ」

 そんな寝言を呻いてから──イリヤはぼやけた目を薄く開いた。

「あら、目を覚ましましたか」

 ちらりと横目を送り、カレン。

 イリヤはのろのろと身を起こした。

「……あれ。カレン?」

 ず、とお茶をすすりながら、カレンが何気なく尋ねる。

「どこに行くのです?」

「え? いや、そろそろロンドンのほうにも──って」

 ぽりぽりと頭をかきながらイリヤは完全に身を起こし──そこで、ぴたりと止まった。

 ぺたり、と顔に触れる。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。手で全身を確認し、顔を青ざめさせつつ自分の姿を見下ろす。そして『ばっ!』と振り返り、居間に置いてあった鏡を覗き込み──

「あ──」

 呟きが漏れる。そして。

「ああああああああああああああああああ──っ!?」

 絶叫が、衛宮邸に響き渡った。

 

 

 

 

 

6.

 

「あいでっ!?」

 悲鳴をあげる士郎をよそに、その人物はとんとんと肩を竹刀で──先ほどの一撃はこれによるものだろう──叩きながら、くるりと振り返った。

──そこにいたのは藤村大河だった。

彼女はばたばたと腕を動かしながら、うわーんと叫ぶ。

「ロリコン!? 士郎ロリコンだったの!?」

「何でさっ!?」

 たまらず士郎は手をわななかせながら叫んだ。

「じゃあお兄ちゃんってなによう!」

 ばたばたと手を振って訪ねてくる大河。士郎はぐ、と言葉に詰まる。やがて、瞳にぐるぐるマークを浮かべつつも、なんとか答える──

「……ええと……いや、なんでって……うあ……えと────。プレイ?」

「……え? 士郎、本当に……?」

 ずざっ。

 周囲から人ごみが引いた。

 慌てて士郎は手を振って、こっそりと凛へと囁きかけた。

「や、ごめん、間違えた。ええと……と、遠坂?」

「うん、わかってるわ。士郎を変態にするわけにはいかないものね──」

 凛は真剣な眼差しでこくりと頷いて、すっと一歩前へと出た。髪をかきあげ、ふふんと小さく笑ってみせてから、

「……説明するわ。いい? これは──、単なる私の趣味よッ!」

「どんな趣味っ!?」

 叫ぶ大河に、しかし凛はさらにきっぱりと言い放つ。

「士郎をお兄ちゃんって呼びたくなるのよ! そういう季節なのよ!」

「えー」

「……なんか、遠坂聞いたら卒倒しそうだよな、この会話……」

 うわあ、とぼんやりと士郎が呟いていたりする。

 大河はぶんぶかと首を横に振って、

「で、でもとにかく駄目っ! だってなんか変だものそんなの! 士郎も何やってるのよう! お姉ちゃんは士郎をそんな風に育てた覚えはないんだからねー!」

「育てられたおぼえもない……って、あ。」

 頭をさすりつつ士郎が頭を上げ──そして、途中で固まった。

 ──今の衝撃の巻き添えを食らったのか、凛が差し出していた玉子焼きは、床に落ちていた。

「あー!」

 凛が声をはりあげ、『きっ!』と大河を睨む──

「タイガの……タイガのばかー!」

 その言葉に、大河は『ずがーん』とショックを受けたように固まった。が、それでもなんとかたちなおると、士郎と凛をきょろきょろと見比べて、

「と、遠坂さん? え、なに? なにがどうなって──え?」

「許さない……」

 ゆらり……

 呟きつつ凛はゆっくりと立ち上がった。右手を握り締め、左手もやや隙間を開けたまま拳をつくる(・・・・・・・・・・・・・・・)

