1.
夜――深夜。寝静まった衛宮邸の離れの一室……
「……んあ、しろうの……ばか……」
寝言を呟いて、遠坂凛はベッドの上でごろりと寝返りを打った。
部屋の中には明かりはなく、暗い闇が広がっているばかりである。
と――
ちゃ、かちゃん……
金属音が部屋に僅かに響いた。
音の発生源は部屋の入り口。扉からである。
きぃっ――
かすかな音を立てて、扉がゆっくりと開く……
――影が、部屋に落ちた。
黒い闇の中に、より黒い影がひとつ、舞い降りる。
「ふ――」
……声が、響いた。
低く抑えられた声は、女性のもののようだ。
「ふふふふ……」
「ふふふふ……」
声は二種類あった――人影は相変わらずひとつしかないと言うのに。
「ふふふふふふふふ……」
「ふふふふふふふふ……」
笑いながら、影はゆっくりと凛の元へ近づいていく……
『ふふふふふふふふふふふふふふ――』
――そして。
部屋の中に、小さな光が点り、そして消えた。
2.
「お・に・い・ちゃーんっ!」
ずぱんっ!
居間の襖が勢いよく開くと同時、やたらとテンションの高い口調で元気よく叫んで飛び込んできたのは──、遠坂凛だった。
いつもの私服だが、今日は髪を下ろしている。
「へ?」
間の抜けた声を上げて、ぽかんと振り向いたのは士郎。
その時にはすでに凛は満面の笑みを浮かべ、士郎へと狙いを定め、力いっぱい床を踏み切って、一直線に突き進み──
「は――?」
間の抜けた声が響く。
動けない。士郎は硬直したまま動けないでいる。
明らかに混乱した表情を浮かべ、だらだらと汗をかきながらも──床に釘付けにされたように、立ち上がれない。それは同じく居間でくつろいでいる他の者も同じようだった。
ど・ずんっ。
凛のそれは、抱きつく、と言うよりも頭突きだった。
「ぐぶっ!?」
速度の乗った突進は予想以上に重いものだったのか、士郎が苦しそうな呻き声をあげる。
が、凛はそんなことには構わず目をきらきらと輝かせながら士郎の腕にしがみついた。右手を軽く握りしめ、ずいっと顔を近づけて。
「ねえねえ、どう? どうなの士郎?」
にぱっと笑いながら、そう尋ねてくる。
──早朝。とは言え衛宮邸に限って言えばそう早い時刻でもないが。セイバーの姿はなく、いるのは士郎、桜、バゼット、そして今やってきた凛で全部だった。
「ねえ、どうなのー!?」
士郎の肩をゆさゆさと揺さぶり、凛は口を尖らせて尋ねている。
「え。や、うわ、その、えええ? や、柔らかい──ぞ?」
明らかに混乱した口調で、それでも何とか呻く士郎。その腕には凛の胸が押し付けられているのだが、当人は全く気にした様子はなかった。ぶー、とつまらなさそうに呟きながら、
「えー、なに、それだけ?」
ちょこんっ──
不満の声をあげ、ごく当然だと言うように、士郎の足の上に乗っかった。
「へ、えああう、うええ?」
もうどうしていいのかすらわからないのか、半泣きになりながらおろおろと士郎が助けを求めるように周囲に視線を送った。
が、皆が皆、さっと視線を逸らして関わろうとしない──
「こらあ、どこいったー!?」
と。廊下の奥からやけに険悪な叫び声が響いた。続いて、どすどすと荒々しく床を踏み抜く音。そして。
「見つけた! 何てコトしてくれたのよこの悪魔っ子―!」
があー、と叫びながら居間に現れたのは、イリヤだった。ふーっ、と肩を怒らせながらずんずんと士郎の元に近寄ってくる。
「──離れなさい!」
苛立たしそうに吐き捨てると、士郎から凛を引き剥がす。きゃ、と凛は悲鳴をあげてから抗議した。
「って、もう! 何するのよ!」
が、イリヤはその言葉にぴきりとこめかみを引きつらせると、『むぎゅっ』と凛の頬を両手で掴みあげた。
「あっはっは。どの口がそんなコト言えるのかしら。ねえ、この口? この口なの?」
「むー!」
ばたばたと手を動かす凛。このっ、くのっ、と言いながら頬をひねりあげるイリヤ──
「え、ええとな二人とも」
ようやく我に返ったのか、士郎が声をかけた。
「何よ! 今洒落にならないことになってるんだから後にして!」
があー、と一喝したのはイリヤだった。
「いや、そのだな」
「お兄ちゃん、助けてー!」
ふにゅー、と喚いているのが凛である。
彼女はなんとかイリヤの手から逃れると、さっと士郎の背中に隠れた。右手を軽く握りしめながら、むー、と恨みがましい目つきで目の前のイリヤを見上げている。
「え、や。だから遠坂さ……」
例によって胸が背中に押し当てられていることに気づいているのか、士郎が顔を赤く染めている。
が、イリヤはどすどすと士郎の傍へと歩み寄ると、『ばっ!』と勢いよく手を振るった。
「士郎、いいからソイツを引き渡しなさい! やっていいことと悪いことがあるのよ世の中には! 今日こそそのことをたっぷり思い知らせてやる──!」
