forever love,forever dream
ロンドン市街の外れ。古びたアパートメントの一室──。
きゅ、きゅっ──
壁にかかったカレンダーの12の日付の上に、×印に赤のマジックが引かれる。
それを満足げに眺めて、黒髪の女性はよし、と頷き、囁くように呟いた。
「あと……三日、か」
無地の赤のセーターに、黒のパンツというラフな格好の美女だった。長い黒髪を無造作に下へ垂らしている。飾り気は決してないが、すらりと伸びた手足と理知的な瞳がそれらをまとめあげて一つのスタイルに仕上げているような──そんな女性。
かちゃっ……
奥の扉が開き、今度は金髪の女性が柔和な笑みを湛えて現れた。
「シロウが戻ってくる日ですか」
手に紅茶のカップの置かれたトレイを持った少女は、黒髪の女よりも幾分か年下のようだった。白のシャツに紺のスカート。金髪は頭の後ろで結わえ上げられている。こちらもやはり恐ろしいほどの美少女だった。小柄な体躯には、しかし一切の隙がない。見る者が見る者ならば彼女が只者ではないことに気づくだろう。
黒髪の女性──凛はくるりと振り返ると、破顔した。
「そう。あー、待ったかいがあったわ」
そう言って、ありがとう、と言って紅茶を受け取った。
その様子を柔らかな微笑みを浮かべて、セイバーは見守っている。
「そうですね──実にその通りだ」
そっと目を閉じ、静かに、噛み締めるように呟かれたその言葉には、いくつもの重さと、そして思い出が含まれているような響きがこめられていた。
手を擦り合わせ、凛は再びカレンダーを見上げた。
「三年かぁ……」
目を細め、呟く。
「ねえ、セイバー?」
カレンダーから視線を外さずに、凛はそっと呟いた。まるで……そうしなければ壊れてしまうと言うように。
「わたしからっていうのもどうかと思うけど、でも……もう、いいわよね」
セイバーはその言葉に、静かに頷いた。
「そうですね。ずいぶん待ちました。そうですか、もう三年になるのです……」
ね、と言ったところで、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。
体の向きの変えた凛を手で制して、セイバーは素早く電話へと手を伸ばし、受話器を取った。
「はい、トオサカですが──は?」
ぽかん、と。
セイバーが口を開けた。
そして次の瞬間、がばりと受話器を握り締めると、
「シロウ──? シロウなのですか!? 一体どうしたのです……!?」
/
「ねえ士郎―。士郎はわたしのこと、好き……?」
甘ったるい声と、瞳と。
二つを絡めて、重ね合わせて、凛は尋ねる。
「う……なんなんだよ遠坂、いきなり」
対する士郎は困ったように身を引いた。
が、それを逃がさないとばかりに鏡に手をつき、凛は再び妖艶に笑う。
「いいから答えてよ。──ね、どうなの?」
「……そりゃあ好きに決まってる」
そっぽを向いて、士郎は赤面しながらぼそぼそと答えた。
「ありがと。──わたしも大好きよ、士郎」
「……うん、そうだな」
士郎はぽりぽりと頬をかきながら、照れくさそうに呟いた。
凛はますます笑みを強めると、
「ねえ、それより士郎、わたしそろそろ子供ほしいなあ?」
「う……ま、まだ早いだろ、そういうのはさ。俺たちまだ結婚も──」
「──じゃあ」
にんまり、と。唇に笑みを湛え、凛はすかさず告げた。
「しちゃいましょう?」
「あ、あのなあ」
鏡の中の士郎が困ったように視線を逸らす──その直後に。
「失礼、少しいいですか」
凛の背後からぬっと現れたセイバーが、唐突に口を挟んだ。
「……セイバー、貴女ね」
あからさまに不機嫌な口調で唸る凛の言葉をさえぎるように、セイバーは静かに、だが反論を許さない口調で、