はっと士郎が目を開くと、慌てて叫んだ。

「ってイリヤそれはまずい──」

 しかし凛はあくまでも不敵に笑ったまま髪をかきあげる。にやりと口を歪めながら、静かに告げる。

「あら、大丈夫よ。だって……」

 そこまで告げてから──、『ちらっ』と視線を一瞬扉の奥に送り、『くすっ』と笑ってから、再度士郎へと戻し、すっと近寄る。

「イリ──遠坂? どうしたんだ?」

 顔を赤らめながらもなんとかそう聞き返す士郎に、凛は妖艶な笑みを浮かべて見せると、

「あら、シロウはわたしと一緒にいるの、嫌なの?」

 言いつつ、その手をそっと胸の上に置き、しなだれかかる。

「あ、ちょ、うえっ!? と、ととと遠坂──!?」

「遠坂さんなにやってるのよう!」

 薪寺と大河がさすがにたまりかねたのか、叫ぶ──そして。

「先輩から──」

 ──くすり。凛は薄く笑いながらそっと身を離す。そして。

「離れてくださいっ!」 

 

ひゅばあっ──!

 

 一瞬前まで凛の頭があった箇所を、猛烈な速度で何かが突き抜ける──!

 壁に当たって落ちたそれは、投げるものがなくて咄嗟に投げつけたのだろうか、ただのハンカチだった。

「ふうん、確かに当たっても大したことにはならなかっただろうけど。でも攻撃したってことは、そう言うコトなのよね──?」

 指を唇に押し当てつつ、凛が振り返ったその先には。

「……ええ、そう言うことです。いくら遠坂先輩でもやっていいことと悪いことがあるってコト、じっくり教えてあげますね──?」

 笑っている表情を浮かべ、静かに佇む桜の姿があった──。






 

 

7.

 

「はあ……はあ……っ!」

 たん、たんという小気味いい音を響かせ、イリヤスフィール──中身は凛だ──は学園へと続く道を走っていた。

 ちなみにイリヤの体に合う手ごろな服がみつからなかったため、士郎のジーンズとシャツを勝手に借りてきているのだが、当然ながらぶかぶかだった。

「ああもう、なによこれ……!」

 ずり落ちかけるジーンズを押さえながら、彼女はひたすら足を動かしていた。

 慣れない体のせいか、ひどく動きづらい。いつもの倍──とまではいかないものの、かなり多く時間を必要とする。それがひどくもどかしい──。

 それでもくじけず、彼女はきっと歯を噛みしめると、前を見据えた。

「何もないで、いなさいよ……!」

 途切れながらも、思わず、呟いている。

 ──学園まであと少し。彼女はただ走り続ける。願うように。祈るように。──頭の中にある嫌な予感を振り払うかのように。

 

 

 

 

 

 

8.

 