「……待ちなさい。一体どうしたのです、イリヤスフィール。どこかの凛のような口調は感心できませんね」
と。今まで成り行きを見守っていたバゼットが、手にした求人雑誌から顔を上げて呆れたように呟いた。
「やかましい!」
『すぱーん!』とどこからともなく取り出したスリッパで頭を叩くイリヤ。
「ぐっ……何をするのです。子供だと思っていられるのにも限度がありますよ?」
「いや、まだ一回目だろ」
沸点低いなー、と呻く士郎をバゼットはぎろりと睨みつけて、
「士郎君は黙っていてください」
「はい」
その様子を見ながら、ああもうそうじゃないでしょう、とイリヤが嘆息しつつ額を押さえる。
「ってあのねえ。あんた達、いい加減気付きなさいよねー……」
「ん、ええと……?」
その言葉に士郎が首を傾げる──
真っ先に反応したのはバゼットだった。そう言えば、と言いながらぽんっと手を打つ。
「ああ、今日は髪を下ろしてるんですね?」
「そうじゃない!」
突っ込んだのはイリヤである。
次は桜だった。ずびし、と凛の胸に指をつきつけて、
「ずばり、いつもより胸がありませんね?」
「日替わりで減るわけないでしょーがっ!?」
アンタいい度胸してるわね、と低く呻いている。
続いてふっ、と笑いつつ凛本人が髪をかきあげる。
「皆わかってないわね。今日のわたしは、ずばり背中にチャックが!」
「あるかああああああっ!」
と、再び桜が首をかしげつつ口を開く。
「え、ではいつもより3倍くらい金に汚いんですか?」
「なんであんたの中ではその二択なのか本っ気で聞きたいんだけどね……」
やたら疲れた表情で、イリヤが頭を抱える。
「ですからなぜ貴女が困るのです」
「あーもう、なんでわかんないかなー!?」
再びがあー、と叫ぶイリヤ──
「あのさ……」
と、控えめに手を挙げたのは士郎だった。彼はイリヤと凛を交互に見比べつつ、
「……入れ替わっているんじゃないか?」
「は?」
ぽかんと口を開けて、バゼット。
「や、さっきのやりとりを見てた限りだけどさ。どう見てもその、遠坂とイリヤの性格が入れ替わっているとしか思えないんだけど……」
「ふむ」
やたら冷静な表情でうなずいたのは桜。
そして。
『ええええええええええええええええっ!?』
絶叫が、衛宮邸に響き渡った──。
3.
「……はあ。ようやく落ち着いたわ」
とん、と水滴の残ったコップを机に置き、口元を拭ってから、イリヤ──中身は凛だ──は息を吐いた。
「だからね。なんか知らないけど」
むう、と口を曲げながら、指をぴこぴこと振り、
「……まあ何て言うか、すっごく簡単に言うと、朝起きたら体が入れ替わってたのよっ」
『だんっ!』と机を叩く彼女の言葉に、士郎は感心したように呟いた。
「……また偉く簡単だな」
「ふん、何よ何よ、人ごとだと思って……」
じと、と冷たい視線を受け、士郎は慌てて話題を変えるべくわたわたと手を振りながら、
「え──えーっと。それってよくあることなのか?」
恐る恐る聞く士郎に、イリヤはがあーと叫んだ。
「あってたまるかっ! 前代未聞よこんなこと!」
「そうか? ありがちだと思うけどな」
苦笑しながら、士郎。
「……あのねえ。アニメや漫画の世界とごっちゃにしないでよね。魂が入れ替わるなんて、そんな簡単なものじゃないんだから」
ぱたぱたと手を振りつつ嘆息混じりに呟いた凛の言葉に、士郎はへえ、と呟いた。
「そうなのか?」
イリヤは左人指し指をぴっと立てるとそれを左右に振った。こめかみに反対の指を押し付け、呟く、
「当たり前でしょ。そもそも魂が入れ替わってたらこんなことにはならないの。魂が肉体を決定たらしめるって言って──ああもう、そこはまあいいか。ともかくね、今起きてるのは魂の交換なんかじゃなくて。えーっと、ありえそうなのは性格と記憶の交換? オリジナルとは別に記憶の保管場所みたいなのを作って絶えず情報を送受信し続けているって言うのかな。いまいちわたしもよくわかってないんだけど。もしくは強力な暗示ね。最も周囲の人間や本人自身にまで問答無用で支配下におくなんて、相当な代物なのは間違いないけど」
ぶつぶつと呟き、考え込むイリヤに、凛はくすりと笑う──
「ふうん。色々考えてるみたいだけど、全部はずれよ、リン。これは正真正銘魂の交換。肉体はそのままに、わたし達の魂という情報だけを書き換えたもの」
「………………。」
ぽかん、と。口を開けたまま凝視しているイリヤに機嫌をよくしたのか、凛はふふんと得意そうに続けた。
「流動と転移の魔術がなんか変な風に暴発しちゃった結果こうなったみたいね。まあこんな貴重な体験そうそう出来るものでもないんだから──」
「……成、程?」
ゆら、り──
立ち上がるイリヤの背中から揺らめき立つのは、あかいひかり。うわ、と呻いて慌てて士郎が避難している。
「ってことはアンタの仕業なのかこの悪魔っこー!?」
言うなり、イリヤは凛へと掴みかかる!