「そろそろ時間です。これ以上は危険かと」
「……そっか」
すとん、と肩を下ろし、凛は嘆息した。名残惜しそうに鏡へと視線を送り、ひらひらと手を振る。
「じゃあ士郎、そういうわけみたいだから。また今度ね」
「ああ、遠坂。待ってるよ」
士郎もまた苦笑しながら、手を振りかえしている。
「…………」
そしてセイバーは、その様子を黙ったまま、辛そうに見ている──。
/
アパートメントの壁に、一つの写真が飾られていた。衛宮士郎。遠坂凛。そしてセイバー。三人が並んで写っている、少々色褪せ始めた写真。右端には赤い染みがこびりついている。
それを見上げ、セイバーはモップを動かす手を止め、嘆息した。
「シロウ……」
──ごめん、セイバー。帰れそうにない。遠坂にもごめんって……伝えてくれ……
それが、最期の言葉。
受話器ごしにその声を届け、電話は途切れた。
──それが何を意味するのかがわからないほどに愚鈍でもなく。どうしたのかと問いかける凛に対してセイバーはぎこちなく、ただ笑みを浮かべていた。
あまりにも残酷な現実を話す気にもなれず、かと言ってそのまま何もなかったように放置するほどに強くもなく、結局セイバーは凛に黙って士郎の元へと飛んだ。
捜索は、さほど難しくはなかった。
エミヤシロウという名を出せば、誰かしら反応したからだ。
二日ほど聞き込みをして、呆気なく士郎の居場所を突き止めた。
中東の外れの小さな村の一室に、彼の遺体は安置されていた。
死因は出血死。子供が銃撃戦に巻き込まれかけ、それをかばって撃たれた。
遺体は持ち帰らず、その地に埋葬した。
赤いペンダントに、三人が写った写真。多少の紙幣。赤い宝石。お礼の書かれた数枚の手紙(以前士郎が何かの事件に関わった際、もらったものだろう)──それだけが彼の持ち物だった。
彼がかばったという子供は、その隣に冷たくなって寝かされていた。
──そこで初めて、セイバーは目に涙を浮かべた。
結局、それらの持ち物と遺髪、そして凛が士郎にプレゼントした宝石を持ち帰り、セイバーは帰国した。
凛に話すのはためらわれたが、彼女の執拗な詮索にまけ、結局セイバーは事実をありのまま話した。
持ち帰った品々を見て、凛は泣き、錯乱し、そして倒れた。
病院に通院したのは一週間ほどだった。
精神的なショックだろう、と医者は診断した。
──アパートメントに帰ってから、凛は工房にこもるようになった。
時計塔にもいかなくなった。
ルヴィアゼリッタは何も言わなかった。
魔力供給だけは行うが、凛は外に出なくなった。
会話もなくなった。
「もう……終わりなのでしょうか……」
その問いに答える者は誰もいないが──
「……出来た」
かちゃり、と扉が開くと同時に低い声が飛び込んできて、セイバーは振り返った。
そこから現れたのは、凛だった。髪はぼさぼさで、顔色も悪い。目の下には隈が出来ていた。風呂にも入っていないのだろうか。体臭が鼻をつき、セイバーは鼻をしかめた。
──凛が工房にこもるようになって、7ヶ月が過ぎていた。おおよそ以前の凛とはかけ離れた風貌になっていた。
「リ──凛……?」
セイバーは動揺を隠し切れずに呻いて一歩下がった。からん、とモップが床に落ちた。
凛はセイバーに様子は気にせず、つかつかと詰め寄ると、肩を掴んだ。
「出来た……出来たのよ、セイバー!」
充血した目で見つめ、喚く。
「な────にが、です……か?」
なんとかそれでも聞き返すと、彼女は髪を振り乱して、
「士郎よ!」
叫んだ。
「士郎がいるのよ……!」
「凛……貴女は、まだ……」
セイバーは弱々しく呟いて力なく頭を振った。
「いいから、こっち!」