ぽんぽんっ、と拾い上げたハンカチをはたき、それを軽く桜に向かって放り上げつつ、凛はからかうように口を開いた。

「…………それにしてもサクラ、どうしたの? 貴女の学年は違うはずよね?」

「先輩、ちょっといいですか?」

 意識的にその声を無視して士郎へと詰め寄っていく桜。

『ずざっ!』とそれに合わせて生徒たちが避けるようにして道をあける。

 が、士郎はげんなりとしながらそれを手で制した。

「いや、出来たら勘弁してくれ。事情は後でゆっくり説明するから──」

「……先輩?」

 不安げに眉を曇らせる桜に、士郎の奥からイリヤが声を投げかける。

「ほらサクラ、さっさと帰りなさい。シロウも迷惑がってるでしょ?」

「……?」 

 その言葉に桜は僅かに首をかしげる──が。

「遠坂先輩? 黙っていてくれません?」

 ──と。底冷えする声でもって静かに告げた。その視線を真正面から受けつつ、イリヤもまた目をすっと細め、腰に手を当てる。

「ふうん……? 随分な口の聞き方よね?」

 言いつつ、さりげなく士郎の背中に手を添える。

 ──ぴしり。あくまでも笑顔のままの桜の額に、怒りのマークが浮かび上がった。

「うふふふふふ。やだなあ遠坂先輩、そんなに先輩にくっついて。駄目ですよー? 先輩も迷惑がってるじゃないですか」

「あら、シロウ、そんなことないわよね?」

 くいっと服を引っ張りつつ尋ねる凛。

「え、いやぁ──」

 口ごもる士郎をよそに、桜はますます笑顔を浮かべて、『ぱんっ』と手を打った。

「あ、そっかあ。そうですよね、先輩の胸じゃそこまで密着しないとわからないですもんねー?」

 そう、告げた。

 瞬間士郎が顔をさっと青ざめさせる──が、凛は平然としたままだった。ふふんと笑いつつ、さらに身を寄せる。

「そこまでってどこまでかしら? このくらい? それとも──」

 ぐいっ──

 言いつつ士郎の肩を引っ張り、真正面に向かわせ、その胸の中に自ら飛び込みつつくすりと笑う──

「──こんな、ふうに──?」

「………………。」

桜が沈黙する。周囲がざわめき立つ。

悲鳴のような喚声が沸きあがる中、桜は疑念と懐疑と怒りの入り混じったような複雑な表情を浮かべ、ただ固まっている──。

「……まさか。」

 呟くと桜はきっと唇を結び、つかつかと士郎たちへと近寄っていった。

そしてやおらぴたりと足を止める──床に広がっていた慎二の手の上で。ぐぎぇ、となにやら奇妙な悲鳴があがっているが、その場にいる誰もがそれに反応しなかった。

 

 しん……

 

緊迫した空気に、周囲は静まり返った。

 皆が固唾を呑んで皆盛る中、桜は凛の腕を掴み、ぐいっと引っ張る──

 そして彼女は、困惑した表情を浮かべながら、ひそひそ声でそっと尋ねた。

「……あの。ひょっとして、まだイリヤちゃんなんですか?」

「痛い痛い痛い、桜踏んでるっ! 踏んでるからっ!」

「……あら、残念。わかっちゃったんだ。──そうよ、正解。けどよくわかったわよね?」

 なーんだ、と呟くと凛はあっさりと身を離した。

 『はぁ……』と盛大にため息をつきつつ、ついでに士郎から凛を引き剥がしながら、桜は疲れたようにのろのろと呻く。

「わかります。姉さんならさっきのセリフで激怒してるはずですし。話し方とか名前の発音の仕方も癖がありますから」

「お、おい桜聞いてるか? 早く足をどけろー!」

「ところでイリヤちゃん、これ、どうするんです? なんだか収拾がつかなさそうに見えるんですけど……」

 あはは、と苦笑しながら桜が尋ねる──が、凛はあくまでも不敵に笑ったまま、

「大丈夫よ、実はね……」

 言いつつ、桜の耳元に口を寄せて、何かを囁く。

「おいいいから早くどけって痛い痛い、ってなんか今ぐりって捩じったろ!?」

 桜はふんふんと頷いていたが、やがてぱあっと顔を輝かせると、

「え、じゃあつまり──」

「そういうコト。思いっきり楽しんで大丈夫よ」

 言って何やら含み笑いをする二人。

「あ、あのね三人とも。そろそろこの状況をなんとかして欲しいなー、なんて……」

 おずおずと大河が進言する──が、それは二人には聞こえなかったようだ。何やらちらちらと士郎のほうを見ながら、ないしょ話に興じている──。

「……おぅい」

 所在なさげに士郎が呻く。

 そして。

 二人が一斉に士郎のほうを向き、にっこりと──満面の笑みを浮かべた。

「……え?」

 ぽかんと口を開けたままの士郎に、二人は全く同じ速度でつかつかと歩み寄ると、

「さあ士郎、続き続きっ」

「あ、ずるいです遠坂先輩、さっきあれだけやってたんだから当然次はわたしの番ですよねっ?」

「甘いわよサクラ、こう言うのは──早い者勝ちなんだからー!」

 言って凛は、一気に士郎にダイブする!