「ふ、ふにゅーっ!?」
頬を両手で掴まれながら、ばたばたと手足を動かす凛。あっはっは、と完璧に据わった目でイリヤは唸る。
「さっさと戻しなさいよ……っ!」
「っぷはっ! ……あら。そんなにわたしの体に不満? そりゃあ確かにマガイモノかもしれない、でもそう悪いものじゃないでしょう?」
「いいとか悪いじゃない! わたしはわたしの体がいいの! 元に戻せったら戻せー!」
叫ぶイリヤに、凛は『にやっ』と笑って見せながら、
「ちょっと貸してくれたら胸大きくして返すけど?」「のった。」
イリヤは真顔で即断した。
が、凛はそれを見て、くすくすと笑いながら、
「嘘よ?」
「ああああっ、この悪魔っこがー!」
ああもう、と叫ぶイリヤに、凛はさらに続ける。
「ついでに言えば、偶然こうなっちゃっただけだから、元に戻る方法なんて全然わからないのだけど」
「────は!?」
さすがにそれは聞き咎めたのか、『ばっ!』とイリヤは顔をあげた。だらだらと汗を浮かべて詰め寄りつつ、尋ねる。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。今なんて言った!?」
「だから、やってみたのはいいけど、元には戻れないの。困ったものよね」
てへ、と笑う凛。
「……………………………………。」
イリヤは顔を真っ青にしたまま呆然としていたが──やがてのろのろと歩くと、すとんと腰を下ろした。
「……色々──」
机に両手を乗せながら、呻く。
「こっちに帰ってきてから、本っっっっ当に色々あったけど。でも、さすがにこんなのは始めてだわ………………」
言って、ぐでんと机に突っ伏す。
「……こわれましたか」
よしよしと頭をなでながらぽつりと桜が呟いている。が、イリヤは即座に『がばっ!』と顔をあげると、
「あーもーやってられないわよ! 何なのよこの状況はー!」
頭を抱えるイリヤを見ながら、バゼットは。
「なるほど。大体の状況はつかめましたが」
ふむ、と呟き片目を瞑る。
「しかし困りましたね。この場合どちらの名前で呼べばいいんでしょう」
「いや、今問題なのはそこじゃないから。」
士郎がさりげなく突っ込んでいる。とりあえず中身で呼んだほうが反応しやすいと思うけど、と付け加えながら。
「にしても──」
どうしたもんだか、という士郎の声は。
「あれええええええええええっ!?」
と言う、遠くから聞こえる悲鳴によってかき消されていた──。
4.
「え、なに今の?」
『がばっ!』と顔をあげる凛に、桜はやけに落ち着いたまま薄く小さく笑っている。
と、ばたばたという足音が響き、
「せ、せせせ先輩―っ!?」
と言う、聞き慣れた、しかし違和感だらけの声が飛び込んできた。
「こ、これってどういうことですかあっ!?」
えぐえぐと目を潤ませながら士郎の元へと走り寄ってきたのは──カレンだった。
『………………え?』
居間にいる連中が、ぽかんと口を開ける。
「ど、どうなってるんですかこれっ、なんでわたしカレンさんの体になってて──って……」
がくがくと士郎の肩を揺さぶり──そして、ふとカレンはぴたりと動きを止めた。
その視線の先にいるのは──桜である。
「って、まさか……」
半眼で呻く凛の横で、桜は素知らぬ顔でにっこりと微笑み、
「はい。おはようございます、桜さん」
あっさりと、そう言ってのけた。
「あ、ああ、あんた──!?」
目を白黒させながら、イリヤ。
「あんたも入れ替わってたの!? え、じゃあなんでそんな普通に……っ?」
「いえ、言わないでいた方が面白いかと思いまして。」
桜──どうやら中身はカレンのようだ──はしれっと言い切った。
「……………………あんたね〜……」
がっくりと疲れたように肩を落とす凛。
「びっくりですね?」
こくりと小首をかしげ、呟いている。カレンは呻きながらわたわたとしているばかりで反応出来ていないのだが。
「……ちなみに」
すっ、とバゼットは手を挙げた。頬に一筋の汗を浮かべながら慎重に周囲を見渡して、ゆっくりと告げる。
「私は私自身ですので特に問題はありません」
「あ、お、俺もだ。俺も普通だからな?」
慌てて士郎もそれに続く。イリヤは腕を組みながらしかめ面で、
「……つまり、わたしとイリヤ、カレンと桜がそれぞれ入れ替わってるってことでいいのよね?」
「そうなるわね」
頷くイリヤの横で、ちょっといいですか、とバゼットが手を挙げた。頬に一筋の汗を浮かべながら。
「──ええと……すいません。何だか非常に申し訳ないとは思うのですが──、そろそろ私は出掛けます。申し訳ありませんがそちらの問題はそちらで対処してください」
言い捨て、手早く準備を整えていく。
「バ、バゼット? 助けてくれるんじゃ──」
えらく情けない声をだす士郎に、すでに立ち上がっていたバゼットは『ぽんっ』と肩に手を置いた。
「……士郎君」
にこやかに、しかし凄味を帯びた声で、告げる。
「今日は、ようやくこぎつけた最終面接なんです。」
「あ、はい。頑張ってきてください。」
びしりと直立不動で敬礼する士郎。
「はい。と言うわけで私は行きます。それでは」
有無を言わさぬ口調で言い切り、さっさと出て行くバゼット──
それに構う余裕はないのか、イリヤは腕を組んでぶつぶつと唸っている……
「……にしてもなんでこの組み合わせなのよ。暴発ってことは無作為に入れ替わるんでしょう? まあ士郎と変わらなかっただけマシだけど──」
私はそれでもよかったのですけど、という声が何やら背後から聞こえてきているが、それはあえて無視して。
「どうなのかしらね。正直私もよくわからないわ。まあでもこんな滅茶苦茶、体に心を無理やりくっつけているみたいなものなんだから、そうそう長時間持続するものでもないと思うけどね?」
あくまで推測だけど──と凛は軽く右手を握りこみながら告げる。イリヤもまた視線を鋭くしながらそれに頷いた。
「そうね、それは同感。けどだからって安心していいってわけじゃ──」
「ってわけでまじめな話はここでおしまいっ。──ねえシロウシロウっ。わたしたちもどっか遊びにいこうっ?」
一方的に話を打ち切り、一転してぴょんぴょんと跳ね、凛は士郎の腕に絡みつきながら嬉しそうに告げる。
「………………。」