凛は強くセイバーの腕を掴むと、工房へと歩き始めた。ゴミと資料と宝石が散乱した部屋を見てセイバーは顔をしかめるが、彼女は気にした様子もなく、部屋の中央に置かれている鏡を指差してみせた。
「これよ!」
「鏡……ですか?」
大きな鏡だった。縦は1メートルほど、横は50センチほどの長方形。淵には無数の宝石が張り付いていた。
凛は低い声で解説を始めた。
「そうよ。鏡面での部分的な世界の結合。平行世界ってのはそれぞれ独立していて、例え元々一つのルートから発生したものだとしても、基本的に二つは交わることはないって言うのはセイバーも知っているわよね? でも擬似的に結合なら出来るんじゃないかって思ったの。この鏡は境目。鏡ってのは本来なら自分自身を映すものだけど、これにはゼルレッチの技術を応用してあって──」
まだ続く彼女の説明はセイバーには半分も理解出来なかった──が、この鏡が何をもたらし、そして彼女が何を望んでいるのかは嫌と言うほどに理解できた。
つまりね、と言って凛はそっと鏡に手をかける。
「──これは、この世界と、別の世界を擬似的に繋げることが出来る」
「……それは、つまり」
遠慮がちに呟くセイバーの声に大きく頷き、凛はばっと手を振った。
「そう。ここに映っているのは別の世界。ここではない、士郎がいる世界。だからこの奥には──アイツがいるかもしれない。ううん、絶対に探し出してみせる……!」
こんこん、と淵を叩き、凛は血走った目を歪めた。
「……勿論この境目は絶対。見ることが出来てもあっちに行くことも、触れることも出来ない。音が聞こえるのかもわからない。技術も不安定だから、つないでいられる時間も極めて限られる。でも、今はまだ不可能ってだけで、絶対に無理ってわけじゃないわ。だから──いつか、それも可能にしてみせる……!」
「……凛。貴女は…………」
血走った眼差しでそう宣言する凛に、セイバーはもうそれ以上何も言えなかった。
/
嘆息ならばいくらでも出来た。
セイバーは居間の清掃をこなしつつ、恨みがましい視線を工房へと向ける。時計を見て、もう一度嘆息。もうすぐ今日が終わる。
──あの鏡が出来てから、凛は再び外へ出るようになった。
きちんと身だしなみにも気を使うようになり、以前の凛に戻ったかのように見えた。
「…………凛。今日は……」
言ってセイバーは部屋の壁に張ってあるカレンダーを見て、再び嘆息した。
カレンダーは、5ヶ月前のページのままめくられていない。5ヶ月。つまりそれはあの鏡が完成した時だった。
「今日が……何の日か、わかっているんでしょうか……」
凛は鏡の中の士郎と、毎日話すようになっていた。
そのために──生きるようになっていた。
「こんなのが……」
そこまで呟き、うな垂れる。
「……シロウ」
呟いて、写真を覗き込む。
「貴方は──幸せでしたか」
写真の中の士郎は、笑っている。
「その生き方を貫いて、後悔は──なかったのですか」
士郎だけではない。凛も、そしてセイバーも笑っている。
「……私は、わからなくなってきた」
ぎこちない微笑みを浮かべ、セイバーはそっと視線を写真から外した。
「これから、どうすればいいのかが、もう──」
自嘲するように嘆息し、工房へと目を向ける。
半開きになった扉からは、凛の笑い声が響いてきている──
──ぐっ
いつの間にかモップを握る手に力が込められていることに気づき、セイバーははっと目を見開いた。
「……そうだ。そのことは、もう、誤魔化しようもない……」
囁いて、セイバーはのろのろと工房へと歩き、扉を数回ノックした。
「凛、少しいいですか」
告げて、そのまましばらく待つ──が、返答はない。
「凛」
今度は先程よりもやや強く、ノックをする。が──やはり返事はない。
「──凛!」
どばんっ!