「何ぃ!?」

 さっと顔を青ざめさせる士郎。

(って今は体遠坂なんだってことすっかり、ってむしろわざと忘れてるのか!? くそ、とにかくさすがに支えきれそうにない──し、けど避けるわけにもいかないし、ああもうどうしたもんだか──!)

 そして士郎は迷った挙句、その場に踏みとどまった。悲壮な覚悟をその表情に浮かべつつ、両手を差し出し──

 ずむっ……!

「ぐぼ!?」

 ムードの欠片もない声をあげ、それでもなんとか凛の体を受け止める士郎。刹那、びきりと背中に何やら致命的な音がはしり、前のめりに士郎は倒れた。

「だ、大丈夫ですか先ぱ──あっ!?」

 慌てて駆け寄った桜もまた、つまづいていた。伸びきっている慎二の靴に足が引っかかったのだ。結果、彼女の体も倒れていく──士郎の背中の上に。

 どた──ずんっ!

「あがっ!?」

 いい感じに体重の乗った肘を背中に食らい、士郎が悶絶する。なんとか身を起こそうとぷるぷると手を伸ばし、床に付こうとして──

その指先に、何か柔らかいものが触れた。

「ひあ……っ!?」

 桜の声があがる。

「せ、先輩そこは──っ」

 慌てて手を引っ込める士郎。

「え、あ、うわっ、すまん桜、その、わざとじゃないんだ──」

「あ、わ、わかってます。で、でもあの、とりあえずこれ、どうすれば……?」

「ちょっとシロウー、なんか絡まってほどけないんだけどー……」

 凛がうんざりしたように呻く。彼女の言葉通り、三人は妙な体勢で絡まっており、そう簡単に抜け出せるような状態ではなさそうだった。

「きゃ、ちょっとお兄ちゃん手が……」

「せ、先輩あんまり動かさ……ひゃんっ!?」 

 顔を赤く染める二人。

「ああもう、なんでこんなことになったんだか……」

 くそ、と士郎が毒づく──

「………………今、舌打ちしたか。」

 ──と。どこからか、声が響いた。険悪な声が。

「……え?」

 反射的に士郎が顔を上げる。

「この状況で。今舌打ちとかしたか。衛宮」

 ゆらり──

 周囲から、気配が盛り上がる。

 黒く重いそれは──、どう考えても殺気という種類だった。

「あ……あれ……?」

 顔を青ざめさせながら、士郎ははっと我に返る──

 ──見上げれば、そこには黒い怨念のような気配。

 事態に気づいた士郎は、真っ青な顔になりながら大河へと視線を向ける──が。

「ええと……ごめん士郎、お姉ちゃんちょっとこれはどうしようもないかなあ、なんて……」

 ぼそぼそと大河が呟き、さっと目を逸らす──

「藤ねえ!?」

「ふむ。さすがにこれはどうしようもないな」

 眼鏡をくいっと上げつつ、冷静に氷室。

「え……えっと……あはは……」

 曖昧に笑いつつ、三枝は一歩後ろへと下がる。

「さーて衛宮、覚悟はいいか?」

 そして。蒔寺がぱきぽきと拳を鳴らしつつ──聞いてくる。

「か、覚悟って……?」

「なにってそりゃあ──」

 薪寺は言いつつ一歩を踏み出し、胸を張り──告げた。

「コロサレル覚悟だろ?」

 刹那──

『いい加減に、しろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』

 我慢の限界に達した周囲の生徒たちが、一斉に士郎たちへと飛び掛った──。






 

8.