指を一本立てたポーズのまま、硬直するイリヤ。
「……え? どこに?」
あとバゼットは遊びに行ったんじゃないと思うぞ、とぼそぼそと呻きつつ、やや体を引き気味にして尋ねる──と、凛はんー、と指を唇に当ててから、
「ん? そうね、どこでもいいけど──でも、」
「却下よ!」
叫んだのはイリヤ──の体に入っている凛である。
「イリヤわかってるの? アンタが今の状態で外にでるってことは、アンタはわたしとして見られるのよ!?」
「ん? ああ、そうよね」
と凛はあっさり頷いてから、
「あ、じゃあ士郎またわくわくざぶーんに──」
「だーかーらー! 駄目だって言ってるのよ!」
すかさず叫んでくる凛に眉をしかめながら、イリヤはうるさそうに振り返った。
「もー、なんなのよ一体。別に全裸で歩き回るなんて言ってるわけでもないし士郎と一緒に遊びに行くってだけでしょ? それとも──ああ、そっか。ふうん、そう言うこと──?」
くすり──と含み笑いを浮かべる凛に、イリヤは口ごもった。
「な、なにがよ……っ?」
ぐっ、と言葉に詰まる彼女の後ろでは、妙に冷めた眼差しを送るカレンの姿。そちらにちらりと視線を送り、凛は肩を竦めて見せた。
「別にー?」
「ええと、それでは──」
と、会話に割り込ませるようにしてすっと手を挙げたのは桜だった。こほん、と咳ばらいをし、相変わらずの無表情のまま、
「折角ですし私も行きたいのですが」
「いや勘弁して下さい。」
士郎は即答した。
む、と眉をしかめる桜。
「どういう意味です衛宮士郎。いえ●●」
「言い直すなよっ!?」
たまらず叫ぶ士郎に、桜はくすりと微笑んでみせた。
「まあいいでしょう。彼女と一緒でも別に構いませんのでどこかに連れて行ってくださいね──?」
言いつつ、凛と反対方向にまわり、素早く士郎の腕を取る。
「いや、俺は行くなんて一言も言ってないけどな?」
呻く士郎に、しかし桜は平坦な眼差しのまま、
「まあいいではありませんか」
「……ああ、そう。まあ別にどうでもいいけどな?」
ひくり、と頬を引きつらせる士郎。
「ほらほらお兄ちゃんっ」
ぐいぐいと左手で腕を引っ張るイリヤ──が。
「待ちなさい。」
その前に、ふたつの人影がたちふさがった。言うまでもなく、イリヤとカレンである。
「行かせない。絶対行かせないわよイリヤ──!」
ぐぐっと拳を握り、目に炎すら灯らせイリヤは吼える。その隣では、カレンもまたこくこくと頷いている。
凛はうるさそうに眉をしかめると、
「何よ。そんなに心配ならじゃあ凛たちも一緒にくればいいじゃない」
「……む」
思いがけないと言えば思いがけないその提案に、イリヤは言葉に詰まった。カレンへと振り返り、ひそひそと尋ねる。
「どうする、桜?」
「……そうですね。目の届かないところにいかれるよりは監視できる場所にいたほうがいかもしれません。それに」
ぐっ、と両手を握り、カレンはえへへと笑った。
「折角出かけるって言うんですし、わたしもいきたいですっ」
「……アンタも大概気楽よね……」
そう呻いてがっくりと項垂れ、イリヤはしくしくと涙するのだった──
5.
「しっかしまあ」
屋敷のすぐ目の前。とんとん、と靴を地面に打ち付けながら士郎はぼんやりと呟いた。
「何と言うか、いつもいつも急と言うか行き当たりばったりだよなー……」
「あら。でもこっちのほうが楽しいでしょ?」
くすくすと、からかうような声に振り返ると、そこには凛──の姿をした、イリヤ。
「……何もかも決まってる予定調和の世界より、わたしはこっちのほうが好きだけど。──シロウは、どうかな?」
言って、じっと士郎の目をのぞきこんでくる──
「……ん。ま、まあそうかもな」
頬を赤らめ、ごにょごにょと士郎は呻いて体の向きを直そうとした。
「あ、待って待ってっ」
慌てた様子の凛の声に、再度振り返る。彼女はとてとてと横から近寄ってくると、『きゅっ』とその右手を握り締めた。驚いた士郎が何かを言おうとする、その前に。
「えへへ……っ。手つないでいこう、お兄ちゃんっ?」
早口でそう喋り、照れ隠しなのか僅かにはにかんで彼女はさらに強く手を握ってくる。
「…………。」
士郎は何かを言おうと口を半開きにした──が、結局ふっと息を吐いて表情を緩めると、
「……ん」
それだけを小さく呟き、自分もまた手に力を込めた。そして──
「……桜あいつら吹き飛ばしていいかしら。」
「いいんじゃないでしょうか何かもう見てるこっちが恥ずかしいですし。」
──そして。そんな士郎たちの様子をやや離れた後ろから半眼で眺めつつ、カレンとイリヤの二人は何やらぼそぼそと言い合っていたりする。
「…………………ええと…………」
そんな二人の会話が聞こえたのか、汗を浮かべて立ち止まる士郎。と。
「すいません、お待たせしました」
わたわたと桜──中身はカレンだ──が玄関から出てきた。
「じゃあこれで全員揃ったし行きましょうか。──ほらカレン、鍵、鍵」
イリヤがびっと玄関を指差し、カレンに告げる。頼むな、と言ってから士郎は隣にいる凛へと振り返った。
「あ、で、結局どこにいくんだ?」
イリヤはそうね、と考え込んでからやおら顔をあげ、ぴっと指を立てて、にこやかに提案した。
「じゃあ、なるべく知り合いがいないところにしましょうか」
「では学校で。」
「待ちなさい?」
くるりと向きを変える桜の襟首をがっしとつかみ、イリヤは笑顔のままこめかみに怒りのマークを浮かべる。ふるふると首を横に振りながら、一片の邪気もないというような潤んだ瞳で桜は。
「違うのです。行ったことがないので行ってみたいのです」
一方イリヤはあっはっは、と乾いた笑い声で、
「却下。そんなに行きたいんならこの状況が解決してからひとりで行きなさい?」
「一人で行ってもつまらないではないですか」
すねたような口ぶりの桜に、イリヤはぷいとそっぽを向いてみせた。いい? と指を立てて、すたすたと歩きながら説明する──
「ふん。知らないわよそんなの。第一もしこの面子で学校なんて行ってみなさいよ。知り合いにでも見つかったら──」
「──あれ、衛宮?」
『…………………………………………。』
そして。
あまりと言えばあまりのタイミングで、交差点から出てきた蒔寺と、はち合わせになったのだった──。
6.