感情の暴発に任せて乱暴に工房の扉を開け放ち、叫ぶ。
なあにー、と奥から呑気な声が聞こえて、セイバーはもう一度唇をきゅっと結ぶと、胸を張ってそちらへと向かっていった。
そこに広がるのは見慣れた光景。凛と、鏡の中の士郎が雑談をしている。会話の内容は出来る限り聞かないようにしていた──凛から、セイバーも士郎と話せばいいのに、と初めのうちは何度も誘われていたが、彼女は決して首を縦に振ろうとはしなかった。そのため一ヶ月を過ぎたころから誘いの声はかからなくなり、次第に二人の会話も減ってきていた。
「…………。」
鏡の中の士郎もまた、積極的にセイバーと話そうとはしない。どこか遠慮しているようだった。
見慣れた光景だというのに。何度見ても、慣れることはないのか──と、セイバーは二人の姿を見て一瞬息を呑む。
「どうしたのよ。もうご飯の時間?」
視線を鏡に送ったまま、凛は呟いている。
すっと息を吸い込んだ。それで決意を固めて、凛へと近寄り、その手を掴みあげる。
「来て下さい」
低く唸るように、囁いた。
「って、セイバー?」
「いいから、来て下さい──!」
切羽詰ったように鋭く叫び、セイバーは無理矢理凛を工房から引きずり出した。名残惜しそうに鏡の奥の士郎に視線を投げかけている凛を見て、また苛立つ。
──バタン
工房へとつながる扉を閉め、そこでようやく、セイバーは大きく息を吐き出した。なんなのよ、と凛は呟いているようだが、あえて無視しておく。
「……いつまで──」
言って、かぶりを振る。
「いつまで、こんなことを続けるつもりなのですか」
凛は紅茶を口に運びながら、
「いつまでって。そんなのずっとよ。……そうね、前にも言ったけど、そろそろ本格的に鏡面の──」
「──そうではないでしょう!」
叫んだ。声が震えた。なによ、ときょとんとしている凛に向かって──、
「あれ、は……」
悲壮な覚悟を決めて────続ける。
「あれは──あれは、シロウではないでしょう!」
言って──
凛の視線が急速に底冷えするものへと変化した。空っぽだ、と一瞬、そう思う。殺意すら篭っているのではないかと思いぞくりと身を震わせるがしかし、セイバーは怯むことなく続けた。拳を握り、かぶりを振って続ける。
「あのシロウは……わたしたちと一緒に過ごして、凛が愛したシロウでは……ないのですよ……」
「士郎は士郎よ」
すかさず凛が告げる。くだらない、そうも呟いているようだった。
「確かに同じ過去を共有していないかもしれない。違う人生を送ってきたのかもしれない。でも、それでもあれは衛宮士郎よ」
「貴女はそれでいいのですか」
「いいわ」
凛は真っ直ぐな視線をセイバーに向け、頷いた。
「思い出はこれから作っていけばいいのよ」
ぎしり、と音が響く。
自分が手を握る音だと理解する。
「────それでは!」
だん!