 

「うわ……」

 とりあえず──校門をくぐったところで出てきた言葉は、それだけだった。

 何やら校内からは、怒声やら破壊音やらが響いてきている。

 凛──つまり、外見的にはイリヤスフィールだ──は、予想通りと言えば予想通りの展開に頭を抱えた。

 くじけそうになっているのがはっきりと自分でもわかるが──とりあえず、立ち止まることだけは避ける。

「……ああもう、やだ……」

 のろのろと進み、校内へ。

当然ながら近づくにつれ物音も大きくなっていく。

げんなりとしつつ、物音の中心──2年C組の教室の前へとやってくると、そこでは何かがおきているようだった。喚き声やら物音はやたら聞こえてくるのだが、如何せん人がたまりすぎていて──今の身長だと中の様子を把握する事が出来ない。

「ん、しょっ……」

 無理矢理人ごみの間に身を滑らせ、中へと侵入。そこでは──

「あああああああああああああああっ!?」

 やたら叫びながら、教室の中を逃げ回る士郎と。

『待てええええええええええええっ!』

 それを追いかける生徒たちのおいかけっこが繰り広げられていた。

「…………え、何これ…………。」

 思わず、呻いている。

 と、教室の隅に桜たちの姿を見つけて、イリヤはそちらへと近寄って行った。

「……ええと──あんまりもう聞きたくもないんだけど。なに、この騒ぎは?」

「あ、イリヤちゃん……じゃない、姉さん、ですか?」

 手に口を当てて聴いてくる桜に、適当に頷いてみせる。

「そうよっ」

「あら凛、来たの?」

 びっくりした表情の凛に、イリヤは噛み付く。

「来たわよ、そりゃあ心配にもなるに決まってるでしょうが……!」

「ふうん」

「ふうんってね……ちょっとイリヤ、どーすんのよこれ……」

 言いつつ、半ば投げやりに教室を眺めまわす。何やら士郎がついに捕まっているようだったが。

「さあ?」

 凛はあっさりと首をかしげた。

『ちょっと。』

 桜とイリヤが半眼で突っ込んだ。

 凛はあはは、と笑いながら肩を竦めて、

「なーんて、冗談よ冗談。ちゃんときっちり元通りにするんだから」

「全部よ! 全部解除しなさい、いいわねっ!?」

 顔を近づけ、があーと叫ぶイリヤ。

 はいはい、凛は肩を竦める。

 ──くすり、と小さく笑いながら。

「……っ?」

 その頬笑みに、何か猛烈に嫌な予感が頭をよぎる──

「ええ、いいわ。全部(・・)、よね?」

 凛は頷くと、一歩二人から下がり、おもむろに右手を突き出した。甲を上に、手は親指を下に軽く握られている。

「……………。」

 何かを小さく口の中で呟いたようだった。

 すると。

 

 ぱあぁぁぁぁぁ……っ

 

 光が、瞬いた。

 白い光が唐突に凛の突き出した手──ではなく、手から伸びる何かの周りに発生する。

それは、棒状のもののようだった。

もっと言うのなら、ステッキのような形状をしていた。

さらに言うのなら、カレイドステッキに非常によく似ていた。

  ──と言うよりも、どう考えても、カレイドステッキそのものだった──

「って、何よそれっ!?」

 たまらずイリヤは叫んだ。

 構わず凛はステッキを掲げると、上へと向けてさっと一振りした。刹那。

 

 かっ─────────!

 