「よー、こんな所で会うなんて偶然じゃんか」
蒔寺は気楽に片手を挙げつつ近づいてくる──
「……あ、ああ」
曖昧な笑顔を浮かべ、士郎は残り四人をかばうような意味も含めて前へと出る。
(……遠坂、どうする?)
──その際、すれ違ったイリヤに対し、そのような意味を込めた視線を送る。
(……なんとか誤魔化して。入れ替わってるなんて気づかれないようにして)
そして彼女もまたその意味を瞬時に理解し、答える。
士郎は小さく頷き、やや緊張した面持ちですっと前へと出た。
「なんだ衛宮なにして──って、」
そこまで呟いて、彼女は五人の姿を見て、やや引いた様子で呻いた。
「え。……なんだよ、この集団。」
桜、凛、イリヤ、カレン。
それぞれが瞬時に、『さっ。』と蒔寺から視線を逸らしているようだが。
「いや、ええとだな……」
助けを求めるように凛を横目で見る──が、彼女はよくわかっていないのか、ただにこにことして軽く右手を握って見返してきた。
「なんか見慣れない顔もいるけど……?」
言いつつ、近づいてくる蒔寺。士郎は思わず後ずさ──る前に、なんとか話題を変えようとして──、
「ってそう言えば他の二人はどうしたんだ?」
「いや別にいつも三人でいるわけでもないし。で、誰なのさ衛宮」
──見事に失敗した。
士郎はだらだらと汗をかきながら、
「え、ええとだな。それを説明すると長くなる。と言うわけでまた今度だそれじゃ。」
ぎこちなく笑って、くるりと回れ右をしてすたこらと逃げようとする。
が、当然の如く、
「待った。」
「ぐえ」
首根っこを掴まれて失敗に終わった。
「あ、あのっ、違うんです──」
たまらず口を開いたのはカレンだった。
「ん? 誰、アンタ」
訝しげな視線を真正面から受け止め、ごくりと喉を鳴らしてそれでもカレンは。
「え、ええとその──わ、わたしですか。わたしはカレン・オルテン……あれ、オルテン、ええと……………?」
わたわたと慌てた口調で言いつつ、首をかしげる。顔を青ざめさせながら。
「オルテン、シア、ですよね?」
ぎゅむっ。
桜が額に血管を浮かべつつ、にこやかに笑いながらカレンの靴を思い切り踏みつけた。
「あうっ……!? そ、そです、オルテンシアですっ」
言って、はふうと息を吐く桜。
「なにかとエロい子です。」
「なにかと脱がそうとしてきます。」
すかさずイリヤと士郎が『びっ』と指を立てて追加する。
「ふ──ふふふふふふふ……。いい度胸ですね、先輩方?」
『ごごごごご……』と桜は笑う。口だけで。
額に汗を浮かべつつ、士郎は続けた。
「ま、まああれだ。知り合いと言うか何と言うかさ──」
蒔寺はひょいと士郎の後ろをのぞきこむと、
「じゃああっちのお子様は? なんか前にちらっと見たような気もするけど……」
「…………ええと……」
呻きつつ──、士郎は再びイリヤ、つまり凛へと視線を送る。
(なんとか、それっぽくしてくれ)
という意味合いをくみ取ったのか、イリヤは大きく顔を引きつらせ、ぶんぶかと首を横に振った。
(無理、無理だって……!)