拳を壁に打ちつけ、セイバーは絶叫した。が……なんとか自制すると、やや口調を抑えて、そしてすがるような眼差しで凛へと向き直った。
「それでは……私たちと共にすごしてきたシロウは、どうなるというのです……?」
ヤメルベキダ──
心のどこかが警鐘を鳴らしている。だが止まらない。言葉が溢れてはじける──。
「死んで……凛にも見捨てられ……そんなのはあんまりだ……」
「見捨ててなんかいない」
凛は厳しい目で静かにかぶりを振り、そっと胸に手を当てた。
「思い出は残るわ」
「……そしてその思い出とやらを、切り取って、姿が似ている別人に重ね合わせるのですか」
「…………」
凛は沈黙した。
セイバーは一歩。一歩だけ凛へと歩み寄ると、優しい口調で続けた。
「凛、貴女は弱くなりましたね」
また、一歩。
「以前の貴女なら、士郎の死を乗り越えられたでしょう。ですが私はそれが悪いことだとは思っていません。貴女が変わったのはそういう過去を歩んできたからだ。過去にも、勿論貴女にも罪はない。あるとすれば、そう……」
最後の──、一歩。
手を伸ばせば触れられると言う距離まで近づき、セイバーは目を伏せて、そして。
「──凛、過去にはもう、戻れないのですよ」
「うるさい……」
うなされるかのように反射的に凛は呟いた。声が大きくなり、そして絶叫へと変わる。
「うるさい、うるさい、うるさいっ!」
がっ──
ぎろり──と殺意すら孕んだ瞳でセイバーを睨み、その胸倉を掴み上げる。セイバーは抵抗すらせず、なすがままになっている。
「じゃあどうしろって言うのよ!」
ほとんど鼻と鼻が触れ合う距離で、怒鳴る。
「わたしは、どうすればいいのよ!」
「それは──」
その勢いに押されたのか、セイバーはのろのろと視線を逸らした。が、激昂した凛が止まらなかった。
「……答えなさい、セイバー!」
「それ、は……」
セイバーは視線を彷徨わせてから、零れるように呟いた。解決策。あるはずだった。あるべきだ、と。そう思っていた。だが──。
「もっと……強く、あるべきだと……」
「随分、簡単に言ってくれるわね……?」
は、と鼻で笑いながら凛が顔を歪める。
「言うのは簡単よね。言葉なんて吐いたらそれで終わりだもの。強くなれ……? 随分と傲慢な回答ねセイバー。そんなの死にかけている人に向かって頑張れってだけ言ってるようなものじゃない。そうよ、言うだけなら簡単よね──!」
叫ぶと同時、手に力が篭る。セイバーは目を見開き、硬直している──
「こうあるべきだ、こうでないといけない──なんて。決め付けて、蓋をして、そんなの一番楽な道よね。だって迷わないですむもの。でもね、わたしならそんなコトはしない」
手を振り払うことすら出来ずに、セイバーはただ聞き入っている。
「可能性があるなら、例えどんなに低くなったってその道を──」
が。
「リン、違います。違うんです……」
ようやくセイバーは口を挟んだ。
「……貴女の作品を貶めるつもりはありません。そんなことを………言いたいのでは、ないのです……。あのシロウを否定するつもりも、リンの考えを否定するつもりもない。ただ──ただ、どうしても譲れないものも、あると言うことです……」
「何のことよ」
ぶっきらぼうな口調で凛は聞き返した。
「それは──……」
そこまで言って、口をつぐむ。
だが凛はそこで赦す気はないようだった。言いなさい、と視線で告げる。
セイバーは、小さく唇を開いた。
「……せめて」
悲しげに瞳を揺らし、睫を伏せて。
「せめて……自分で……気づいて欲しかった……」
「? セイバー、何の話よ」
眉を潜めながら、凛が聞き返す。
セイバーは深く嘆息した。
「凛」
あえぐように空気を肺に送り込んでから──真っ直ぐ、目の前の凛の瞳を、見つめる。その口調は、どこか──すがるかのような。
「今日が何の日か……覚えていませんか……?」
「何だっけ」
あっさりと呟く凛に、セイバーはためらう。まるで──それが──。
「私が言っていいのですか、凛」
最終勧告のような響きに、凛は少なからず動揺したようだった。視線をわずかに逸らしつつ、セイバーを掴みあげていた手を緩める。
「だ、だから何が」
ふ──
這い出された吐息は嘆息とも自嘲ともつかなかったが。
セイバーは凛の手をのろのろと払いのけると、とぼとぼと家の出口へと歩き始めた。
「私は──」
俯いたその表情は読みとれない。