 猛烈な光が教室、いや、校内を包みこんでいた。

「きゃあっ!?」

「く……!?」

 いきなりのことにろくな対処もできず、イリヤはただひたすら目を瞑っていた。

 そこに、凛の声だけが響いてくる……

「完了したわ。さっきまでの出来事は全部記憶から削除。ついでに言えば、わたしたち二人にかかっていたものも解除したわ」

 ……光がゆっくりと収まっていく。

「……………え。あ、あれ…………?」

 目の前に立っているイリヤは、確かにイリヤの格好をした本人だった。

「ああ、そうそう──」

 ちらり、と意味ありげな含み笑いを残して、イリヤは。

「当然凛なら気づいていると思うけど、服とステッキ。あれって幻術でごまかしてだけってのは勿論わかってたのよね?」

 呟きながら、こちらの格好をじろじろと見やっている──

「……………………。」

 猛烈に嫌な予感に苛まされながらも、凛はゆっくりと視線を下へと落とした。

 そこには。

 赤と白を基調とした、やたら派手な衣装を身にまとった、自分の姿があって──。

「………………………………………………………………え?」

 ……凛は顔を引きつらせた。

 カレイドルビーの格好である。

 どう見ても、カレイドルビーの格好だった。

 そして、そう言えば──

 ここは、教室の中(・・・・)だった。

「………………………………………………………………………………………。」

 だらだらだらだら。

 汗が猛烈な勢いで流れていく。

 ぎしりと体がきしんで動かない。

 頭の中はとっくのとうにパニック状態になっている──。

 わからない。わからない。

ナニがなんだか、もう本当にさっぱりで──

「と、遠坂、さん────? そ、その格好は………?」

 おずおずと聞いてくるのは、大河だった。

 ぎゅっ、と。

 気づけばいつの間にか、ステッキを握り締めるその手に力が込められていた。

 はは──、と笑い声が零れ落ちた。

 我ながら驚くほどに乾ききった笑い声だった。

 そして、彼女は──

「全・員っ! もっかい全部忘れてこおおおおおおおおおおおいっ!」

 全力で叫びながら、ステッキを掲げたのだった──。

 

 

 

 

 

 

9.

 

「でも結局なんだったんだ? イリヤが犯人ってことか?」

 ──夕刻、衛宮邸。

 ぼろぼろになった士郎は、居間の机にぐったりとうつ伏せになりながら尋ねた。

 周囲には凛、桜、バゼット、カレン──それぞれ、本来の体に戻っている皆が座っている。

「む、なによう犯人ってー」

 ぷく、と頬を膨らませて唸るイリヤに、士郎は半眼で、

「いやもうこれだけやれば犯人でいいだろ。で、どうなんだイリヤ?」

「う」

 動きを止め、口ごもる。

「んん?」

 士郎は少しばかり困ったような表情で、じっと目をのぞきこむようにして、イリヤの言葉を待つ──。

 やがて。少女はがくりと項垂れ、あうーと呻きながら白状した。

「……私がやりました。」

 そうか、と士郎は小さく、頷き、ぽんとイリヤの頭に手を置いた。

「……怒ってないの?」

 おずおずと尋ねるイリヤに、士郎は静かに首を振って、

「そりゃあ色々と大変だったけどな。でもまあ今になって見ればまあこんなのもたまにはいいかなってさ──いろんな遠坂とかイリヤとか見れたしな?」

 後半は、苦笑しつつ。

「……うんっ。お兄ちゃんだいすきーっ」

 言って、うにゅ、と士郎の胸の中に顔をうずめるイリヤ──

 ……そこに、恐ろしく冷たい声が降りかかった。

「あっはっは。アンタはいいかもしれないけどわたしはそうはいかないんだからね……! ってわけで士郎、そのちびっこに色々酷いことやるからさっさとこっちに引き渡しなさい?」

 その後ろでは、やはり冷たい視線で二人を射抜く妹の姿。士郎は顔を青ざめさせつつぶんぶん首を振って、

「いや、駄目だ。なんか普通に凄いことしそうだし遠坂」

「そんなことないわよ。単にひっぺがして肉って書いて路上に放置してやるだけだから」

 べきぱきと指を鳴らしつつ凛は笑顔で言い切った。

「きっぱりと犯罪じゃない!」

「あら──」

 ゆらり……

 凛が背後を揺らめかさせつつ、一歩前へと出る。

「じゃあなあに? 昨日からやってきた一連の行動は、法には触れないとでも?」

「か、からだをいれかえてはいけないなんてないもんっ」

 口を尖らせて反論するイリヤに、

「あるはずあるか、ぼけー!」

 凛は叫びつつ飛びかかる!