が。
「ええと……改めて紹介するよ」
と、士郎はぎこちない笑みを浮かべたまま、強硬策に出た。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。俺の……ま、まあ、親戚みたいなもんだ」
「へー」
あっさりと頷く蒔寺。
「え、えっと──」
イリヤは半笑いを浮かべたまま、
「こ……こんにちはお姉ちゃんっ。イ……イリヤスフィール、だよっ? え──ええええええと、イリヤって呼んでねっ?」
と。顔を真っ赤にさせながらも、『えへっ』とはにかみ、『ぴっ』と指を自分の頬に突きつけ──、そう言ってのけた。
『〜〜〜〜〜〜〜〜……っ!?』
……その後ろでは、カレンと桜、そして士郎までもががびくびくと肩を震わせて悶絶していたりするのだが。
「………………………………………………後で、殺す。」
エガオを作ったまま、しかし眼の中は限りなく濁り染まった状態で、ぼそりと呟くイリヤ。
「あ、うん、よろしくー」
こちらの状況には気づく様子もなく、蒔寺があっさりと頷く。
(とりあえず、一難去ったか……)
はふう、と内心胸を撫で下ろし、士郎は嘆息する。
さて、これからどうしたものかと頭をかこうとして──
「ん……?」
見ると、その手が未だ凛と繋がれたままだった。
蒔寺も気づいたらしく、二人の手を指差し、わめく。
「つーか手! 手―!」
『あ。』
慌ててばっと右手を離す士郎。凛はそれに不満そうだったが。軽く右手を握ったまま、もうっ、と口を尖らしている。
「な、なんだお前ら、いつからそういう関係に──」
「ち、違うんです先輩たちはそんなんじゃなくてっ……っ」
慌ててカレンが反論しようとするが、蒔寺には届かないようだった。やけに遠い眼差しで、生暖かく二人を見守っている。
「……成程、ふたりは、ラブラブ……そうかぁ、ラブラブかあ、ふふふふふ──」
「や、違う。違うぞそれは」
耳を赤く染めつつ顔を真っ青にするという器用な芸当をしてみせつつ、士郎がぶんぶかと首を横に振る。
「そそそそそそうよ、全くもう何言って──」
同様にイリヤもまたあははは、と空笑いを浮かべながら──
『……ん?』
一斉に、首をかしげる。
「や、違うぞとおさ、じゃなくてイリヤ。ここで突っ込むのは遠坂なんだから……!」
「わ、わかってるわよ、ちょっと反射的に言っちゃったのよ……!」
瞬時に蒔寺から離れてぼそぼそと言い争う二人。
「おぅい……?」
ぽつんと所在なさげに呻く蒔寺。
「や! 違うんだ、な、なあ遠坂?」
言いつつ、士郎は凛の顔をじっと凝視する。何かを懇願するように。
その視線に気づいたのか、横にぼんやりと立ったままだった凛は顔をあげる──
(イリヤ、わかってるな。空気だ、空気を読んでくれ頼むから!)
と言う士郎の心の叫びを聞きとったのか、彼女はこくりと頷いて、
(うん、わかったシロウ、えっと、じゃあ私は恋人なんかじゃないって言えばいいんだよね?)
きゅ、と唇を結んで凛はしっかりと頷いて──
「あれ、でもごめんシロウ。私恋人でも全然いいよ?」
──しれっと軽く右手を握ってそう言い切っていた。
「ってなにをさらりとおっしゃってますかこの悪魔っ子はー!?」
「そそそそそうよばかー! アンタがよくてもわたしが困るのよー!」
てへ、と笑う凛に、またもや一斉に突っ込む士郎とイリヤ。奥では何やらカレンがひくりと口元を引きつらせ、桜はぼんやりと三人の様子を眺めている──が、ふいにぽつりと、
「まあしかし、今さら手くらいで──という感じもしますが」
「さ、さくっ……!?」
うげ、と呻く士郎をよそに、
「……ほほーう?」
蒔寺はぴくりと眉を動かすと、興味津々と言った様子で桜へと詰め寄った。
「ち、ちなみに普段はどんなことをやってるの?」
「そうですね。いつもは縛ったりなじったりいじったりと言う感じですか」
桜はあっさりと顔色一つ変えずに平然と答えた。
「う……うわぁ……」
完全に引いた様子の蒔寺に、士郎は慌ててぶんぶかと手を振る。
「ちっ、違う! 俺じゃない、俺は一方的にコイツにやられるだけで──」
──どさっ。
と、ふいに背後から、何かが落ちたような音が響いた。
「誰っ──!?」
鋭く誰何しながらイリヤが振り返る──。
その視線の先には、ひとつの人影があった──。
7.
「誰っ──!?」
そう叫ぶイリヤの声を耳にとらえつつ、士郎は背後を振り返る──と、そこには。
──美綴 実典の姿が、あった。
その横には鞄が転がっている──先ほどの音はこれが落下したものだろう。
今までの会話は、恐らく聞かれていたようだった。彼は顔を青ざめさせ、同時に怒りに震えているようでもある。ゆっくりと──実典が唇を噛みしめつつ、士郎へと足を踏み出して──
「あ……」
その様子を見て、カレンが慌てて一歩前に出る──
──よりも早く。
「……誰ですか?」
そう、不思議そうな表情で桜が──無論、中にいるのはカレンだが──、士郎へと尋ねた。
ばったり。
実典は一言も発することなくうつぶせに倒れた。
「……うわあ……」
「……今のは……ひどいわねえ……」
思わず士郎とイリヤがぼやいているのだが。
一方凛は未だ立ち止まったままであることに不満そうだった。ぐいぐいと士郎の手を引っ張りつつ、
「ねえちょっとシロウー、まだかかるのー?」
口を尖らせてそう喚いている。
「あ、ああ………」
半ば上の空で呟く士郎に、凛はぷーと頬を膨らませる。
「もうっ」
呻いて、いい加減一向に足が進まないことにじれたのか、握っていた手を強く掴むと、
「こんなの全然つまんないっ。ほらほら、早く行こうよっ、お兄ちゃんっ」
士郎の腕をぐいっと引っ張り、意気揚々と走りだそうとする凛──
「え、あ、ちょっと待てって──」
うわ、と悲鳴をあげつつ、士郎もなすがままにそれに引っ張られて──
どんっ!
そこで歩行人とぶつかり、凛はたまらずよろめいた。士郎が慌てて抱きとめる。一方相手はそれだけでは済まなかったらしく、地面に尻もちをついている。すみません、と言いつつ士郎は空いている手を差し出して──
「……衛宮?」
ぴしり、とその声に凍りついた。
そこにいたのは。
「慎二……?」
間桐慎二だった──
8.