「英霊だ。人々の思い出によってここにいるようなものです」
「……セイバー?」
凛の言葉に、セイバーはただ弱々しく首を横に振る。
「しばらく……ルヴィアゼリッタの所に世話になることにします。……悪いが今これ以上ここにいると……、何をするかわからなそうなので……」
押し殺した声の隙間から、明らかな落胆と絶望が見え隠れしている──。
「え──」
いきなりの展開についていけないのか、凛は目を白黒させている──が、それでもなんとか事態を把握したのか、セイバーがドアノブに手をかけたところで叫んでいた。
「待って──待ちなさいセイバー!」
その呼びかけにセイバーは振り向くことも、声を発することもなかったが──ノブを回す手だけは止めた。
凛は曖昧な笑顔を浮かべながら、恐る恐る尋ねた。
「今日って……何の日だったっけ……?」
キィ────
扉が開き、
「──シロウの、命日ですよ。今日は」
振り向くことなく呟かれたセイバーの声は、ひどく儚げに震えており。
乾いた音をたてて、扉が閉まった。
/
「……………………………今日って……」
セイバーが出て行って──
やけに広くなったその部屋に独り、ぽつんと立ち尽くして。
凛は、ふいに呟いた。
慌てて壁に張ってあるカレンダーに飛びつく──が、更新されていないそれからは読み取ることができない。続いて机の上に乗っていた新聞をひったくるように手に取り、日付を確認した。
「…………………本当、だ……」
ぽつり、と。
呟かれた声には、何の感情もない。
「今日……………士郎が、死んだ日だ……………」
くしゃり、と新聞が歪む。
「何、やってんだろ……」
ぽたり、と紙面に水滴が零れ落ちた。
「何でわたし、こんなこと、忘れて…………」
そう呟く凛は涙を流していた。
「………………そうだ」
ふいに彼女は呟いた。
「士郎……」
言って、すがるような眼差しを工房へと向ける。
「士郎に……ごめんね、って…………」
のろのろとした足取りが、次第に早足になる。
「謝ら、なくちゃ──ごめんね、って…………忘れて、ごめんなさい、って……」
早足が駆け足になる。
「士郎に……士郎なら、優しいから……だから……………」
工房への扉に手をかけたところでバランスを崩し、凛は転倒した。
「士郎……っ、士郎、士郎、士郎、士郎、士郎、士郎、士郎、士郎……っ」
呟きが呻くように。あるいはうなされるように。潰されるように──響く。なんとか立ち上がると、ふらつく足を引きずるようにしながら、鏡へと近づいた。
「──こら、やめろって……」
──先程のシステムがまだ起動していたのか、鏡の中には未だ士郎の姿があった。横から何かにじゃれつかれているのか、士郎はくすぐったそうに顔をほころばせながら、笑っている。
「士郎……!?」
ぱっと顔を輝かせて、凛は駆け出そうとして──
「なによう、またあっちのわたしと会話あ?」
ぴたり、と。
──足を、止めた。
聞き慣れた声が脳髄に響いた。
聞き慣れすぎていて、それでいて吐き気がするような甘ったるい声だった。
「いや、まだだけどさ」
士郎は笑いながら、体を寄せる。
「もうっ」
声がして、鏡の中にもう一人の姿が現れた。
顔は見えない。士郎に覆いかぶさるようにしているために顔は見えない……が、見えなくても、間違えるはずがない。
黒髪をツインテールにした、赤い服と黒のミニスカートを着た少女は、士郎にしなだれかかると、もうっ、と声を尖らせた。
「あのねえ士郎。確かにわたしが相手してあげてって頼んだけど、それでわたしをおざなりにするなんて許さないんだからね?」
「わかってるって。……愛してるよ、凛」
──凛。
それが、あちらの呼び方。
「あ……あれ……? わたし、遠坂ってしか……あれ……?」
その声は乾いていて。
とてもとても、空っぽに響いて。
「…………………………………………っ」
──それが限界だった。
凛は駆け出した。
ちょっと考えればわかることだった。あちらの世界に士郎がいるのならば。
自分がいても、おかしくはない──
「あは────は……」
ばたん、と扉を閉め、背中を預け……凛は笑う。
手で顔を覆い、震える唇から息を吐き出す。涙が手の隙間から零れ落ちた。
──どこで道を間違えたのだろう。
士郎が旅立つといったときに止めるべきだったのか。
それとも共についていけばよかったのだろうか。
いや、それ以前から、もう間違えていたのだろうか……?