「うわ、遠坂おちつけー!」

 慌ててその場からイリヤを抱えて飛びのいて、士郎。

「で、でもっ」

 話題を逸らそうとしたのか、桜が必死に声を張り上げた。

「そう言えば──そう。どうやって入れ替えてたんですか? そんな簡単に出来るものなんですか?」

 イリヤはちらりと桜を見てから、

「そんなはずないでしょ。現にステッキの力を借りてたわけだし。何より体入れ替えてたわけじゃないし。──凛も言ってたでしょう? 本当の意味での魂と体の入れ替えはありえない、って」

「え、じゃあ──」

 首をかしげる桜に、イリヤは意味ありげに凛へと視線を投げかける。

「凛ならそろそろ勘付いてるんじゃない?」

「……そうね。ほら士郎、教室でステッキがイリヤの手の中にいきなり出現したの覚えてる?」

「いや俺それどころじゃなかったからな。」

 途端『ふ……』と遠い眼差しをして、士郎。

 凛は気まずそうに手をにぎにぎとさせながら、

「……えと……。ま、まあそうなんだけどっ。で、それっていきなり現れたんじゃなくて、単にわたしたちが見えてなかった──ううん、見えてるって認識できてなかった、ってことなのよ。握った杖から無作為に視線を回避させてたわけ。で、それと同時に──」

 はあ、と大きく嘆息しつつ、続ける。

「私たちの身体情報も、すり替えさせていた、ってわけ」

「……? ごめん遠坂、全然わからない」

「だからっ! はじめから入れ替わってなんかなくって、単に全員がそう思い込まされていたってことよ!」

 ああもうっ、と肩を怒らせ、があーと告げる凛。

「……あ、あー。なるほどなー」

 士郎はようやく納得したのか、ぽんと手を打った。

 桜がびっと指を立てて、

「ああ、だから姉さんの姿も変身バージョンだったわけ……で……」

 ……凛の笑顔を見咎め、言葉がしりすぼみになっていった。

「桜? アンタなに、そんなに死にたいのかしら?」

 うふふ、と笑う凛。ぶんぶかと首を横にふる桜。

「いいいいいいえっ。なんでもないですっ」

「で? なんでそんなことしたんだ?」

 改めて士郎がそう訊ねると、イリヤはわーいと両手を挙げながら、

「うんとね、士郎と色々遊びたかったからー!」

「………………。」

「だ、駄目です姉さん包丁は! 包丁はー!」

 後ろのほうでは、何やら真顔で台所に向おうとする凛に桜が抱きついて止めていたりする。

「い、いいじゃないっ。ちゃんと記憶操作したんだしっ」

 ぶー、と文句を言うイリヤに、凛は振り返って、

「そう言う問題じゃないっ!」

「そうですよ。大体──」

 やれやれ、と呟きながらバゼットは続ける。

「ただ士郎君と学校に行きたいだけだったのなら、凛さんを巻き込む必要はないでしょう? 自分が生徒だと言う暗示でも使ってそれで──」

「……え?」

 ぽかんと口を開けるイリヤに、バゼットは繰り返した。

「ですから。暗示で適当に設定を作ってしまえばですね──」

「──あ、そっか。それもそうよね、うん」

 と。なにやら妙に神妙に頷いたのはイリヤだった。

「え──?」

 ぴしり、と凍りつくバゼット。

「うあ」

 思わず士郎も呻いている。

「って──」

 ひい、と顔を青ざめさせる桜。

「まずい────っ」

 凛が引きつった表情で慌ててイリヤの元へ向かおうとし──

 そしてイリヤはくるりと士郎の顔を自分に向けて振り向かせると、その目を覗き込んで、

「ってわけでお兄ちゃん、とりあえず手始めに──」

『って、やめんかああああああああああああっ!』

すかさず全員が止めに入る──

夕刻。衛宮邸はいつまでも騒がしく賑わっていた。

 

 








 




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