「ちょっと士郎──って、」
息を切らせて、後ろからイリヤが交差点の角を曲がってやって来た。そして。
「…………………どんな遭遇率なのよ…………」
状況を確認するなりげんなりとして頭を抱えた。
「……なんか今日、呪われてたりするんじゃないのか?」
半ばやけくそな気分で士郎は言い捨てる。
一方慎二は士郎の隣に凛の姿まであることに気付いたのか、慌ててすっくと立ち上がると──口を歪めて士郎へと掴みかかった。
「おい衛宮、一体これはどういうこと──」
と、そこまで叫んだところで、さらに遅れてやってきた桜たちが目に入ったようだった。
ひくり、と口元を引きつらせつつ、標的を変える。剣呑な雰囲気を隠そうともせずに彼は桜へと詰め寄っていき、
「おい桜、お前一体何やってるんだよ……!?」
「……………………。」
桜はぼんやりとした眼差しで慎二を見上げた。そして。
「士郎、これは?」
くるりと振り返り、またもや平然と尋ねた。
ぴしっ。
慎二が手を前に差し出した格好のまま、硬直した。
士郎は半眼でのろのろと呻く……
「ええと……間桐慎二。今のおまえの兄貴だ」
「ワカメですよ?」
「ワカメでもだ」
「……なるほど」
こくりと頷くカレンの横で、ぼそぼそと士郎は囁いてから、はあ──と深く嘆息した。が、それでもなんとか立ち直ったのか、こめかみを押さえつつ、ぽんっとその肩に手を置いて、
「ええとなカレン。せめてこう、正体隠す努力はしような……?」
「……演技とは難しいものですね……」
遠くを眺めつつ、きっぱりと桜は言い切る。
その前方では、『はっ』と我に返った慎二が再び手を伸ばしてくる。が、士郎はそれに気づいた様子もなく据わった眼差しで、カレンへと視線を投げかけた。
「いや努力した様子かけらもないし。完璧素だし。つーかアンタあれだよな。空気読めないタイプだよな?」
「うるさいですねこの●●」
眉をひそめ、桜がわずらわしそうに呻く。
──それは、今となっては何という事のない、二人のやり取り。
軽口程度の意味しか含まない、特筆すべきようなものですらない、ただの掛け合いのようなもの──
──で、あるはずだったのだが。
今、その言葉は。
間桐桜の口から発せられたのである──
『…………………………………。』
間桐慎二。
追いかけてきていた薪寺。
未だ道路に打ち捨てられているままの実典──には、幸いにも、届かなかったかもしれないが。
ともあれ、その言葉が。間桐桜がその単語を口にしたというその事実が。そしてそれがどういう意味をもたらすのか。その結論が、場を、完膚なきまでに凍りつかせている──。
「………………………………………え、ええと……」
呻き声は士郎のものだった。
びっしりと顔全体に汗を流しつつ、しかし何をするでもなくただただ硬直している。
「……おい、衛宮」
ゆっくりと──、慎二が呻いた。今までよりも低い据わった声だった。
「……………な、なにかな?」
びっしりと全身に汗をかきつつ、士郎は後ずさりしながら呻く。
ざっ──。
慎二は一歩士郎へと歩み寄りながら──引きつった笑顔を浮かべて見せた。
「お前……、ひとんちの妹に何してるんだ……?」
「ちっ、違う──、違うんだ慎二。実は今の桜は桜じゃなくて──」
ぶんぶかと首を横に振って言い訳しようとする士郎──その横で、桜がぼそりと、
「──またまた。どうせ本体も色々と、」
「あああああっ!? アンタあれだな、確信犯だなこんちくしょー!?」
半泣きになりながら手をわななかせる士郎──
その横手から、声がひとつ、ぽつりと。
「ふうん──? 衛宮くん、今の話興味深いわね。よく聞かせてくれないかしら──?」
──そこにいるのは。
あかいナニカを纏った、しろい少女である──。
「ち……ちがう、違うんだ遠坂──」
顔を青ざめさせつつ、士郎は後ずさる。
「ちょっとお兄ちゃん、早くいこうよー」
場の雰囲気を一切無視しつつ、ぐいぐいと手をひっぱる凛。
「ち、違うんです……あれはわたしじゃなくて、でもわたしで……ああああああああああ」
現在起こってしまった事態やら発言やらにひたすら頭を抱えるカレン。
「まあそれどころかほとんどの人はそうみたいですけどね」
何やらぼそぼそと呟いている桜。
士郎は最早反論する気力もないのか、真っ白になりながら、ふるふるとただ首を横に振っている。
ざっ──。
足音がした。
士郎は、のろのろとぎこちなく振り返った。
「う──うふふふふふふ。さあ、覚悟はいいかしら士郎────?」
そこに立つは、にっこりと笑顔を浮かべながらこめかみに巨大な怒りのマークを浮かべるイリヤ──
その後ろに控えるのは、同じく妙にどす黒いオーラを背負った面子の姿があって──
「って、」
ふるふると首を横に振りつつ、士郎は。
「なんでこうなるんだああああああああああっ!?」
と言う絶叫を残して一転、地面を蹴りあげ半泣きになりながら士郎は一目散に駆けだし──
『逃・が・す・かああああああああああああああっ!』
寸断挟まず、複数の怒声がそれを追撃した──
9.