選択肢はそれこそ無数にあったはずなのに──。
「その中から………なんで、わたしだけ………こんな……」
その後はもう、言葉にならなかった。嗚咽と慟哭と嘲笑と自嘲。涙。
──ではこれからは。
今のわたしに残された選択肢は?
一体なにがあるというのだろう。
士郎はいない。
セイバーにも見捨てられた。
残ったもの。自分に残ったもの。そこまで考えて気づく──。
「……なんにも……ない、や……………」
ふらり────と。
何かに誘われるように、凛は立ち上がった。
──何もない。
何もなかった。
誰も、いなくなっていた。
ひとりに、なっていた……
「あ……はは」
零れ落ちるのは笑い声。
「ははは…………は」
虚ろで、ひび割れた、泣き声のような笑い声だけ──
「……士郎」
──ようやく──気づく。
あの日から。
士郎が死んだ時から、
もう、壊れてたんだ……
「なんだ……じゃあ、もう」
──壊れてしまったのならば。
泣きながら、笑いながら凛はふらふらとした足取りで、自分の頭に指を当て──
──モウ、ナオルハズガ、ナイ。
「…………もう、いいや」
凛は笑う。優しい笑顔で……涙を湛えて。
「士郎、今いくね……」
そして──光が舞った。
/
「……あら、ここにいたんですの?」
ロンドン郊外、エーデルフェルトの屋敷の庭──
時計塔から帰宅したルヴィアゼリッタは、庭のベンチに座り、ぼんやりとしているセイバーを目に留め、よびかけた。
セイバーは小さく頷くと、ゆっくりと振り返った。
「……ええ。ここは……お気に入りの場所らしいので」
そう言うセイバーの横には、車椅子に座った凛がいた。
頭に包帯を巻いた彼女に瞳には、光は最早ない。
虚空を見上げ、ぶつぶつと呟き続けている。
──凛の自殺未遂を発見したのはセイバーだった。慌ててルヴィアゼリッタに連絡し、息のかかった病院に担ぎ込まれ、手術が行われたのだが──結局彼女の意識は戻らなかった。
正確には意識はあるのだが……外部からの声は一切届いていないようで、時折一人でぶつぶつと呟き、くすくすと笑っている。
「ミストオサカ……」
ルヴィアゼリッタはわずかに顔をしかめてから、そっと近寄り、身をかがめ、真っ直ぐに目を見つめた。
凛は小さく笑っている。
「私、同情だけはしませんわ」
そして……ふっと、瞳を翳らせる。
「それが……それが貴女に対する、最後の敬意ですから」
「……そうですね」
セイバーもまた、寂しげに笑った。
凛は空ろな瞳でぼんやりと前を見ている。
セイバーは小さく微笑を浮かべると、空を見上げた。
「夢を──」
ゆっくりと──眩しそうに目を細め、続ける。
「夢を見ているのだと……思うのです」
そして、そっと目を閉じる。
瞼から、一筋の涙がこぼれて落ちた。
「シロウと一緒にいる……夢を」
「……そうですわね」
ルヴィアゼリッタもまた、そっと囁いて空を見上げる──
セイバーは、くすくすと笑っている凛を、背後からそっと抱きしめた。
「だって……こんなにも、凛は幸せそうだ──」
笑い続ける彼女の瞳には何も映ってはいない──。
──何も、映ってはいなかった。