「あああああああああああっ!?」
と叫びながら、士郎はひたすら足を前へと放り出していた。
「待ちなさいこのへっぽこー!」
声が聞こえて振り向けば──、ほんの十数メートル後ろ離れたところにイリヤや慎二が後ろから迫り来ていた。
「く……!」
歯噛みし、ますます表情を引きつらせながら士郎は視線を前へと戻した。と──
前方、一つ向こうの路地から金色の小柄な少女が、ひょっこりと飛び出してきていた。手には大きな紙袋、反対の手ではたい焼きをもって、やたら幸せそうな表情を浮かべて道を歩いているのは──
「セ、セイバー!」
見慣れたその姿に向って、士郎は必死に叫んだ。
呼ばれたセイバーはと言えば、ようやく気付いたのか、たい焼きをかじりつつ、ん? と士郎へと振り返った。
彼女は一瞬ぱっと顔を輝かせ──そしてすぐに、その表情は戸惑うものへと取って代わった。目をぱちくりとさせてから、士郎とその背後に迫りくる集団を交互に見比べ、わたわたと手を動かす。
「……え? あの、これは一体──」
「セイバー、その馬鹿つかまえなさい!」
士郎の背後からイリヤの怒鳴り声が響いた。
「は?」
首を伸ばし、奥からこちらへと向かってくるイリヤたちに聞き返そうと口を開いて、
「セイバー、あいつらふっ飛ばしてくれー!」
その直後、ばっと手を振るいつつ必死の形相で士郎が叫んだ。
「え?」
視線を手前へと戻す。
「セイバー!」
イリヤが、
「いえ、あの」
「セイバー!」
士郎が、猛烈な気迫とともに、その名前を呼び掛ける。
「で、ですから──」
目を白黒させる彼女に、
『セイバーっ!』
二人が名前を連呼する──。
「とっ、とりあえず──」
言いながら、瞳の中にぐるぐるマークを浮かべたセイバーは、手にした紙袋の中からたい焼きを引っ張りだし──
「えいっ。」
かけ声と同時、それを走り寄ってくる士郎の口へとすれ違いざまに『ぎゅむっ。』とねじ込んだ。
『いや、なんでよ。』
……全員が一斉に突っ込んだ。
いえあの、とセイバーはわたわたと手を振りながら、
「たっ、たべものでも食べればおちつけるかと思いまして──」
「いや、落ち着かせる必要あるのあっちだからな?」
もが、と口からたい焼きをひっぱりだし、それとあとセイバーもな、と『ぽんっ』と肩を叩いて──、士郎。
そして。その彼の肩に、さらに『ぽんっ』と手が置かれた。
「あっはっは。まあ結果オーライよね。──ん、セイバーよくやったわ」
「…………………ええと……」
だらだらだらだら。
汗を垂れ流しつつ、士郎はぎこちなく首を動かした。
そこには。やたら据わった眼差しを浮かべている凛の姿があって──
「とっ、遠坂……さん?」
ひくり、と口を引きつらせつつ、士郎は恐る恐る呟いた。凛はひらひらともう片方の手を振りつつ、
「はあい士郎。ところでもう覚悟は当然出来てるのよねー?」
「覚悟。一体何の覚悟でしょうか」
じりじりと。少しずつ体を捻りつつ、士郎は視線を横に逸らしたまま。凛はにっこりと満面の笑顔を浮かべながら、
「あっはっは、決まってるでしょー? ──ヘチ殺される覚悟よへっぽこ」
途端真顔になって──、そう告げる。
「……いや、ええと…………」
流石に顔を引きつらさせ、士郎は呻く。と。
『…………ん?』
そこで、凛を含めた五人が首をかしげた。
士郎はぱちくりと瞬きをしてから、びっと凛を指差して、
「あれ。遠坂、遠坂なのか?」
「え? ん?」
言われてようやく凛は慌てて『ばっ』と自分の体を見下ろした。にぎにぎと手を広げ、ぽかんと口を開けたまま頷く。
「あれ、ほんとだ……」
「あ、わたしもですっ」
言われて桜もきょとんとした声をあげた。士郎が続けてカレンを見ると、彼女は無表情のまま、
「残念。もう元に戻りましたか……」
「ん、そうみたいね」
言いつつ、肩を竦めてみせたのは──イリヤ。そんな少女に桜はぱんと両手を打ち合わせながら、
「でもよかったですねっ」
「ん? 何、何の話?」
と──事態についていけないのか、蒔寺がずいっと身を乗り出して訪ねた。ああ、と凛は腰に手を当てながら、
「そっか。そういえばアンタたちいたのよねー」
と、そう言って──
『…………………。』
どこか、微妙な空気の沈黙が場に落ちた。
「……色々、見られたわよね、桜……?」
ぽつりと呟いたのは姉だった。
「そう……ですねえ……」
しみじみと、遠い目をしながら頷いたのは妹だった。
「うん、じゃあもうあれよね」
言いつつ凛はにこりと微笑む。──ゆらり、と。その背後の景色が歪む。
「はいっ。やることは一つしかないですよねー」
頷きつつ桜もまたそっくりの笑顔を浮かべる。──ぎしり、と。その周囲の空間が音を立てる。
そして──完全に及び腰になりながらも、そろそろと慎二が口を挟む──
「と、遠坂──さん? な、なんか目が怖いんだけど……?」
凛は足を慎二たちへと向けながら、
「あっはっは。気のせいよ間桐くんと言うわけで死になさい?」
「なんでだっ!?」
たまらず叫ぶ慎二、その横では蒔寺もまたふるふると首を横に振りつつ、ずりずりと後ずさっていて──
「…………くっ!」
一気に後ろへと振り返り、ダッシュする!
「って、待ちなさいあんたたちー!」
すぐさま凛たちが二人を追撃しにかかる──
──そして。一番事態に付いていけないセイバーが、くいくいと士郎の服の裾を引っ張り、尋ねていた。
「あ、あのう、これは一体……?」
士郎はぼんやりと半眼で小さくなっていく四人の姿を見送りながら、
「いや、まあ……要するにいつも通りってことでいいと思うけどな……」
そう口を濁し、小さく苦笑する──
──昼前。住宅街の一角に、悲鳴と絶叫が木霊していた──。